説教は、聖書のメッセージを人々に解き明かして、神様のみこころ(ご計画・目的・ご意志)を伝えるものです。 説教はその内容や性格、目的に従って、様々な種類があります。例えば「伝道説教」は、クリスチャンにはまだなっていない方々を、キリストの救いへと招きたいという目的があり、「牧会説教」は信徒の信仰の養いを目的としています。他にもクリスマス・イースターなど教会暦に基づく説教や、葬儀説教・結婚式での説教、教会学校でのメッセージ等もあります。 他にも、聖書からどのように語るのかという点で、以下の3つの種類に分けることができます。① 聖句が短く、インパクトのある「テキスト説教」 :聖書のごく短い1,2節をテキストとして取り上げ、そのテキストの各部分に即応していくようにとチャレンジが与えられる。② 聖書の世界に深く分け入る「講解説教」 :聖書の比較的長いひとまとまりの章節が取り上げられ、文脈の流れにそって語られる。同じ書(例えば「創世記」など)が最初から最後まで、順番にひも解かれていくものを連続講解説教と言う。③ テーマに導かれる「主題説教」 :ある決まった主題が説教の中心となり語られるもの。例えば「主の祈り」や「使徒信条」の一節一節が、聖書テキストに基づいて解き明かされたり、聖書の登場人物の歩みをたどりながら、私たちの信仰生活を見つめ直す「人物説教」などがあります。
ひとくちコラム
「礼拝って? ひとくちコラム」
礼拝説教(メッセージ)の前に、その説教で解き明かされる聖書箇所が司会者によって朗読されます。現代のように印刷や製紙技術の無かったいにしえの時代、聖書は各自で「読む」ものというよりも、礼拝で朗読者によって読まれ、教師から解き明かされて「聴く」神のことばでした。聖書の中にも、「― 祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、― 夜明けから真昼まで、― これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。」(ネヘミヤ記8:2,3)や、「それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」(ルカ4:16)と記されています。「読むこと」と「聴くこと」には、どんな違いがあるでしょうか? 本を読むことは、自分が主導権を握ることです。自分の好きな時間に、好きな場所で、好みの本の、好きな箇所を開くことができます。気分次第でそれを閉じることもできます。それに対して、誰かに朗読される話をじかに聴くことは、その語り手が主導権を持っています。聖書朗読を聴く私たちに求められている姿勢は、神のことばを前にして、「私の主導権」を主張するのか、それとも「神の主導権」を認めるかの問題です。礼拝で聖書朗読を聴くという姿勢は、私たちが自分の主導権を明け渡し、神様を私たちの主として受け入れる信仰の告白です。ですから、講壇...
司会者が礼拝に集った皆さんを代表して、神様に祈ります。その祈りには、神様への賛美、感謝、皆を代表しての罪の告白(悔い改め)、教会の神の家族や地域社会、国家、世界、被災地等を覚えてのとりなしの祈り(他者のための祈願)、そして、これから神のみことばである聖書が解き明かされるあたり、助け主なる聖霊が、語る者と聴く者の心に光を照らしてくださるようにと祈ります。 私たちもその祈りに心を合わせて祈ります。① 祈りに答えてくださる神様を信じて祈ります。「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」マタイ7:11② 全能の神様を信じて祈ります。イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」マルコ9:23 :主よ、私の心の目を開き、全能のあなたを見えるようにしてください③ 神様の最善を信じて祈ります。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」Ⅱコリント12:9 :私たちの願いが、神様の御心とは異なることがあることを、へりくだって受け入れます。異なっていても、神様の思いは私たちにとって最善であると私たちは信じます。なぜなら、神様は私たちを永遠に愛していてくださる天の父だからです。父は私たち子に最善を与えてくださるお方です...
私たちの教会では、第二・第四日曜日の礼拝の中で、神様から与えられた「十戒」のみことばを告白しています。「十戒(じっかい)」 わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷(どれい)の家から導(みちび)き出したあなたの神、主(しゅ)である。1. あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。2. あなたは自分のために偶像(ぐうぞう)を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。3. あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。4. 安息日(あんそくにち)を覚えて、これを聖(せい)なるものとせよ。5. あなたの父と母を敬(うやま)え。6. 殺してはならない。7. 姦淫(かんいん)してはならない。8. 盗んではならない。9. あなたの隣人(となりびと)について、偽(いつわ)りの証言(しょうげん)をしてはならない。10. あなたの隣人の家を欲(ほっ)してはならない。(『聖書・新改訳2017』 出エジプト記20章2-17節より〔一部抜粋〕)私たちは「戒め」とか「法律の条文」とか「ルール」といった言葉を聞きますと、どうしても堅苦しいもの。私たちの自由を奪い縛り付けるもの。窮屈な生き方を強いるもの。本音(現実)とは違う建前(お役所が決めた厳格な原理原則)。そんな負のイメージを持ってしまいやすいものです。しかし「十戒」(新改訳聖書では『十のことば 』と表されて...
