ルカの福音書24章 『聖書 新改訳2017』
1. 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
2. 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
3. そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
4. そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
5. 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
6. ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
7. 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
8. 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
9. そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
10. それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11. この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
12. しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った
イースター礼拝説教
2022年4月17日
ルカの福音書24章1-12節
「希望の朝」
おはようございます。そしてイースターおめでとうございます!
「早起きは三文の徳(得)」ということわざがありますね。朝早く目覚めると、一日を有効に使える気がします。普段できないことをしたくなります。近所を散歩したり、本を読んだり、家を片付けたり。朝早く起きると、なんだか得した気持ちになります。周りの景色も美しく見えます。
けれども、今日の聖書箇所に目をとめますと、朝早く辛い思いで、うつむきながら、床を出てきた女性たちの姿があります。ルカの福音書24章1節「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。」
主イエス様が十字架上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時でした。イスラエルでは日没=夕方太陽が沈むと同時に次の一日が始まります。今の私たちの感覚からしますと、金曜日の日没から土曜日になるということです。その土曜日はユダヤ人にとって大切な安息日。一切、仕事をしてはならないと堅く禁じられている安息日です。ですからイエス様のそばにいた人たちは金曜日の午後、暗くなる前に大急ぎでイエス様のなきがらを埋葬しました。
日本のような火葬ではなく、ユダヤでは岩をくり抜いたお墓にそのままなきがらを収める埋葬方法です。腐敗を防止し、臭いを抑えるために香料を塗る必要がありました。金曜の夕方には、ニコデモがささげたたくさんの香料(ヨハネ19:39)で香り付けされていました。それでも女性たちは、動き出しても良い安息日明けの日曜日の朝を迎えるとすぐに居ても立っても居られない思いで、準備しておいた香料を持ってお墓に向かったのです。
この時、女性たちはどんな思いだったでしょうか? 10節には「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たち」と紹介されています。彼女たちは一人ひとり、イエス様によって救われた人たちでした。罪を赦していただき、新しい人生を与えられた女性たちです。これまで3年間、イエス様に付き従って来ました。おそらくイエス様や弟子たち一行の食事や身の回りのお世話もしてきたでしょう。イエス様を信頼し、お慕いし、尊敬してきた。ずっとこのお方と共に歩んでいきたいと願っていた女性たちでした。
そんな彼女たちの目の前から、突然、イエス様が消え去ってしまったのです。むごたらしい方法で、苦しみうめいて死なれたのです。悪いことなど何一つしていないのに死刑判決を受けました。「パリサイ人や律法学者の陰謀にはめられ、無念の死を遂げた」彼女たちは、そう考えたのではないでしょうか。
深い悲しみ、大きな喪失感、絶望… 金曜日の夜以降、何度涙し、眠られぬ夜を過ごしただろうかと思います。けれども、悲しみの中にあっても、彼女たちには一つの使命がありました。イエス様のお体をきれいにしてさしあげよう。もう一度香料をお塗りしようと考えました。たとえ、もう息はしていないお体であっても、イエス様に会いたい、イエス様のおそばにいたい、そんな思いで、日曜日の朝、お墓に向かって行ったのではないでしょうか。ところが、24章2,3節 見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
当時のお墓は、岩を掘って造られた洞窟のようなもの。そこに、大きな石で扉がしてありました。彼女たちは金曜日の午後、イエス様がどこに葬られたのか、どのように葬られたのかをしっかりと見届けていました(23:55)。日曜日の朝、そのお墓に来てみると、あるべきものがあるべき場所にないのです。石が脇に転がっており、墓は空になっていたのです。
彼女たちの衝撃が、4節に「そのため途方に暮れていると」と表現されています。何が起こったのか理解できない…訳が分からないでいます。「えっ!なんで!!」、「どうして…」と悲鳴をあげたかもしれません。驚き、立ちすくむ彼女たちのもとに、二人の御使いが現れます。そして「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(23:5-7)と告げるのです。
まばゆい光を帯びた神々しい御使いの登場に、女性たちは面喰ってしまいます。御使いは「イエス様のことばを思い出しない」、「ガリラヤでイエス様があなたたちにお話しになったことばを思い出しなさい」と告げます。ルカ9章22節では、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」と、イエス様がガリラヤで語っておられました。実際にイエス様は、これまで何度もご自身の受難とよみがえりを予告しておられました。御使いは、あの時のイエス様のことばを思い出しなさいと語るのです。
「思い出しなさい」と語られています。それは、彼女たちがイエス様のことばを忘れていたということです。色々なことが次々と起こる中で、状況が急変する中で、彼女たちの心は揺さぶられていました。その渦中にあって、イエス様のことばが心から離れてしまっていました。目の前の状況だけに心が支配されていました。そんな彼女たちに、御使いは「イエス様のことばを思い出しない」と語るのです。
