「からだのよみがえり」

ルカの福音書24章

 36. これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 

37. 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。 

38. そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。 

39. わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」 

40. こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。 

41. 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。 

42. そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 

43. イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。 

44. そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」 

45. それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 

46. こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 

47. その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、 

48. あなたがたは、これらのことの証人となります。 

49. 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」 

50. それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。 

51. そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。 

52. 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、 

53. いつも宮にいて神をほめたたえていた。  


礼拝説教 2022年5月15日 

ルカの福音書24章36―53節 

「からだのよみがえり」


  おはようございます。経験してみて、初めて分かること。反対に、経験してみなければ、本当の意味で分からないことがあると思います。私にとっては8年前、父を突然、天に送った経験がそうでした。 うちに双子の子どもたちが誕生した日から8日後の日曜の朝、父は教会に向かうため、電車に乗ろうとした最寄駅のホームで転倒し、頭を強く打ち、その2日後に天に召されました。63歳でした。地上の教会ではなく、天上の教会に取られてしまったのです。その経験を通して、私は親しい身内を亡くすことが、どれほどつらく、悲しいかを実体験しました。それまで、牧師としてお葬式の司式をしてきましたが、「ああ、私は遺族の気持ちを全く分かっていなかったんだ…」ということに気付かされたのです。 

 そして父を天に送ってから、使徒信条で告白する「からだのよみがえり」を信じますの意味合いが大きく変わりました。ただ、たましいだけが復活するのではなく、先ほど聖書交読した第Ⅰコリント15章のみことばにあるように、終わりのラッパが鳴り響くイエス様再臨の日、私たちは「からだのよみがえり」を頂くのです。天国で永遠に朽ちることのないからだ(52―54節) = 天に属する方(キリスト)のかたち(49節) = 御霊に属するからだ(44節) = 栄光あるもの・力あるもの(43節) = 天上のからだ(40節) を頂くのです。 目には見えない「たましいだけの存在」として、天国で生きるのではないのです。栄光のからだを頂いて、私たちは永遠を生きるのです。

 それは、主にある家族の顔かたちを、目の前でもう一度見ることができる日です。あの大切な家族のからだと再会できる希望の日でもあるのです。私を抱き上げ、なでてくれたあの家族のからだを、もう一度、目にし、そのからだに触れることができる日が来るのです!「からだのよみがえり」を信じます。このことは私たちにとって、どれほどうれしい希望でしょうか!! 

  「からだのよみがえり」が真実であることを、イエス様は身をもって示してくださいました。イエス様は身体ごと復活されたのです!「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント15:20) 

  ルカの福音書24章36節から目を留めますと、この時、イエス様はまさにからだのよみがえりをしておられました。エマオ途上から引き返して来た二人の弟子たちを迎え、ペテロやヨハネたちが集まっていた家の真ん中に、イエス様は身体を見せて現れてくださいます。「平安があなたがたにあるように」(おそらく「シャローム」というあいさつだったでしょう)と、いつものように語りかけてくださいます。それなのに、弟子たちは、おびえて震え上がってしまうのです。 復活されたイエス様は、以前とは違うお姿だったのかもしれません。輝きに満ち、栄光に包まれておられたのかもしれません。目撃した弟子たちは、「これは幽霊だ」と思ってしまったのです。イエス様ご自身が、今、目の前におられることを信じられません。 イエス様は、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」と語られます。わたしの手や足を見なさい。十字架で釘刺された、釘が貫通した手と足を見なさい。そして触ってみなさいと言われます。霊ではなく、身体のある実態が目の前におられるのです。 

 それでも弟子たちは、うれし過ぎて、信じられません。あっけにとられてしまいます。そんな弟子たちをご覧になり、イエス様は、「ここに何か食べ物がありますか」と聞かれ、一切れ残っていた焼き魚を召し上がってくださったのです。 29節で「そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って、家に入ったエマオの村から、約11キロ離れたエルサレムまで、2人の弟子たちが引き返して来たイースターの日の出来事です。人の歩くスピードの平均は、時速3キロほどですから、夕ご飯が始まったエマオ村から3・4時間かけて帰って来て、もう夜の9時・10時を過ぎていたでしょう。そのお時間に、イエス様は焼き魚をバリバリと召し上がられるのです。

 夜食と言えば、若い人にとっては「ラーメン」でしょうか? お年を取られた方にとっては、消化の良いもの「お茶漬け」などでしょうか? 夜食に焼き魚、それは無いかな…と思いますが、どうでしょうか(笑)。その場に居合わせなった弟子のトマスのために焼いておいた魚だったでしょうか? ちょうど一切れ残っていた焼き魚をイエス様は、美味しそうに食べたのです。

