聖餐礼拝説教
2022年5月1日
ルカの福音書22章7-20節
「新しい契約のしるし」
「♪指切りげんまん 嘘ついたら 針千本飲ます 指切った」 子どもの頃、友だちと小指をからめあって、よく口にしたわらべ歌です。でも、「指切りげんまん」の歌詞をよく見てみますと、大変恐ろしいことが歌われていますよね。もしも、この約束を破るようなことをしたら、指を切ってもらって、げんこつを一万回くらわせて、裁縫針を千本飲ませてやるぞ!という、とんでもない脅し文句です。約束を守るんだよ!約束を破ったら、恐ろしい目に合うぞ!という警告なのでしょう。
聖書の中でも重要な契約を結ぶ際には、家畜がほふられました。その血を流して、家畜は二等分にされ、契約の当時者たちが、その間を通って歩くという儀式をしたそうです(創世記15:10)。エレミヤ書34章18節には「わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする」とあります。約束を破ったら、二等分された家畜同様にひどい目にあうと覚悟しなさい、という警告でした。
日本のいにしえの武士たちも、重要な文書や誓約書に「血判」を押しました。自分の指を切り、血を出して、署名の下に押したのです。朝から物騒な話ばかりですみませんが、言いたいことは、こうです。かつて重要な契約が結ばれる際には、血が流されたということです。そのことを踏まえた上で、今日のイエス様のみことばを聴きますと「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」ルカ22:20
「契約の血」、本来は約束を破ってしまった側が、「ごめんなさい。赦してください」と血を流さなくてはならないはずです。それなのに、私たちの罪をとがめ、さばくべきお方が、身代わりに血を流し、肉を裂かれ、いのちをささげてくださったのです。今日のこの後、ともにあずかる聖餐式では、イエス様の裂かれた御身体と流された血潮を頂きます。これにあずかるたびごとに、私たちは次のことを思い出さなければなりません。① 神様がとてつもない犠牲を払って、私を救い出してくださったこと。② 「私の罪を赦し、救い、生かす」という確かな契約を、神様が主導権をもって結んでくださったこと。③ その契約書には、主イエス様が十字架で流された血の判が押されているということです。
聖餐式が最初に制定されたのは、最後の晩餐の場面でした。それは十字架にかかる前夜、イエス様が備えられた食卓でした。その食事は同時に過越の食事でした。
イエス様が十字架に架けられる1500年ほど前、イスラエルの民はエジプトで奴隷とされ、苦しめられ、痛めつけられていました。神様はモーセをお立てになり、生きた心地がしなかったエジプトから民を救われたのです。出エジプトの出来事です。その時、各家庭で小羊がほふられ、小羊の血が家の門柱とかもいに塗られました。神様の命令に従って、神様の約束を信じて、小羊の血を流した家族は救われたのです。
それからずっとイスラエルの民は、この事実を忘れないように過越の食事にあずかって来ました。そしていよいよ、まことの過越の小羊=神の小羊なるイエス様が、私たちの罪の身代わりに十字架でいのちをささげてくださる時が明日に迫っていました。
この時期、エルサレムの町は人であふれかえっていました。一週間に渡り過越の祭りが盛大に祝われます。世界中から人々が押し寄せていました。木曜日になると、イエス様はペテロとヨハネを呼び寄せ、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」(8節)とお使いに出そうとします。弟子たちは何も知らないので「どこに用意しましょうか」(9節)と尋ねます。イエス様は「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。 ― そこに用意をしなさい。」(10,12節)と答えます。
おそらくイエス様は受難週の初め、エルサレムに入られた際、町の中に大きな家を持っている弟子の一人に、過越の食事をする客間を貸してくれるよう頼んでおいたと考えられます。マタイ26章18節 では、イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」と、「これこれの人」とあるからです。また「水がめを運んでいる男」は、イエス様とその家の主人が前もって決めていた目印であったと考えられます。当時水汲みは女性の仕事とされ、男が水がめを運んでいる姿は、珍しく目立ったはずです。イエス様は過越の食事を確実に行なうために、細心の配慮をなさっていました。
ペテロとヨハネが出かけていくと、イエス様の言われた通りでした(13節)。彼らは会場と食事の準備をしました。夕方になって、イエス様は12弟子と一緒に食卓に着かれます。イエス様は、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」(15節)と語られます。どうしても、この食事をしたかったのです。
最後の晩餐が始まります。この食事は先ほど言いましたように、過越の食事でした。先ほど交読した申命記にあったように、この食事の定められた流れは次のようでした。
1. まず水曜日、ユダヤ人の家から罪や腐敗を象徴するパン種が一掃されます。
2. そして木曜日の午後、神殿で過越の子羊がほふられ焼かれます。
3. 木曜日の夕方、過越の食事を行なうために家族や友人が集まります。そこには、最低でも10人集まる必要がありました。
① 過越の食事は、その家の家長が、祭りとぶどう酒を感謝する言葉を述べることで始まります。
② 食事の間に計4回のぶどう酒の杯が配られますが、最初に聖別の杯が配られます。
③ その後、前菜として苦菜が出てきます。苦菜はエジプトでの苦役を思い起こすためでした。
④ それから、焼いた羊の肉、種なしパンといったメインコースが用意されました。
⑤ けれども、すぐには食べることができません。用意が整ったところで、過越の儀式が始まります。