そして、24章の8節を見ますと、「彼女たちはイエスのことばを思い出した」のです。はっと我に返ったのです。「ああ、あの時、イエス様が語ってくださった通りになったのだ!イエス様は、本当によみがえられたのだ!」と、ここで信じることができたのです。続く9節では、「そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した」とあり、イエス様復活を確信した彼女たちは、大急ぎで、大喜びしながら、弟子たちのもとにかけていったのです。
彼女たちの姿を見ながら、なんてすてきな信仰を与えられていたのか!と、うらやましくなります。この段階では、彼女たちは、まだよみがえられたイエス様にお会いしていません。よみがえられたイエス様をまだ目撃していません。けれども信じたのです。 何を信じたのですか? キリストのことばです。「私は死ぬ、けれども三日目によみがえる」と語られたイエス様のみことばを信じたのです。みことばの通りに実現したと信じたのです。
ヨハネの福音書では、復活を信じようとしないトマスに向かって、イエス様が「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(20:29)と語られています。私はルカ24章を読みながら、この時の女性たちこそ、まさに「見ないで信じる人」幸いな人たちではないかと思いました。まだ見ていないのに、みことばを思い出し、みことばを信頼した信仰者。本当にすてきな信仰だなあと思います。
彼女たちの姿を見ながら、では、私たちはどうだろうかと思います。「目に見えないことなんて信じられない」、「本当なら証拠を見せてくれよ」と言いたくなる私たちではないでしょか。ここ数年の言葉にするなら、「エビデンスを示してください」でしょう。この時の弟子たちのように、女性の証言を「たわごと」(24:11)と判断してしまう。「そんなの作り話だよ、フェイクニュースだよ」と否定し、笑い飛ばしてしまう。私たちは、いつも人間の知恵・自分の知恵だけで判断してしまう。この世の常識に縛られてしまっている私たちではないかと思うのです。そして自分の判断が正しいと思い込んでいます。「死人が復活するなんてありえない、イエス様が復活するなんてありえない」そう言ってしまう私たちではないかと思います。
「キリスト教信仰」とは何かと考える時に、この「目に見えないものを信じる」ということが求められているのではないでしょうか。キリスト教信仰とは、福音を信じることですが、「福音」とは何かを語る際に、よく第一コリント15章が開かれます。先ほど聖書交読で読んだみことばです。
これが福音です。これこそ福音です。これだけが福音です。福音の内容は、いたってシンプルです。「キリストの十字架と復活を信じなさい。そうすれば、救われます。そうすれば、永遠のいのちを頂くことができます」という神様の約束です。福音の内容はシンプルです。けれども、この福音を信じること、信じ切ること、信じ抜くことは難しいのでないでしょうか? 2,000年前に起きたこと、日本からはるか遠くのイスラエルで起きたこと。それが本当であった。しかも私のためであったと信じること、それが信仰です。
私自身の力だけでは、福音を信じることはできません。自分のがんばりや、信じてやろうという思い込みで信じられるものでもありません。神様の助け、特に聖霊が私たちの心の内側に働きかけてくださらなければ、私たちは福音を信じることができません。ですから、私たちは「神様、私に信仰をお与えください。信じることができるように導いてください。聖霊が、私の心に臨んでください」と祈り続けていく必要があるのです。
信じがたいこと、実際に目撃していないこと、2000年前に起きたこと、この福音を私たちが子どものように素直な心で信じることができる。墓の前からかけていった女性たちのように、みことばを信じ、みことばにより頼むことができるのです。それは神様の導きと助けによってのみ可能です。
ルカ24章の女性たちは、日曜日の朝早く、家を出発し墓場に向かいました。悲しみ、うなだれて、とぼとぼ歩いていました。絶望的な朝でした。しかし、イエス様のみことばを思い出した時、そのみことばを信じることができた時、彼女たちの朝は、喜びの朝、希望の朝に変えられたのです。
「ああ、主は、今も生きておられる!」、「イエス様は、よみがえってくださった!」、「本当にイエス様は、神の子、救い主なのだ!」と感動し、感激し、喜びで満たされていきました。
皆さんは、毎日、どのような朝を迎えておられるでしょうか? 今朝は、どのような思いで朝を迎えられたでしょうか? 毎朝、気持ちの良い目覚め、うれしい目覚め、希望に満ちた目覚めでしょうか?
それとも、心が晴れないで、不安や恐れを抱いて朝を迎えているでしょうか? 経済的な心配、健康の不安、仕事の悩みや人間関係のこと、また家族のこと等々、あれやこれや思い煩いがあり希望を持てない。置かれている状況・環境の中で絶望してしまっている。そんな方がおられるかもしれません。
絶望してしまいそうな中で、力尽き果ててしまいそうな中で、私たちは、今日のみことばの女性たちのように、みことばを思い出していきたいのです。聖書のみことばを思い出していきましょう。聖霊に導かれて、神様の約束、みことばの約束を信じて生きましょう。
「主はあなたを守る方」(詩篇121:5)
「あなたは、わたしが主、あなたを救う者、あなたを贖(あがな)う者、ヤコブの力強き者であることを知る」(イザヤ60:16)
「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3)
このような神様のことばに、神様の約束にしっかりと、どこまでも、つながって生きましょう。祈ります。
父なる神様
イースターのみことばを感謝します。イエス様の復活を信じ、感謝します。
絶望してしまう中にあっても、どうか私たちが、みことばの約束を思い出すことができますように。みことばの約束を信じ抜くことができますように、お助けください。
日々の生活において、あなたのいのちのみことばを心に沢山たくわえ、それを記憶させてください。いざという時に、そのみことばが、私たちの大きな助けとなり、支えとなり、導く光となっていく、そんな体験をこれからも豊かに与えてください。
よみがえりの主、今も生きて、私たちのためにとりなしをしてくださっている主イエス様のお名前でお祈りします。アーメン
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
1. イエス様復活の事実は、あなたにどのような喜び、希望をもたらして来ましたか?
2. みことばを思い出すことが出来て、助けられて来た経験はありますか?
3. 神様の約束にとどまり続け生きるために、あなたに求められていることは何でしょうか?
お祈りの課題など
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