  たとえばの話ですが、身内の誰かが重病で、または大きな手術に臨むために、病院に入院したとします。ベッドの上で、何も食べられないくらい容態が続きましたが、だんだん良くなって来て、「少しずつ食べ始めて良いよ」とお医者さんや看護師さんに言ってもらえる。おかゆから始まって、かたい食べ物も食べられるようになる。そんな時、家族は「ああ、ここまで回復して良かった、元気になってきた!」とほっとし、喜ぶのではないでしょうか。 

  イエス様がこの場面、なぜ焼き魚をほおばられたのかと考えました。私は、病気の方が回復して、ものを食べられるようになったのを周りが喜ぶように、「本当にイエス様は生きておられるんだ! 幽霊などではない。身体のある、元気な、いのちあるお方としてよみがえられたのだ!!」、そのことに気付かせるためだったのではないかと思いました。魚を美味しそうに食べられるイエス様を見て、弟子たちは、安心し、うれしくなったはずです。「ああ、前とおんなじだ! 十字架で死なれる前と同じように生きておられる」と安堵し、感動し、感激したのではないでしょうか。 

 そして聖書は、私たちも、キリストにつながれている私たち皆が、「からだのよみがえり」を与えられると約束しています。

  宗教改革の頃、プロテスタント教会が一致して信ずべきことを確認するために作られた「ハイデルク信仰問答」というものがあります。この信仰問答の問57と問58にはこう記されています。


 問57 「身体(からだ)のよみがえり」は、あなたにどのような慰(なぐさ)めを与(あた)えますか。 


 答 わたしの魂(たましい)が、この生涯(しょうがい)の後(のち) 直(ただ)ちに、頭(かしら)なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御(み)力(ちから)によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御(み)体(からだ)と同じ形に変えられる、ということです。 


 問58 「永遠(とこしえ)の生命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。 


 答   わたしが今、永遠(えいえん)の喜びの始まりを心に感じているように、 この生涯の後(のち)には、目が見もせず 耳が聞きもせず、 人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、 神を永遠にほめたたえるようになる、ということです 


  問57の答にありますように、私たちの魂は、死後、直ちにキリストのもとに迎え入れられます。死んで気がつくと天国にいるということです。このことは本当に大きな慰めです。さらにイエス様再臨の日には、私たちの体もよみがえらされ、たましいと結び合わされるのです。キリストの栄光のみからだと同じ形に変えられるのです。 また問58の答を見ますと、天国で私たちが永遠に味わうことができる祝福は、「目が見もせず 耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったよう完全な祝福」です。

 この世に生きている私たちには、まだ理解できない素晴らし過ぎる完全な祝福を神様は天国で与えてくださるのです。 まだ見たことも行ったこともない天国を、地上にいる私たちは完全に理解することはできません。でもその永遠の喜びの一部分を、神様は私たちに今まさに体験させてくださっているのです。天国の前味を、この世にあって少し体験できているのです。 天国は、この世の思い煩いやあらゆるものから解放されて、ただ神様だけを永遠にほめたたえている世界です。輝きあふれる神様のご臨在の中で、世界中から集められた聖徒たちと共に神様を喜び、ほめたたえています。どんなにすごい大合唱なのでしょうか! キリストを信じ、キリストのものとされた私たちは、その天国の賛美の前味を、今この福井中央キリスト教会の礼拝で、また毎日の生活の中で感じることができるのです。

 賛美をすることができる。これは天国の前味なのだ。奉仕をすることができる、これも天国の前味なのだ。そのような思いで神様を賛美し、神様に奉仕をおささげできたら幸いです。 私たちは今、地上の教会で天国の前味を味わっています。そして必ず、いつの日か天国で本物を体験するのです。よみがえりのからだで主をほめたたえます。新しく聖められた口とくちびるで主を賛美します。栄光のからだの手と足を使って、主を喜ぶのです。この約束を信じ、期待して、待ち望んでいきましょう。  

 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」ヨハネの黙示録7:9,10 

 お祈りします。  


 みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。


 1. 「からだのよみがえりを信じる」ことは、今あなたにどのような喜びや期待をもたらしますか? 


 2. その喜びや期待をぜひ知ってほしい、そして共に味わってもらいたい家族や友人を思い浮かべましょう。その方に、イエス様の福音を証しできるように祈り求めましょう。共に天国に引き上げられてほしい方のお名前を具体的に挙げて、祈り始めていきましょう。                   さん                   さん                   さん                   さん 


 お祈りの課題など  

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