礼拝説教
2022年4月24日
ルカの福音書24章13―35節
「ともに歩んでくださるおかた」
おはようございます。ここ最近、日本各地で、市民ランナーが参加できるマラソン大会が開かれていますね。皆様やご家族の中にも走ることが好きな方が、おられるでしょうか? 私がこの前まで仕えていました長野福音教会にもマラソン好きな方々が数名おられました。日々練習を積み重ね、本番42.195キロのフルマラソンを何度も完走され、タイムを上げておられました。
その中に、視覚障がい者の兄弟がおられます。パラリンピックなどでご覧になられたかもしれませんが、目の不自由な方には、ガイドランナーとか伴走者と呼ばれる方が隣にいて、輪投げの輪っかのようなものを互いに持ち合って、進路を教えながら、ゴールを目指します。
一度だけ、私もその方と走ったのですが、ガイドに失敗してしまいました。自分は歩道を走ったのですが、その方を歩道から落っことし、転ばせてしまったのです。伴走者には、隣を走るランナー以上の走力が必要で、隣の方をちゃんと安全な場所へ誘導する能力が求められていることに気付かされました。
そして目が見える・見えないに関わらず、私たちの人生には、先の見えない、これから何が待っているか分からない人生には、確かな導き手・確かな伴走者が必要不可欠です。みことばから確かな伴走者なる主イエス様のお姿を教えられていきましょう。
今日のみことばは、「エマオ途上の出来事」と呼ばれている箇所です。24章13節、「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。」
「ちょうどこの日」、イエス様が墓の中からよみがえられた日曜日、イースターの日のことです。その日の朝、女性たちが墓から走って来て「イエス様がよみがえった!」という驚きとよろこびの知らせを伝えました。けれども同じ日、この二人の弟子は、うつむいて、意気消沈して、とぼとぼ歩いていたのです。
二人は、12人弟子ではありませんでしたが、イエス様と行動を共にして来た弟子でした。イエス様に期待し、イエス様のかたわらでメッセージを聞き、多くの驚くべき奇跡を目撃してきました。しかしあの十字架を、すさまじいイエス様の死に様を目撃したとき、そして墓の中からイエス様がよみがえったという知らせを耳にしたとき、彼らはエルサレムから離れようと決断したのです。他の弟子たちから離れ、自分たちだけ、実家のあるエマオへと帰って行くのです。
「都落ち」という言葉がありますが、二人は「都落ち」の心境だったのではないでしょうか。彼らは、イエス様を本当に尊敬していました。すごいお方だと感じていました。このお方こそ、我らイスラエル民族を苦しめるあのローマ帝国から救い出してくれるリーダーに違いない、という期待をイエス様に寄せていました。
けれども、実際にイエス様が歩まれた道は、ローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトによって死刑判決を下され、ローマ帝国の兵士によって鞭打たれ、釘打たれ、十字架で殺される苦しみの道でした。エマオ途上にあった二人が期待していたメシア=救い主の姿ではなかったのです。
失望・落胆して、都エルサレムから下って行く二人です。14,15節を見ますと、二人は話し合っていた。論じ合っていたと出てきます。「イエスとは何者だったのだろうか?」 「どうして、あのようなむごたらしい殺され方をさらさなければならなかったのだろう?」 「イエスにつき従ってきた私たちの歩みは正しかったのだろうか?」 そんなことを、答えを見いだせずに、もんもんと話し合っていたのではないでしょうか。
そして、何よりも復活について、女性たちが知らせたイエス様の復活について、彼らは論じ合っていたと思います。「女性たちが見たという御使い…、そんなの幻覚だ。しかも死んでしまったイエス様がよみがえるなんてあり得ない。そんなことを言い出すようなおかしな人たちからは離れよう。エルサレムにいても意味がない…」 二人は、そんな思いでエマオへと下って行ったのではないかと思います。交わりから離れてしまう二人。イエス様につながっている弟子たちの交わりから離れていく姿が、そこにありました。17節にあるように「二人は暗い顔」でした。
そんな二人のもとにイエス様が駆けつけてくださるのです。二人のすぐ隣に、よみがえられたイエス様ご自身が近付いてくださり、ともにエマオへの道を歩いてくださいます。
私は、この箇所を読みながら、この「道」というのは、私たちの人生のようだと感じました。愛する人、大切な人を突然失うことがある人生です。思いがけないことが待っている人生です。自分が思い描いていた道、願っていた道とは、違う道に導かれる人生です。しかし、その道に主イエス様が近付いて来てくださるのです。そして主イエス様が私たちと共に、その道を歩いてくださるのです。
エマオ途上の二人、彼らはイエス様が近付いて来てくだったのに、そのお方をイエス様だとは認識できませんでした。通りすがりの旅人だと考えてしまいます。聖書は、その理由を「二人の目はさえぎられていて」(16節)と語っています。心の目が閉じていたのです。もうイエス様は死んでしまわれた。この地上からいなくなってしまったと思い込んでいたため、隣にいるお方がイエス様だとは気付けないのです。
イエス様は、そんな二人と共に歩いてくださいます。60スタディオン=11キロの道のりを。大人が歩いて3時間以上はかかる距離でしょう。ずっと二人と時間を共にしてくださったのです。二人と対話をし続けてくださいます。25節から27節まで、
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
二人の心の目は閉じていました。だから、イエス様をイエス様だと認識できませんでした。そして、心の目が開かれていない彼らは、イエス様の十字架と復活を信じることができませんでした。
イエス様は、そんな彼らに「キリストは、預言者以上の者なのだよ。旧約聖書の預言者が預言し、期待して待ち望んできた救い主なのだよ」と告げるのです。そして、「まことの救い主は、あなたが期待していたようなこの世の王様ではなく、苦しみのしもべなのだよ。苦しみを通られて、後に栄光をお受けになるお方なのだ」と語ってくださったのです。先ほど聖書交読で読んだイザヤ書42章も、イエス様はメシア預言として解き明かされたでしょうか? 旧約聖書全体から、キリストについて語られているみことばを示し、語ってくださったのです。