「わたしは、天地の造り主(ぬし)、全能の父である神を信じます。」と始まる使徒信条は、紀元8世紀頃にまとめられました。しかし、使徒信条の原型となる「古ローマ信条」は、2世紀の後半には教会で用いられていたことが分かっています。「古ローマ信条」は洗礼志願者に対してなされた質問で、3つのことを「信じますか?」と問いかけるものでした。あなたは全能の父なる神を信じますか。あなたは、聖霊によって処女マリアから生まれ、ポンティウス・ピラトゥスのもとで十字架につけられ、死んで、三日目に復活し、死者の中からよみがえり、天に昇り、父なる神の右に座り、そこから来て、生きている者と死んでいる者を裁く神の子であるイエス・キリストを信じますか。あなたは聖霊と、聖なる教会と、体の復活を信じますか。 当時、異教からの改宗者が増大し、様々な異端的教えが教会に流入する中で、教会は正統な信仰の基本・真髄(キリスト教信仰とは何か)をコンパクトにまとめました。教会が聖書の示す正しい教えの内を歩めるように、代々の教会は使徒信条を告白し続けています。 使徒信条は第一に、三位一体の神を信じますと告白します。古代から現在まで異端とされる分派のほとんどは三位一体の信仰をゆがめて来ました。それは違うと告白します。 第二に、イエス・キリストが神と人の2つの性質を持つ1つの人格であること(二性一人格)を告白します。キリストが肉体をとって人...
日本の教会の礼拝では、『讃美歌』と『聖歌』が賛美歌集として長く使われて来ました。1970年頃、日本は「高度成長期」と言われる時代となり、音楽もフォークソングやグループサウンズなど、自由な雰囲気が広がる中、キリスト教の若者たちの間でもギターなどによる自由な賛美のスタイルを求める機運が高まりました。 フォークソング調の賛美が作られ、さらに海外のコンテンポラリー・ワーシップ・ミュージックの影響を受け、多くの海外の歌が翻訳され「ワーシップ・ソング」が歌われています。・フォークソング調の賛美 1970年代、海外の訳詞ではなく自分たちで作った賛美をギター一本ですぐ歌えるようにしたフォークソング調の賛美が多く作られました。『友よ歌おう』(太平洋放送協会編)シリーズなど、『讃美歌』と『聖歌』と違い、現代的で歌いやすく親しみやすい曲が多く生まれ、若者たちの間で歌われました。・ワーシップ・ソング 1980年代に入ると、賛美の新しいスタイルとして「ワーシップ・ソング」が教会の礼拝賛美に取り入れられていきます。多くは海外のクリスチャンミュージシャンたちが、コンサートのような形態で行う大規模な賛美集会で歌われた曲で、「私達」”we” や「神」”God” に代わって、「私」”I”「あなた」”You” といった言葉が用いられることが多くなり、ポップスのラブソングと似たような歌詞で、神への愛を表現しています。カ...
その日に指定された聖書箇所を、司会者と会衆(礼拝に出席されている皆さん)で、1節ずつ交代で読み進めていきます。私たちの教会では、その日の礼拝メッセージの聖書箇所(朗読される箇所)と関連する聖書のみことばを、交読箇所として選んでいます。例えば、新約聖書の出来事(成就した神様の約束)が礼拝メッセージで語られる場合、その出来事を預言している旧約聖書の箇所(前もって神様から与えられた約束)を交読したり、ダビデの人生での出来事(波乱万丈な)が礼拝メッセージで語られる場合、その時、詠んだであろう詩篇の詩(ダビデの祈り、賛美、信仰、心中など)を交読したりなどです。このことは、講壇から牧師が会衆へと一方的に語りかけるという関係だけでなく、会衆も礼拝に一緒に参加し、互いに応答しあうことを目指しています。皆さんお持ちの聖書が、様々な翻訳聖書であり、言葉遣いなどが所々違っていますので、聖書交読においては、声を合わせて交読するため、週報に掲載している『聖書・新改訳2017』のみことばを用いています。
神様は、ご自身の計画と私たち人間に対する愛と祝福を知らせるために、聖書を書かれました。聖書の本当の作者は神様ですが、神様は約40人の人々を用いて、約1,600年の時間をかけて(B,C.1,500年頃~A.D.100年頃)、聖書を書き上げられました。著者として預言者、王、祭司、医者もいれば、漁師、税務署の役人もいました。高齢者もいれば、若者もいて、文体にはそれぞれの個性が生きています。 しかし、聖書の内容には各巻の矛盾がなく、一致・一貫しています。 「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」Ⅱペテロ1:20.21 聖書は66巻の集まりで、イエス・キリストの誕生を境に、旧約聖書39巻、新約聖書27巻から成り立っています(3×9=27と覚えると良い!)。2,154ページに渡る分厚い聖書の前半3分の2が旧約、後半3分の1が新約です。この「約」は「訳」ではありません。「契約」、「約束」の「約」です。聖書は、神様と私たちとの契約・約束を明らかにしています。どんな契約でしょうか?旧約は、神様がこの世界と私たち人間を創造された出来事から始まります。そして、イスラエル民族の歴史を通して、神様が私たちにどのように関わってくださるかが表されています。神...