⑥ 小さな子どもが、「この過越の食事って、どういう意味なの?」と質問し、家長が、出エジプトの過越の意味を説明します。
⑦ 続いて詩篇の賛美が歌われ、
⑧ その後、第2の杯が配られてから、
⑨ メイン・コースを食べる段階に移ります。
⑩ メイン・コースに入ると、家長はまず種なしパンを感謝して配ります。聖餐式の制定は、この場面から始まります。イエス様は22章19節のように、パンを取り、感謝の祈りをささげてから、パンを裂いて、弟子たちに与えます。
イエス様はパンを裂かれました。後に弟子たちは、イエス様のお体が十字架上で、パンと同じように引き裂かれたことを理解したことでしょう。イエス様は、そのパンを弟子たちに与えて言われます。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(19節) イエス様が弟子たちのためにご自身を与える、つまり身代わりの小羊として、ご自身のいのちをささげることを意味していました。
続けてイエス様は、「わたしを覚えて、これを行いなさい」と命じます。「わたしを覚える」とは、どのような意味でしょうか? 「覚えて」と訳されている言葉には、「思い起こす、記念とする」などの意味があります。過越の食事が、出エジプトの神様の恵みと憐れみを思い起こし、それを追体験する時であったように、聖餐式は、主の救いの驚くべき恵みを思い起こし、追体験する時なのです。「わたし=キリストを覚える」とは、イエス様の十字架における御苦しみを、過去のことや自分とは無関係のこととせず、今の私に関わることとして繰り返し、繰り返し意識していくことです。
教会は、「わたしを覚えて、これを行いなさい」というイエス様の命令に従い、2,000年間、聖餐式を行ってきました。最後の晩餐から連綿と続いている聖餐式に、いやもっと古く、出エジプトの時から続いている食卓に、今、私たちも連なることができている!と思うと、なんだか胸が熱くなってきませんか!
⑪ そして、メインコースを食べた後、イエス様は再び杯を手にされます。
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。(20節)
杯の中身は赤いぶどう酒、「血」の色です。では、なぜイエス様はここで、「このぶどう酒は」と語らずに、「この杯は」とおっしゃったのでしょうか? それは、弟子たちの注意を「イエス様の杯」だけに向けさせたかったからです。過越の食事では、テーブルの上に各自の杯が置かれていました。イエス様が、「この杯」と強調されたのは、すでに弟子たちの手元にあるそれぞれの杯ではなく、イエス様から与えられる「ひとつの杯」に目を向けさせたかったからでしょう。イエス様の手から受け取る杯が何よりも大事なのです。
そしてイエス様は「わたしの血による新しい契約」と語られます。新しい契約です。
かつて神様は、イスラエルの民と契約を結ばれました。それは十戒・律法に基づく契約でした。神様の戒めを守れば豊かな祝福が、それを破れば恐ろしい呪いがあるという契約でした。出エジプト記24章
5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。
6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
8 モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」
しかし悲しいかな、イスラエルの民もそして私たちも、神様とのかつての約束・契約を守ることができませんでした。罪の結果です。
私たち人間が、神様の信頼を裏切り、約束を破ってしまったにも関わらず、それでも神様は、新しい契約=私たち人間との間に新しい和解の契約を結ぼうとされたのです。エレミヤは、新しい契約を次のように預言します。エレミヤ書31章
31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─【主】のことば─。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ─主のことば─。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
ここには、モーセを通して結ばれた契約に代わる新しい契約が預言されています。その特徴は、私たちの不義を赦し、二度と私たちの罪を思い起こさないという神様の愛と憐れみに満ちた契約です。
聖餐式は、十字架の贖(あがな)いによって結ばれた新しい契約のしるしです。私たちは、聖餐式のたびごとに、自らの罪の悲惨さを知り、この罪深い者を赦すためにイエス様が十字架上で血を流し、御体を裂かれたことを覚えます。そして十字架の贖(あがな)いによって、私たちの罪の赦しが完成し、新しいいのちを頂いていることを、神様の救いの約束を、感動をもって再確認していくのです。
忘れやすい私たちです。毎月、毎月、聖餐式にあずかることを通して、イエス様の御苦しみを覚え、感動し、感謝し、イエス様の愛に応答する者になっていきましょう。このイエス様の福音を告げ知らせる者になってまいりましょう。
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
1. 過越の食事 → 最後の晩餐=最初の聖餐式 → ここ福井中央キリスト教会での聖餐式 → 天国でのイエス様と全聖徒たちとの祝宴
このように歴史を超えて、神様が私たちに備えてくださっている喜びを思う時に、どのような感動・感謝がわいて来ますか?
2. 聖餐式の杯に入ったぶどう液(酒)は、イエス様が流してくださった「契約の血」である。このみことばから、どのような思いがわいてきますか?
3. この主のみ救いを、喜びと感動をもって、伝えたい方がいますか?
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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