「悔い改める幸い」

使徒の働き2章 

37. 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。 

38. そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 

39. この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」 

40. ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。 

41. 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。 

42. 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。 




 礼拝メッセージ 

2022年7月3日 

使徒の働き2章37-42節 

「悔い改める幸い」 


  6月20日(月)の午後、急に関節が痛み出し、熱っぽくなりました。体温計は38度台を表示しました。保健所でその週の水曜日に検査を受け、翌日コロナ陽性と判定されました。一週間、38℃代、39℃代の高熱が続く中、熱にうなされていたのでしょうか、最初の夜、私は同じ夢を繰り返し・繰り返し見ました。子どもの学校用具に付けるような名前シールを使って、サイコロを作るという夢でした。寝て、同じ夢を見て、また起きて、それでも時間は数十分しか経っていない。明けない夜を過ごしました。2日目の晩は、突然身体がプルプル震え出して、止まらない経験をしました。そして熱が引いた後は、身体に発疹が出ました。 

 「今のコロナは、風邪のような症状で済みますから大丈夫ですよ。がんばってくださいね」と、子どもたちの診断をしてくださった小児科のお医者さんは、励ましてくださいましたが、私にとっては1週間、ただただ、だるくて、横になってばかりの状態でした。その間、教会の皆さんに支えて頂いて、私たち家族は生き伸びることが出来ました。本当にありがとうございました。    


 さて、先々週まで私たちは、キリスト教会最初の伝道説教をひも解いてきました。使徒ペテロによる伝道説教です。聖霊に満たされたペテロは、大群衆に向かって力強く語ります。使徒の働き2章36節、「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

  あなたがたは主を、神であるお方を十字架に付けて殺したのだ!あなたがたのせいで、キリスト=救い主が十字架に架かり死んだのだ!ペテロはそう迫ります。このメッセージを聴いた人たちは心刺されました。福音がまっすぐに語られる時、私たちの良心は激しく痛むのです。自分たちが気付いていなかった罪がどんなに恐ろしいものであったのかを示されます。 


  私たちもみことばを聴く時、痛みを感じているでしょうか? みことばを読む時、心刺される体験をしているでしょうか?ヘブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」とあります。私たちは、耳触りの良いみことば、優しいみことばだけを聞くだけでは不十分です。聖書全体から、時に厳しいみことば、私たちを刺し通すようなみことばにも、しっかりと聞き従っていかなければならないのです。 

 そして、みことばとともに働いてくださるお方=聖霊も、私たちに罪を指し示してくださいます。ヨハネの福音書16章 7,8節で、イエス様は教えます。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」 

 この助け主は聖霊です。聖霊は私たちに、罪を認めさせ、私たちを悔い改めへと導いてくださいます。罪を示された人々は、ペテロに問いかけました。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」(2:37)。語られたメッセージに真剣に応答します。「私たちは、大変な過ちを犯してしまった…。このままではいけない。何とかしなくては・・・」人々は真剣にペテロに問いかけます。 


  今日は、この箇所に記されている人々の応答から、二つのことを教えられたいと思います。一つ目は、みことばに応答し、悔い改めることができる幸いです。 


  ペテロは38節で、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えます。「悔い改め」は、クリスチャンになるための一度限りの入学試験のようなものではありません。クリスチャンとなっても、私たちは一生涯、死ぬまで、罪との戦いがあります。誘惑に負けてしまう古い自分との戦いがあります。悔い改めは、私たちが死ぬまで、いつも繰り返していかなければいけないことです。 

  では、神様が私たちに求めておられる、まことの悔い改めとは、どのようなものなのでしょうか? 悔い改めるとは、ただ後悔したり、反省したりすることではありません。後悔は「ああ、またやってしまった…」と悔やんで終わりです。そこには問題の解決、本当の救いはありません。 

 悔い改めとは、神様に背き、自分勝手に生きていることこそ、私の「罪」なのだと認めることから始まります。ペテロのメッセージに心刺された人たちにとっては、神のひとり子、イエス様を十字架に付けて殺してしまった。そのことの罪の重さを認識することでした。 

 そして私たちは、神様から離れて歩む人生、罪を犯し続けて歩んでいる人生が、どんなに、みじめかで、あわれかを認める必要があります。さらに、そこから自分の生き方を180度、変えていただき、「これからはイエス・キリストを信じ、イエス・キリスト従って最後まで生きていきます。罪を憎み、罪を避けて、神様のみこころにかなう歩みをさせてください」と、はっきりと意志表示すること。それが悔い改めです。人生の向きを変えて頂く。人生の向きを正して頂くことが悔い改めです。 

  ペンテコステの日、人々は、自分たちがイエス様を十字架に付けてしまったこと、その罪を告白しました。どうしようもない罪人の私を赦してくださるために、イエス様が身代わりに十字架に架かって死んでくださったことを、彼らは堅く信じ、自らの罪を告白したのです。 神様が、私たちに悔い改めの機会を用意してくださっている。

