使徒の働き3章
1. ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2. すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3. 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
4. ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
5. 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
6. すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7. そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8. 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
9. 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
10. そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
礼拝メッセージ
2022年7月17日
使徒の働き3章1―10節
「キリストの力によって」
おはようございます。週報の報告にも記しましたが、ここ最近ひんぱんに政治と特定の宗教のつながりが報道されています。そしてカルト化した宗教とその被害者の方々のことも詳しく聞かされ、心揺さぶられることもあるかと思います。
私たちは、聖書が指し示すまことの神様と、神様の恵みよる救いを信じ、みことばの正しい教えに立ち続けて行きましょう。そして私たちに与えられている信仰と希望と愛をしっかりと保ち続けていきましょう。伝道することが、これまで以上に難しくなっているようにも感じますが、神様から知恵と力を頂いて、この時代にあっても、主のもとに人々が呼び集められることを信じ、励み続けてまいりましょう。
皆さんの中にも、もしかしたら過去、異端やカルトの教えを学んでしまった経験があったり、あるいは皆さんのご家族やお友だちの中に、現在も異端やカルトにとらわれていて、ご本人や家族が悩み、苦しんでいる方がおられるかもしれません。目を覚ますことができ、そこから救い出されること、そしてまことの神様の愛に触れることが出来るように、祈り続けていきましょう。
さて今日から使徒の働きは3章に入ります。ペテロとヨハネは、午後3時の祈りの時間に宮に上ります。「宮」とは、当時エルサレムの町にあった大きく立派な「神殿」のことです。この時、ユダヤ教とキリスト教という明確な区別は、まだありませんでした。ユダヤ人のペテロとヨハネは、今までの良い習慣に従って、祈りをささげるために神殿に行くのです。神殿では、毎日、朝と晩に、いけにえの家畜がささげられていました。それに合わせて、多くの人たちが、祈るために集まっていたのです。
その神殿の入り口付近、そこにあった門の脇に、一人の男性が担(かつ)ぎ込まれます。聖書は、生まれつき不自由な人であったと記します。4章22節を見てみますと、この人は40歳を過ぎていたと記されています。ちょうど私と同じ年齢です。生まれてから40年以上、自由に立ち上がることも、歩きまわることも、ずっとできなかった男性でした。 彼は毎日、宮にやって来る人たちから施しを受けるために、家族か誰かの手によって、ここに連れて来られました。現代のように 社会福祉の制度があって、障害者年金が支給されたり、様々な生活支援があったりする時代ではありません。障害をもっていた彼は、まるで乞食のような姿で生きていかなければならなかったのです。
この男がいつも座っていた「美しの門」は、神殿への入口でした。あのヘロデ大王が造らせた門で、「美しの門」という名の通り、他の門に比べると、大変、絢爛(けんらん)豪華でした。分厚い金と銀、そして真鍮(しんちゅう)で飾られていました。 男は、いつものように、通り過ぎてゆく人たちに向かって、「お恵みを…お情けを…」と声を精一杯張り上げながら(あるいはか細い声で)、同情を引こうとしていました。
そこにペテロとヨハネが通り掛かります。4節です。 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。 突然、声をかけられてびっくりしたでしょう。そして期待しました。5節、彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。 たくさん施しをくれるのではないかと期待します。 けれどもペテロはこう語りかけます。「金銀は私にはない」
「美しの門」の表面は、金や銀がきらびやかに輝いていました。神殿へと出入りする人たちも、おしゃれに着飾っていました。けれども目の前に立っている男たちは、「金銀は持っていない」と言うのです。 ペテロのこの言葉は、金銭ではこの男の本当の救いはもたらされないことを意味しています。この男を本当の意味で生かすのは、金銭によってではないのです。金や銀といったこの世のもの、この世の知恵、またこの世の力をもって、彼の究極的問題は解決できないのです。
そして、ペテロはこう宣言します。「しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」 あなたを本当の意味で生かすのは、あなたを解放し、あなたを救い出すことができるのは、キリストの御名以外なにものでもない。だから、あなたはキリストを信じ、キリストを心にお迎えしなさいと言うのです。
「ナザレのイエス・キリストの名によって」と語られています。「イエス様」、また「キリスト」いう名前によって歩くとは、どういう意味でしょうか? 「名は体を表す」と言われるように、その人の名前は、その人自身を表しています。イエス様の名、キリストの名と言うとき、それはイエス・キリストというお方そのもの、またイエス様の権威、そしてキリストの力という意味なのです。 ペテロは、ここで「キリストの力によって歩きなさい」と語るのです。
そして、ペテロが、彼の右手を取って引き上げたとき、本当に大きな奇跡が起こります。40年以上、一度も立ち上がったことのなかった男が、ぴょんと立ち上がったのです!足とくるぶしが突然強くなり、躍り上がって、まっすぐに立ち、なんと歩いたり飛び跳ねたりしたのです。 この世の常識ではありえないこと、考えられないことです。もしも、この場にリハビリを専門とする理学療法士さんがいたとしたら、びっくりして止めに入るでしょう。「患者さん、ダメですよ!筋肉が落ちているのですから、徐々に徐々に歩行訓練をしていかなくては…」 この世の常識は、そのように彼にストップをかけるでしょう。けれども、ここで起こった奇跡は、人間の常識をはるかに超えています。全く歩いたことのなかった男性、中年を間近に控えている男性が、飛び上がって、踊っているのです、周りにいた群衆は唖然としてしまいます。