礼拝とは、神様と人間の出会いであり対話です。そして、人間から神様へ向かう応答の語りかけが祈りです。聖書の中には様々な祈りが満ちています。詩篇は150篇の祈りの集まりです。 主イエス様も祈りの人でした。多忙きわまりない激務の中で、イエス様は折にふれてひとりで父なる神様に祈っておられました。その姿を見た弟子たちが、「私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と求めた時、それに答えて、「こう祈りなさい」(マタイ6:9)と教えられたのが主の祈りです。 私たちも2,000年間、受け継がれているこの「主の祈り」を礼拝の最初の祈りとしてささげています。「天にいます私たちの父よ」の呼びかけに続き、神御自身に関する三つの祈願、人間の基本的な必要にかかわる四つの祈願が続きます。「主の祈り」天にいます私たちの父よ。御名(みな)が聖なるものとされますように。御国(みくに)が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧(かて)を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦(ゆる)しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救(すく)いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン(『聖書・新改訳2017』 マタイ6:9-13より)
以前、千葉県にあるロシア正教会の聖堂を見学したことがあります。礼拝堂には会衆用の椅子がありませんでしたので、理由を尋ねました。会堂管理をされている方が、「正教会の礼拝では司祭も会衆もずっと立って礼拝するのですよ」と教えてくださいました。聖なる神様の前に身を置く時に、椅子に座すことなど畏れ多くて出来ないという信仰姿勢が表れているようで、襟を正されました。 調べてみますと、「正教会のミサは司祭が行うと2時間、主教3時間、総主教4時間が普通。復活祭の祈りは夜11時半に始まり朝5時まで続く。」それをずっと立ったままで行うそうです。体力勝負ですね。 私たちの教会には会衆席があり、座って礼拝メッセージなどを聞きますが、それでも賛美や主の祈りなどの際には、一同起立します。体調の優れない方や足腰に痛みを抱えておられる方以外は「皆さんお立ちください」と案内がなされます。 座ったままよりも、立ち上がった方が声を出しやすいという理由もあるでしょうが、それ以上に、心を高く上げて、喜びと感動を主におささげしたく、私たちは立ち上がるのではないでしょうか。 教会音楽博士の天田繋(てんだつなぐ)師は、著書の中で、会衆賛美で心がけたいことは「良い姿勢ではっきりと」と記しています。「歌集を持って見ながら歌うと、どうしても姿勢が悪くなりがちである。当然、楽に声を出すことは出きない。背筋をピンと伸ばした良...
福井中央キリスト教会の礼拝では『聖歌』という賛美歌集を用いて、主をほめたたえています。日本には他にも『讃美歌』という有名な歌集があります。『新聖歌』、『教会福音讃美歌』、『ミクタムプレイズ&ワーッシップ』など多くの賛美歌集が発行され、歌われています。 徳川幕府の長年に渡るキリシタン禁制が、明治6(1873)年に解禁され、その翌年には長崎、大阪、神戸それに横浜で、日本で初めての賛美歌集が作られました。各地域で伝道した米国の宣教師たちの出身教派が違っていたため、教派ごとに先駆的(せんくてき)な歌集が作られました。そして明治33(1900)年、当時のプロテスタントの主な教派が、共通の讃美歌を編纂(へんさん)する委員会を発足させ、3年後、『讃美歌』が発行されました。昭和6年と29年に大改訂されて現在の『讃美歌』(日本基督(きりすと)教団出版局発行)となりました。 『讃美歌』が委員会で話し合って制定されているのに対し、『聖歌』はきわめて個人的編集に貫(つらぬ)かれています。編者は中田(なかだ)羽後(うご)師(牧師、音楽伝道者、作詞・作曲家、指揮者等)です。彼の父は中田重治牧師で、後のホーリネス(聖め派)教会の創設者です。中田羽後師は、音楽の才能に恵まれ、米国でキリスト教音楽を学んだ成果を『聖歌』の編集に注ぎました。大正10年に編集し出版した『リヷイヷル聖歌』をもと...
大いなる神様を「ほめたたえ」、「感謝し」、「祝福し」、「歌い」、「叫び」、「喜び楽しむ」など多様な意味が賛美にはあります。 その意味は大きく4つに分けることができます。 三位一体なる神様だけをひたすらほめたたえることです。賛美は神様におささげする最高の行為です。 「御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。」(詩篇66:2) 信仰を告白することです。賛美することは、与えられた信仰を公けに表明する具体的な行動です。それは人々に神様を証しすることにつながります。 「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(詩篇40:3) 祈り願いです。賛美として歌われている詩を多く残したダビデの詩篇には、祈りや願いがあふれています。 「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」(詩篇42:8) 感謝のささげものです。賛美は歌をもって主に感謝をおささげすることです。神様の絶大な恵みに対して、喜び賛美することによって、感謝を表します。 「それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」(詩篇28:7) 私たちの内面に信仰の高まりがふつふつと湧いてきて、それが歌(賛美は歌だけとは限りませんが)となってあふれ...