エマオへと向かっていた二人の弟子たち。彼らは、2・3時間、みことばの説き明かしを聞いても、まだ聞き足りない。もっと聞きたいと願います。28,29節で、
28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで 行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
エマオに着いても、このお方ともっと共にいたいと、一緒にお泊まりくださいと無理にお願いします。イエス様からみことばを聴くうちに、閉じていたはずの心の目が、少しずつ開かれていったのです。ともに歩き、ともに対話をしてくださったイエス様は、みことばを語ることを通して、彼らの心の目を開いてくださったのです。
30,31節を見ますと、
30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
エマオで二人と夕食の食卓に着いてくださったイエス様は、パンを取り、神様を賛美し、裂いて、渡してくださった。その瞬間、彼らの目、彼らの心の目が完全に開かれ、このお方は、目の前におられるお方は、イエス様だ!と気付いたのです。
イエス様を理解できなかった彼らでした。イエス様の復活を信じることができなかった彼らでした。堅い、かたくなな心にイエス様が働きかけてくださったのです。霊的な視点を与え、キリストとキリストの復活を信じる者に造り変えくださったのです。32節には、二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」イエス様が解き明かしてくださった聖書の御言葉によって、心開かれ、心が内側から燃やされていました。
私たちも、人生の道中で、このような体験をします。寄り添ってくださるイエス様、人生をともに歩んでくださるイエス様によって、日々、造り変えられていく体験です。かたくなだった心が日々、やわらかくされていく。暗かった人生が、イエス様のみことばによって日々、光のもとへと導かれていく。みことばによって、心燃やされる経験です。
よみがえられたイエス様を知るまで、暗くふさぎ込んでいた二人でした。弟子たちの交わりから離れて行った二人でした。その二人が心開かれ、心燃やされた時、まことのイエス様を知った時、彼らは、本当に造り変えられました。二人は、目の前の食事に手を付けることもせず、33節にあるように、二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った のです。もう日は暮れ、あたりは真っ暗でした。けれども、彼らの心には明るい光が、温かな光がしっかりと灯っていました。イエス様というまことの光を知った彼らは、夜の暗闇を打ち破って、まっすぐにエルサレムへ駈け出して行ったのです。もう一度、主イエス様にある交わり、弟子たちの交わりに加わるために、エルサレムへと戻って行くのです。
マラソンでは、よく真ん中ぐらいに折り返し地点があり、そこでUターンして、走って来たのと同じ道をもう一度、戻ってゴールを目指すということが行われています。
二人にとっては、エマオが折り返し地点でした。そして往路と復路は全く対照的な11キロの道のりでした。往路:エマオにやって来たときは、昼間でした。けれども彼らの心は真っ暗闇でした。しかし今、復路:外は真っ暗闇になっていたにも関わらず、彼らの心は、まことの光に照らされ、輝いていました。
私たちも毎日の歩みにおいて、ときにむなしい歩みをし、悲しみの道を通らされ、意気消沈してしまう時があります。けれども、私たちの人生は孤独ではないのです。伴走者、共に走り、共に歩いてくださる方がおられるのです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と、約束してくださる主イエス様が、確かに共におられるのです。みことばをもって、私を励まし、支えていてくださるお方がおられるのです。
心が暗く沈んでしまう時にも、意気消沈してしまう時にも、みことばをもって私たちの心を照らしてくださるのです。このお方、私たちと共に歩んでくだる主イエス様を私たちはこの朝、もう一度、信頼し、「イエス様、いつもともに歩んでください。いや、私たちがともに歩んでくださるイエス様をいつも見失うことがないように助けてください」と祈り、進んでまいりましょう。
お祈りします
父なる神様
私たちは、人生の様々な出来事にほんろうされています。ときに有頂天になり、またときに絶望してしまいます。そんな中、思い出させてください。いつも、私たちと共に歩んでくださる方がおられることを。そのお方、イエス様のみ言葉を思い出させてください。
たとえ、光が見えない状況であっても、そこにも、まことの光なるお方が共にいてくださることを信じ、イエス様のみそばにいることをしっかりと覚えさせてください。そして私たちは「世の光」とされていることを信じ、暗闇の世界に、主イエス様のまことの光を放つことができますように。イエス様、私の内にいつも共にいてくださり、共に歩み、いのちの道へといつもお導きください。
よみがえられた主、不確かで弱さだけしかないような私と、今日も、いつまでも、とこしえに共に歩んでくださる主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
1. 主がともにいてくださったので、暗やみの中に光を見出すことが出来た。そんな 経験をお持ちですか?
2. イエス様のみことばによって、そして助け主なる聖霊に導かれて、日々、私たちの心が内側から燃やされていくことを祈り求めていきましょう。
あなたの祈りを書き留めてみましょう。
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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