この奇跡は、本当に起こりました。神殿の入り口付近にはたくさんの目撃者がいました。さらにこの出来事を記したのは、医者であったルカです。患者の様子を慎重に調べ、診察をしていたルカが、彼は全快をしたと宣言しています。歴史的事実として、この時、キリストの御名によって、驚くべき奇跡が起こったのです。
そして聖書がここで語っていることは、彼の体が回復したこと、歩けるようになったということにとどまりません。いや実は、彼の人生が180度、変えられたこと。彼が本当のいのちを得ることができたことに、聖書は注目しています。3章7節には、ペテロが「彼の右手を取って立たせた」と出てきます。この「立たせた」という単語、は「エゲイロー」というギリシャ語の単語なのですが、それは「目を覚まさせる、よみがえらせる、引き上げる」といった意味があります。イエス様が死者の中からよみがえったと言うときにも、同じ「エゲイロー」が使われています。つまり、聖書はここで、体の回復と同時に、いやそれ以上に、彼のたましいが新しくされたこと、新しいいのちが与えられたことを語っているのです。
以前、彼は「美しの門」の外にいました。神殿の中に入ることができなかった男でした。もしかしたら、これまで40年以上、自分の不幸をなげき、不平不満ばかり口にしていたかもしれません。「なんでこんな体に生んだんだ!」と両親に恨みつらみをぶちまけ、「神などいるものか」と神を呪って生きてきたのかもしれません。 そんな神殿の外にいた彼が、この時、立ち上がり、新しいいのちを頂き、そして今度は、神を賛美しながら、宮の中に入って行ったのです!!彼の人生に、本当に大きな変化が起こりました。神のもとに立ち返る経験でした。 キリストの力が、彼の人生を変えたのです。
キリストの力とは何でしょうか? それは神の全能の力です。どんなに罪深い人であっても、その人を救い出し、神の子とする力です。またキリストの力は、罪人である私たちを憐れみ、赦す力です。そのために、ご自身の身体もいのちも、すべてをささげ尽くしてくださる愛の力です。十字架の力です。そしてキリストの力とは、死を打ち破る力です。よみがえりの力、私たちに新しいいのちを与え、永遠に生かす神の力です。この力、キリストの力によって、この男は、新しい人生を与えられたのです。神を喜び、神を賛美する新しい人生を与えられたのです。
私たちは、このキリストの力を体験しているでしょうか? このキリストの力によって、今、生かされているでしょうか?
ペテロとヨハネたちも、実はこの時、キリストの力によって、新しい人に造り変えられていました。ペテロとヨハネは、これまで何度も「美しの門」を通過していたはずです。神殿に出入りしていましたから。けれども、この時まで、二人はこの男の存在、毎日、「美しの門」の下でうなだれている男の存在に気付いていませんでした。いや目には入っていても、無視して素通りしていたのです。イエス様が十字架に架けられる日まで、弟子たちの頭にあったことは「立身出世」でした。上へ上へとのし上がっていくことでした。けれどもキリストの十字架と復活と昇天を目撃し、そして聖霊に満たされていく時、弟子たちも変えられていったのです。 イエス様が、ご自身の行動をもって示してくださったように、この世の弱き存在、悩み、苦しみ、痛んでいる存在に、使徒たちは目が向くようになっていました。3章4節に、「ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて」と出てきます。「見つめる」―温かい眼差しで、愛の目で、この男をしっかりと見たのです。上へ上へと目を向けていてペテロとヨハネが、今や、キリストの力によって、下に下に視線を下ろしていく。そんな愛の人に変えられていました。キリストの力を体験し、キリストの力によって生かされていました。
私たち、また福井中央キリスト教会は、どうでしょうか? 「金銀は私にはない」(確かにそうかもしれませんが)、そうはっきりと告白できるでしょうか? この世の金銭、この世の知恵、この世のものによっては、本当の救いはもたらされない。金銀には、生きる本当の目的はないん、そう告白できるでしょうか? そして、「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と私たちは、宣言できるでしょうか?
私たち自身が、キリストの御名によって、キリストの力によって本当に生かされているでしょうか?
私たちの周りには、不安を抱え、悩み、痛み、苦しんでいる方々が多くおられます。若者たちは他者との比較の中で、コンプレックスを抱き悩んでいます。人生の危機に直面し、助けを求めている方々もいます。私たちは、そのような方たちに、ためらうことなく、「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語ることができるでしょうか?
13世紀のヨーロッパでの出来事です。トマス・アクィナスという神学者がいました。彼が、あるときカトリック教会のローマ法皇に謁見したそうです。 教皇は、彼に数々の宝物を見せ、誇らしげにこう言いました。 「自分はどうも、あの使徒たちのように『金銀は私にはない』などとは言いかねるようだ。」 そこで、アクィナスはこう答えたと言われます。 「父よ、もっともでございます。同様に私どもは、『ナザレのイエス・キリストの名によって歩け』とも言えなくなりましたね。」
教会が、こうなってはいけないのです。私たちクリスチャンが、こうなってはいけないのです。 使徒たちは、よみがえられたイエス様とお会いし、聖霊が注がれた時、「あなたも、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と宣言することができました。 私たちも金銀によってではなく、キリストの力によって歩ませて頂きましょう! 金銀を頼みとするのでなく、キリストの力だけを頼りとするのです。そしてペテロのように、確信をもって人々に語りかけていく者とならせていただきましょう! お祈りします。
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
1. 立ち上がれないような試練に直面した時、キリストの愛や力を体験したことがあるでしょうか?
2. そのキリストの愛と力によって、私たちが見つめていくべき方々はどなたでしょうか?
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
0コメント