「イエス・キリストの御名のほかに」

使徒の働き4章 

 1. ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。 

2. 彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、 

3. 二人に手をかけて捕らえた。そして、翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。 

4. しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。 

5. 翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。 

6. 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。 

7. 彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。 

8. そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。 9. 私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、 

10. 皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。 

11. 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。 

12. この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 




 礼拝メッセージ 

2022年7月31日 

使徒の働き 4章1―12節 

「イエス・キリストの御名のほかに」 


 おはようございます。気象庁のホームページ を見ますと、昨日(7月30日)の全国最高気温ランキング、1位は兵庫県豊岡市で37.2度、2位は鳥取市で36.8度、そして第3位に我らが福井市で36.7度でした。「銅メダル獲得おめでとうございます!」と、冗談にもならないような厳しい蒸し暑さが続いています。熱中症や体調不良、お疲れなど出ていないでしょうか? 無理をなさらずに、神様の守りと助けを祈り求めながら、今週も歩んで参りましょう。 


 さて今日から、使徒の働きは4章に入ります。ここには、キリスト教会が迫害され始めるようになったことが記されています。クリスチャンであるので逮捕される。信仰ゆえに留置場(ろうや)に入れられる。主イエス様を証ししたので裁判にかけられる。そのような迫害が最初の段階から起きていたのです。 

  ペテロが大胆に伝道説教をしている時、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人が、ペテロとヨハネを捕まえにやって来ます。最後の「サドカイ人」は、祭司や貴族などの金持ちたちで、当時の社会で権力を握っていた人たちでした。サドカイ人は、旧約聖書の信仰を、きわめて合理的に解釈しようとしました。科学的でないと思うことは、すべて信じられないとするグループでした。聖書には、「サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い」(使徒23:8)と記されています。サドカイ人の教えからすると、ペテロが主イエス様の復活を宣べ伝えていること、さらに人間の復活を宣べ伝えていることは、受け入れられないことでした。

 またサドカイ人は、つい二か月ほど前まで、イエス様を葬り去るために策をろうしていた人たちでした。「ようやくあのナザレ人、イエスを十字架に付けて消し去った。イエスの遺体が、『墓から消えた』と兵士たちが慌ててやって来た時には、彼らに多額の金を与えて、『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行ったのです』と町中で言いふらすようにうながし、混乱を回避したはずなのに・・・(マタイ28:11-15)、なぜまた、イエスという名がこんなにも大々的に語られているのか!」とサドカイ人たちは、いら立っていました。 

  ペテロ逮捕の現場には、宮の守衛長もいました。この人は、大祭司に継ぐ権威を持っていました。宮=神殿の治安をつかさどる人です。聖なる神殿において、何の許可もなく、勝手に演説をしているやからがいる。しかも彼ら権力者にとって、大変都合の悪い演説をしている。これはゆゆしき事態でした。 

  ペテロたちは夕方、捕らえられます。「取調べは翌日から」と決まり、彼らは留置場で一晩過ごします。その夜、サドカイ人を始め国の指導者たちは、どこかに集まって、策を練ったのではないでしょうか? 「何とかして、あのイエスが残した動きを押さえ込まなければいけない。そのためには、どうしたら良いのか?」そんな暗闇の会議が行われていたはずです。 

  ペテロとヨハネの逮捕は、教会にとって、出鼻を大きくくじかれるような事態でした。人間的に見るならばマイナスとしか思えないよう出来事でした。しかし、神様のご計画のうちにあっては、このことも益(良いこと)でした。4章4節です。しかし、話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。 もしも使徒たちの福音宣教が、人の力だけで行われていたのなら、ペテロとヨハネ逮捕によって、信者たちは、ぱぁーっといなくなっていたはずです。「このまま、教会にいたら、自分たちの身も危(あや)うい」と感じて、手を引いていったでしょう。けれども福音宣教は、神の業でした。福音の言葉、真理の言葉が語られるとき、人々はイエス様の十字架と復活に心打たれます。危険をかえりみずに、この福音に全てをかけていったのです。本物に触れた喜び、本物に触れた感動がありました。  

 サドカイ人や指導者たちがはかりごとを練っていたであろうその晩、ペテロとヨハネは何をしていたと思いますか? 留置場でペテロたちは、イエス様のあの言葉を思い出していたのではないかと、私は想像しました。先ほど交読したマタイの福音書10章16-23節のみことばです。  

 ペテロたちは思ったはずです。「ああ、イエス様がおっしゃっていた通りに本当になった。明日、私たちは裁きの場に立たされる。けれども、そこで私たちはイエス様を力強く証しすることができる。そこで何を話そうかと心配する必要はない。聖霊が、私たちを力づけ、聖霊が、私たちに語るべき言葉を与えてくださる!」ペテロとヨハネは、あの時のイエス様の言葉を思い起こし、勇気付けられ、祈りのうちに、安心して眠りについたのではないでしょうか。

  そして翌朝、5節からです。 

5. 指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。 

6. 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。 


  ここに集まっているのは、ユダヤの最高議会、サンヘドリンという名の議会の議員たちでした。現代の日本で言えば、国会議員であり同時に最高裁判所の裁判官でもある。そんな権力者たちでした。主イエス様も、十字架にかけられる際、まずこのサンヘドリンの議員たちの前に立たされています。ペテロたちも、イエス様と同じ立場に導かれていくのです。7節を見ますと、彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。 サンヘドリンの議員たちは、「お前たちは、誰の許可を得て、こんなことをしでかしたんだ? お前たちのバックには、いったい誰がいるんだ!?」と厳しく問いただすのです。

