「福音の広がり」



使徒の働き1章 

1. テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。 

2. それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。 

3. イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。 

4. 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

5. ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 6. そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」 

7. イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。 

8. しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 

9. こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。 

10. イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。 

11. そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」   


礼拝説教 

2022年5月22日 

使徒の働き1章1―11節 

「福音の広がり」 


  おはようございます。日本語の「橋(はし)」と「箸(はし)」、「聖書(せいしょ)」と「清書(せいしょ)」。同じ読み方であっても、どこを強く読むかによって、その言葉が指し示すものが、全く別物となります。 ― 地域ごとに発音の仕方が違ったりしますが、福井でも、今の発音であっているでしょうか? ― 今日の聖書箇所には朗読する際に、緊張する言葉が出て来ます。1章8節の「証人(しょうにん)」です。 

 神学校で学んでいた頃、先生から「証人(しょうにん)」を「商人(しょうにん)」と読んではいけないよと注意して頂いたことが忘れられません。また今日のみことばには復活された主イエス様が天に昇り、帰って行かれた昇天(しょうてん)の記述もあります。この言葉も油断すると「商店(しょうてん)」と読んでしまいます。 昇天も目撃した証人です。商店の商人にならないように…と思います。

 つまらない冗談はさておき、使徒の働きの最初の部分が開かれました。これから礼拝では、「使徒の働き」を少しずつひも解いていきたいと願っています。私たちに与えられたキリスト教信仰がどんなに素晴らしいものか! また教会とは何なのか? そして伝道や宣教とはいかなるものなのか?・・・などといったテーマで、使徒の働きから学んでいけたらと願っています。 

 使徒の働きを書きましたのは、ルカです。ルカの福音書を書き記した人物。彼は、ユダヤ人ではなくて異邦人でした。職業はお医者さんです。イエス・キリストを信じ、クリスチャンとなったルカは、使徒パウロと行動を共にします。パウロの宣教旅行、現在のトルコやギリシャの各都市へ、そしてイタリア・ローマへの旅に同行します。宣教のさなか、パウロは迫害を受け、捕らえられます。裁判が始まるまで待たされ、一つの場所に長い時間、拘束されていた。そんな時に、ルカは、福音書と使徒の働きを書いたのではないかと思います。  

  ルカの福音書も使徒の働きも、どちらも宛て先はテオフィロという人物です。テオフィロは、身分の高いローマ帝国の役人でした。ルカは、キリスト教信仰に興味を示し、求道をしていたテオフィロに、まず『福音書』を渡して、イエス様の生涯・イエス様の行ないと教えを知らせます。そして、次に教会の始まりと、キリスト教の拡大を、この『使徒の働き』によって伝えようとしました。 

  今朝は、使徒の働きの冒頭部分から3つのポイントで見ていきます。一つ目は「連続性」。二つ目は「待つ」。そして三つ目は「広がり」です。   


1. 「連続性」 


  使徒の働きは、その名の通り使徒たち、イエス様の弟子であったペテロやヨハネなどと、パウロの宣教の働きが生き生きと描かれています。けれども、それらは決して、使徒たちだけの働きではありません。使徒たちが、人間的な思いで、人間の力で成し遂げたことではないのです。1章1節には、 「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。」と出てきます。イエス様が行い始めた、イエス様が教え始めたのです。「始められた」ということは、まだ終わっていない、継続しているということです。

  ルカの福音書には、イエス様の地上でのお働きが記されています。イエス様は、ご自身の足で出て行かれ、そしてご自身の口で福音を語られます。そして今度は、使徒の働きでは、イエス様は天から、福音宣教の働きを継続してくださっているのです。使徒たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命令を与えてくださり、そして天から聖霊をお与えになって、彼らに大きな力を与えてくださいます。ペンテコステの出来事を経験した使徒たちは、イエス様の命令と、共にいてくださる聖霊に励まされ、導かれて、いや聖霊に突き動かされて、宣教に出て行くのです。

  イエス様の福音宣教は、使徒の働きの時代も、そして今に至るまでずっと続いています。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と、第一声を発せられ始まったイエス様の福音宣教は、イエス様の十字架と復活、そして昇天によって、すたれることはありませんでした。かえって拡大していきます。イエス様が昇天された後、福音宣教は使徒たちに託され、そして2千年間、世々の教会は、その託された使命にあたってきました。イエス様が再び来られる日まで、再臨の時まで、私たちは福音を証しし続けていくのです。 

 私たちが伝道をするとき、私たちがイエス様を証ししたいと思う時、「これは自分の力だけで行う業ではないのだ」と、覚えておきましょう。私たちの伝道、私たちの教会の伝道は、イエス様の福音宣教につながっている業なのだ。神様が私たちと共にいてくださり、聖霊に導かれて行わせていただいている業なのだ。そのことを忘れないようにしたいと思います。

  今日もイエス様は、私たちのうちに、そしてこの教会のうちに豊かに働いていてくださり、素晴らしい御業を行っていてくださいます。人間的な力・人間的な知恵を頼みとしないで、宣教の主権者なるお方、全知全能なる神様に信頼して、ゆだねて、伝道をさせていただきたいと思います。   


2. 「待つ」 


  使徒の働き1章 4、5節にはこうあります。 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

  これから世界各地へ飛び出して行き、宣教が始められようとしています。その時、神様が最初に求められたことは、エルサレムを離れないで、ただじっと「待つ」ことでした。出鼻をくじかれたと思うでしょうか? いいえ、そうではないでしょう。神様の世界宣教の壮大なご計画は、人間の意気込みや人間の行動だけで進められるような生易しいものではありません。父なる神様が与えると約束してくださった聖霊を受けなければ、宣教に出ていく力は湧いてきません。だから、その時(神の時)まで「待つ」ことが、使徒たちの、最初の任務でした。

  私たちの歩みは、どうでしょうか? 待つことができるでしょうか? 待ち続けることができるでしょうか? 弟子たちは、イエス様の命令に従い、ただひたすら待ちます。聖霊を待ち望み、ペンテコステの日まで、ただひたすら祈り続けるのです。

  私たちも、使徒たちのこの姿にならいたいと思います。「まず行動!自分が動いていないと気が済まない!」という方がおられるかもしれません。けれども、行動より先に待つこと、祈ること、じっくりと御言葉を聴くことを求めていきたいと思います。私たちの思いや行動をはるかに超えて、私たちが想像もしなかったような素晴らしい御業をなしてくださる主を信頼していきましょう! 