 神様が、私たちの悔い改めを喜んでいてくださっているということは、神様の大きな恵みであり、憐れみです。一度失敗したらもう終わり、やり直しはさせないという神様ではないのです。 

 ダビデ王は、人生で大変大きな罪を犯しました。姦淫の罪と殺人の罪です。ダビデは最初、自分の罪を認めようはしませんでした。けれども神様は、預言者ナタンを遣わし、ダビデに自分の罪を認めさせます。ダビデは、正直に神様に告白します。「私は主の前に罪ある者です」(Ⅱサムエル12:13)。聖なるお方、義なるお方、私たちの裁き主なる主が、決して喜ばれない悪を働いてしまった。罪を犯してしまった。ダビデは、正直に告白したのです。その時、ダビデの心は、ずたずたに切り裂かれていたでしょう。罪責感、恥ずかしさ、みじめさ、情けなさでダビデは、顔を上げることができなかったでしょう。けれども、罪をすべて告白したとき、主の御前に心砕かれて、悔い改めたとき、ダビデは神様の赦しを体験したのです。さきほど交読した詩篇32篇で、ダビデが告白している通りです。

  ヨハネの手紙 第一 1章8,9節も、こう告白します。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」 

 私たちの人生には、悔い改めの機会が与えられています。神様の赦しを頂くことができるのです。この事実を、この幸いをいつも覚えていきましょう。 


 みことばにまっすぐに応答する者の幸い、その二つ目は、私たちのうちに悔い改めの実が実らされていくことです。

 使徒の働き2章の40から42節まで、 

40. ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。

41.彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。 

42.彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。 


  ペンテコステの日、救いに導かれた人は何と三千人でした。一度に三千人が洗礼にあずかった!どんな光景だったでしょうね!? その日、120名のイエス様の弟子たちが一つ所に集まり、聖霊を待ち望んでいました(1:15)。120人全員が、それぞれ洗礼を司式したとしたら、3000÷120=ちょうど一人あたり25名です。次から次に、悔い改める者、回心する者がやって来る。そして弟子一人ひとりが、それぞれ25名ずつ洗礼を授ける。気付いたら、その数は合計3000人に達していた。そんな、すごい出来事がこの日、実現したのです。 

 そして3,000人の悔い改めた者たちの内に、悔い改めの実が実っています。曲がった時代、神様に逆らうこの世の歩みから救い出された彼らは、今度は、神の家族の一員として、キリストのからだなる教会で、救いの実を確かなものとしていったのです。 

 42節には、最初の教会の様子、最初のクリスチャンの姿が記されています。これらは、教会にとって基本中の「キ」です。 

1. まず彼らは聖書の教えにしっかりと耳を傾けました。使徒たちが宣べ伝えたイエス様の教えをしっかりと聞き、それを堅く守ったのです。 

2. 彼らは、交わりをしました。この「交わり」は、分かち合うということです。自分のものを自分だけで握り締めず、他者を生かすために喜んでささげていく姿勢です。喜びも悲しみも、その人の強さも弱さも、持っているものも持っていないものも、みんな分かち合った。そして互いに寄り添って、互いに仕えていったのです。最初の教会には、悔い改めによる、うるわしい実が実っていました。 

3. 彼らは、パンを裂きました。これは聖餐式のことです。イエス様の御苦しみ、イエス様の十字架の赦しを絶えず思い起こしていました。聖餐式を大切にしていたのです。 

4. 彼らは、よく祈りました。真剣に、御霊に導かれて篤い祈りをささげていました。  


 最初の教会は、悔い改めから始まりました。大きな罪を赦して頂いた。そのことに感動し、感激し、感謝することから、教会はスタートしたのです。彼らの悔い改めの実は、教会の基本の「キ」を大事にすることでした。みことばに従うこと、交わりを大切にすること、聖餐式を大切に執り行うこと、そして祈りをささげることでした。    

 私たちは「そんなこと分かり切っているよ」と言いたくなるかもしれません。けれども、自らの歩みを振り返った時、果たしてどうでしょうか? 信仰の基本、教会の大切な営みを、私たちは本当に大切にしているでしょうか? 他のことに心を奪われてしまう時がある。曲がった時代、罪へといざなうこの世の情報を優先させてしまう時があるのではないでしょうか?  

 この朝、もう一度、主の御前で、正直に自らの歩みを見詰めなおしていきましょう。自らの罪を示して頂いたならば、正直に主の御前に告白し、悔い改めていきたいと思います。「神様、ごめんなさい。私の歩みは的外れでした。本当に大切にすべきことを、いい加減にしていました。どうか憐れんでください。どうか赦してください。もう一度、信仰生活を主とともに再出発させてください」そんな祈りをともにささげていきましょう。 


 祈ります 


 みことばへの応答


 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。 


 1. 神様の前に自らの罪を認め、正直に告白し、悔い改めて、赦して頂いた日の幸いを思い起こしましょう。その幸いを書き留めておきましょう。


 2. 悔い改めにふさわしい実を結ぶ(ルカ3:8)とは、具体的に、どう生きることでしょうか?


 お祈りの課題など    

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