 この場面、以前のペテロだったら、おびえて縮み上がっていたはずです。イエス様が捕らえられ、尋問を受けていたとき、女中さんから「この人も、イエスと一緒にいました」と指摘され、ペテロはおびえ「いや、私はその人を知らない」と、イエス様を裏切ってしまったのです(ルカ22:56,57)。  そのペテロが、今や、まったく新しい人に造り変えられていました。びびらない、恐れない人になっていました。今で言えば、国会議員、最高裁判所長官、警察や検察のトップを前にして、立たされているようなものです。おびえて当然、縮み上がって当然です。けれどもペテロは、聖霊に満たされ、大胆に証しをします。8節から 


 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。


 ここで、じつは裁く者と裁かれる者の立場が逆転していることに気付かれるでしょうか? サドカイ人たちは、自分たちの方がはるか上にいて、ペテロたちを裁くことができると、当然思っていました。けれどもペテロは、そんなユダヤ人指導者こそ、キリストを十字架に付けた張本人なのだと指摘し、彼らを裁くのです。「あなた方がキリストを十字架につけたのだ。キリストは、あなた方が捨てた石」なのだと。  「あなた方は、人間的にはイエス様に勝ったと自負しているかもしれない。目の上のたんこぶのような存在だったイエス様を、あなた方は十字架に付けて死に追いやった。イエス様は人間的に見れば、敗北者のような死に方をされた。

  けれども、神の目から見るならば、キリストは完全に勝利されたのだ。十字架は、私たちの罪を、完全に帳消しにしてくださるための身代わりの死だったのだ。十字架によって、神の愛と赦し、また私たちの救いが完成された。そして、キリストは、死に打ち勝ってくださった。よみがえって今も、生きておられる。今も、働いておられる。40年以上、立ち上がれなかった男が今、歩き回っている。これこそ、キリストがよみがえって、今も生きておられる証拠だ。聖書の約束通り、あなた方がいらないと見捨てた石、それが神の御手によって、大切な礎(いしずえ)の石、すべてを支える要(かなめ)の石となったのだ」  

 裁かれていたはずのペテロとヨハネが、実は、指導者たちの過ちを指摘し、裁く存在に立っている。そのような逆転が起こっているのです。

 裁く者と裁かれる者の逆転、このことを考えていたとき、ある有名な時代劇の一場面が、頭に浮かんできました。何だと思いますか? 「水戸黄門」です。昔は毎週、ゴールデンタイムに放送され、平日の午後、毎日のように再放送されていましたね。ドラマの中の話ですが、江戸幕府の副将軍であった徳川光圀は、自分のことを「越後のちりめん問屋の隠居で・・・」と身分を隠して全国津々浦々、旅します。行く先々で、権力者の不正や犯罪をあばいていきます。

 そんな中で、水戸黄門一行は、不正を犯している悪代官にねたまれ、その地の権力者に捕らえられて、裁きの場に置かれることがあります。しかし、裁きの途中で立場 が逆転しますよ。あの印籠、葵(あおい)の紋(もん)が刻まれた印籠(いんろう)をかざす時、裁く者と裁かれる者 が逆転します。悪代官が、「ははー」とひれ伏し、水戸黄門の裁きに従うのです。 

  なぜでしょうか? それは水戸黄門には力があるからです。彼の持っている印籠は、彼のバックにある権威また力を表しています。徳川家という絶大な権力、財、支配力が彼のバックにあるからです。徳川家には逆らってはいけないのです。 

  では、と考えます。ペテロがここでかざした印籠とは何だったのでしょう? 私たちクリスチャンも、同様にかざすべき印籠とは何なのでしょうか?  

  ペテロは4章12節で、そのことを力強く宣言しています。 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 

  クリスチャンにとって、かざすべき印籠はイエス様です。印籠のように困った時、大変な時だけ、かざすのでは不十分でしょう。いつでも掲げておくべきお方、いつでも掲げるべき旗印ではないでしょうか。天下にイエス様の他に救いはない。イエス様だけが唯一の道であり、真理であり、いのちなのだ。この旗印を確信して、高く高く掲げていきたいと願います。 

  水戸黄門の印籠は、明治維新=江戸幕府の崩壊と共にその権威、力をまったく失ったはずです。人間の力、人の生み出した力には、限界があります。いつかは廃(すた)れていくものです。私たちが、本当に頼るべき力は、永遠に変わることのないお方です。死に勝利してくださり、今も、後も、永遠に生きておられるお方です。 

  このイエス様が、私たちの支援者となっていてくださる。いや、私たちのバックにおられるのではなく、私たちのうちに住んでくださっているのです。私たちとともに生きていてくださっているのです。決して揺るがされることのないキリストの力が今、私をおおっているのです。イエス様が与えてくださる救いは確かで、変わることはありません。 みことばの約束を信じ、聖霊の力によって、私たちはキリストの御名を高く掲げていきましょう。

  クリスチャンの本当に少ないこの国・この地域に生きている私たちです。職場の中でクリスチャンは、あなた一人だけでしょうか。学校の中でクリスチャンはあなた一人かもしれません。家族の中でも、イエス様を信じているのは、あなただけかもしれません。だからこそ、私たちは旗印を鮮明にしていくことが大事なのです。この世の流れに流されないために、私たちは「自分がクリスチャンだ」ということを明らかにしていくことが大事なのです。キリストによって救われ、生かされていることを鮮明にしていく。キリストの旗印をしっかりと掲げていく。そんな私たちでありたいと願います。 

 お祈りをしましょう。 


みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。

 1. 緊張が走り、恐れを覚える中で、ご自分の信仰を表明されたことがあるでしょうか?



 2. その時に神様の助け、イエス様がともにおられる平安、聖霊が言葉を与えてくださる体験をなさいましたか? 



 お祈りの課題など       

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