 3. 「広がり」 


  8節を見ますと、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

  石を水面に投げ入れると、ぱーっと波紋が広がります。それと同じように、イエス様がもたらしてくださった福音は、世界中に、地の果てにまで広がっていくのです。そのために、私たちが用いられるのです!聖霊の力を受けるとき、私たちはキリストの証人として、地の果てまで出て行くのです。  使徒の働きを見ますと、実際に、キリストの福音が、エルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地の果てへと広がっていった様子を知ることが出来ます。2章のペンテコステの時、エルサレムに最初の教会が誕生します。その日なんと3千人もの人が弟子に加えられます。

 やがてこのエルサレム教会は、ユダヤ人から迫害されます。8章1節からは、このよう記されています。

 1. サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。 

2. 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。 

3. サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。 

4. 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。  


 教会の最初の執事、ステパノが殉教した。そして教会に対する迫害が起こった。けれども、そのこともマイナスに作用するのではなく、反対に宣教のために益に変えられていくのです。迫害を避け、エルサレムから脱出したクリスチャンが、今度は、散らされていった地で、ユダヤとサマリアの各地で宣教を始めていくのです。

  さらに、このステパノが殉教した時、それに賛成していたサウロによって ー イエス様にとらえられ、パウロという名前に変えられますが、― この人物によって、福音が地の果てにまで伝えられていくのです。神様がなさることは、とてつもないです!!私たちには、想像もつかないことです。キリスト教を迫害する急先鋒に立っていた人が、今度は、イエス・キリストを地の果てにまで、命がけで宣べ伝える証人へと変えられるのです。

  エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果てにまで福音は拡大していきました。そして東の果て、この日本にも、宣教師がやって来てくださり、この福井の地に教会が建てられている。ユダヤ人から見るならば、遠く辺境の地に住んでいる異邦人の私たちも、今、イエス様を信じることができている。本当にすごいことです!!


  福音は地理的にも、広がっていきました。世界中にイエス様のことが、宣べ伝えられています。さらに、福音は、私たちの心をも広げていきます。

  ユダヤ教は基本的に、「異邦人も神様によって救われる」ということを考えていませんよね。「ユダヤ人だけが神様から選ばれた民なのだ。救われるのは、私たちだけなのだ」と考えています。けれども神様は、そんなことは意図されていません。旧約聖書にも「異邦人の救い」、モアブ人ルツが神の民とされたり、ヨナの説教によって、ニネベの人たちが悔い改め、滅びから救われたりと、神様はユダヤ人を起点として、世界中の人たちが救われることを計画しておられます。先ほど交読したイザヤ書のみことばにも、そう語られています。

 けれどもユダヤ人は、自分たちの選びを、勘違いしてしまったのです。イエス様は、そんな間違った「選民意識」にくさびを打ち込んでくださったのです。福音は、人種や民族、性別、年齢、職業、あらゆるものを超えて広がっていくのです。  サマリア人は、ユダヤ人にとって憎き天敵でした。あのサマリア人が、救われるはずがない、そう考えられていた民族にも福音は入って行きました。そして異邦人であるギリシャ人にも、ローマ人にも ― ユダヤ人から見たら、地の果てに住んでいるような人 ― あらゆる人が、イエス様の十字架によって救われるのです。使徒の働きは、そのことに気付かされていった記録であると言っても良いでしょう。

  では、私たちにとっての「エルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地の果て」とは、どこなのでしょうか? また私たちにとっての「エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果て」とは、誰のことでしょうか?

  私のサマリア人とは、私が苦手なタイプの人、好きになれない人であるのかもしれません。その人にもキリストの愛を携えていく。聖霊の力によって、まず私たち自身が、神様の愛をしっかりと頂き、愛の人に造り変えられていかなければならないのでしょう。

  また地の果てとは、もしかしたら、自分にとって一番身近にいる人、けれども福音を伝えるには、地の果てに行くような思いをしてしまう人であるのかもしれません。私の夫、妻、親、そして子どもたちであるかもしれません。

  私たちが出て行く場所、遣わされて行く場所は、楽しい場所、快適な場所ばかりではないでしょう。反対に厳しい場所。むずかしい場所が待ち構えています。そこは「エルサレムであり、ユダヤであり、時にサマリアであり、地の果て」であるでしょう。

  けれども、そこに出て行く。御言葉の約束「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります」この約束を信じて、出て行くことが求められているのです。

  聖霊の力を待ち望み、勇気と力を与えられて、福音宣教のために出て行くクリスチャンとなっていきたいと思います。 祈りましょう。


 みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。

以下、自由にご記入ください。 

 1. あなたの心の中の辺境の地:「地の果て」は、どこですか?  あなたが福音を携えていくべき人:「サマリア人」は、どなたですか? 


 2. その地、その方のことを覚えて、祈り始めてみましょう。 


 お祈りの課題など





   

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