「イエス様だけが」

マルコの福音書14章1―9節
1. 過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。2. 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。3. さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺(つぼ)を持って来て、その壺(つぼ)を割り、イエスの頭に注いだ。4. すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。5. この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。6. すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。7. 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。8. 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。9. まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

礼拝メッセージ

2023年3月26日

マルコの福音書14章1―9節

「イエス様だけが」


 聖書を繰り返しいっぱい読んで、神のみことばを心に蓄えることは、私たちにとって必要不可欠です。みことばに導かれ、力付けられ、生かされていく私たちです。けれども、その時「もうその聖書のストーリーは分かっている。こうなって、こうなって、こうなるんだろう。そしてこれは、こういう意味なんだろう」と、自分で分かった気になってはいけないんだなあ…と、今回、与えられたみことばを思い巡らす中で、気付かされました。自戒の念を込めて、語らせて頂きます。

初めて、そのみことばに触れた時の「どきどきしたあの感動」、「この後、どうなるんだろう?」というわくわく感を、私たちは忘れてはいないでしょうか? もしもその場に私がいたら、どのように振舞っただろうか? どのような発言をしただろうか? どのように感じただろうか? というその場の空気感を感じながら、2,000年以上前の中東の聖書の世界に飛び込んで行きたいと思わされました。

と、言いますのも、今日のみことばの出来事そのものは、ここにおられる多くの皆さんにとって、もう既にご存知のことだと思います。ひとりの女性が、ご飯を召し上がっているイエス様の頭の上に、ナルドの油 を注いだ。大変強い香りのする香料で、しかもヒマラヤ原産の最高級の香料だった。1g=1万円もするナルドの油を300gも、つまり数百万円もする香料を一瞬にしてイエス様の頭に注いで、使い切ってしまったという流れです。

私たちは、この後イエス様が、彼女のしたことを大変、ほめておられますので、「彼女は本当に素晴らしい女性だ、信仰深い女性だ、おしげもなくイエス様に最高級のものをささげるなんて、なんて立派な献身だ」という先入観で、彼女のしたことを好評価します。もちろん、その評価はあたっているのですが、しかし、もしもその場に私がいたら、イエス様と共に食事をしていたら、全く違う評価をしていたと思うんです。4,5節の、

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。…そして、彼女を厳しく責めた。

 ああ、私はこの場にいた人たち(他の福音書では弟子たちとなっています)。彼らと全く同じことを考え、口にし、寄ってたかって一人の女性を責め立てた人々の一人だっただろうなと思います。間違いなくそうです。

うちには3人の子どもたちがいます。夜になりますと一緒にお風呂に入ります。子どもたちは、蛇口からずっと水を出したまま、水遊びに興じます。翌月来る水道料金の請求が気になる大人は、すぐに止(や)めさせます。「もったいないから、水を止(と)めなさい。お水がなくなったら、大変でしょう。川の水が無くなって、お魚さんが住めなくなったら、どうするの」 ―「もったいないから、やめなさい。」ああ、まさに私は、彼女を責めたてた弟子の一人です。 -

私はこれまで、弟子たちの方がその場の空気を読めていないひどい奴らだ思って来ました。彼女の素晴らしい献身・彼女の素晴らしいささげものを妨害しようとした悪い奴らだという先入観で、この聖書箇所を読んでいました。

でもどうでしょうか? よくよく考えると、かなりびっくりなことを、相当、非常識な事を、全く空気を読んでいないことを、この女性はしています。何よりも、食事中の人の頭に油を注いだんですよ。当時は、香水のようなものとして客人の頭に油を塗ると言う習慣はありましたが、それでも普通はほんの数滴、塗るだけでしょう。彼女は一瓶全部、イエス様の頭に注ぎ尽くしたのです!

想像してみてください。日曜日の礼拝後、みんなで美味しいお昼ご飯を召し上がっている時に、誰かがゴマ油のボトルを持って、あなたの背後に近づき、ふたを開け、あなたの頭の上にどぼどぼと油をこぼすのです。頭から顔に、首に、足の先にまで、べたーと油まみれにさせられるのです。もちろん、ゴマ油とナルドの油を同じように見てはいけないのでしょうが、それでも、これはTVの演出ですから、「お子様は絶対にまねをしないでくださいね」という行為ではないでしょうか。もしも、そんなことを本当にされたとしら、「悪質ないやがらせかよ、いじめかよ!やめろよ」と腹を立てて、もうこれからは、あなたとはお付き合いをしません、もう絶対に口もききませんと、激怒するでしょう。

非常識にも思われるこの女性がいったい誰であったのか…? マルコの福音書には、名前は出て来ません。ベタニア村の女性だったんだろうな、ツァラアトに冒された人シモンの家に住んでいた女性だったんだろうなという素性が分かるだけです。

そういう時は、他の福音書と読み比べてみると、理解が深まります。同じ出来事が書かれているヨハネの福音書12章1節からを読んでみましょう。

1. さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2. 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。3. 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

日付の記録、この行為がいつなされたかについての説明が、マルコとヨハネでは書かれ方が異なっています。ナルドの香油を頭に注いだか、それとも足に塗ったかなどの記述も異なっています。多少の違いはありますが、でもどう見ても、これらは同じ出来事でしょう。ヨハネの福音書によれば、香油をささげた女性は、あのマリアです「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」(ルカ10:42)と言って頂いたマルタ・マリア姉妹のうちのマリアさんです。

 私は、このマリアさんは、普段から叱られることの多い女性だったのではないかなあ…と思えて来ました。ちょっと常識に欠けているような、良い意味で空気が読めない女性だったのでは…と。周りにいる人たち、特に論理的にものを考えたい男性たちをいら立たせてしまう女性だったのではないでしょうか。これは非常に男性目線で申し訳ないのですが…。 すごくまっすぐで、「イエス様お慕い申し上げています」という思いでいっぱいになって、まっしぐらにイエス様に向かって突き進んで行く女性。感情がわーっと出てしまう女性のような気がして来ました。

このマリアさんは、ルカの福音書10章では、お姉さんのマルタをいらいらさせ、間接的に叱られてしまいますよね。「気が利かないマリアだ、空気が読めないマリアだ、こんな時、女はお勝手に立って、せっせこ働くのが務めなのに、何をのんびりと座り込んでイエス様のお話しをちゃっかりと聞いているの!」そんないい意味で空気が読めないマリアさん。

このマリアさん家族は、いつもイエス様に支えられ、救われて来ました。彼女の家であったのか、あるいはマルタがお給仕に来ていた親戚か知り合いの家であったこの家は、「ツァラアトに冒された人シモンの家」と呼ばれていました。当時、恐れられていた病=ツァラアト、誰もうちに上がってくれなかった。でもイエス様だけは違ったのです。この家の客人となり、いつも寄ってくださいました。イエス様の優しさ、本当の愛にマリア一家は救われて来ました。

 さらに彼女は、直前のヨハネ11章で本当に驚くべき、うれし過ぎる神様の御業を体験した直後でした。病で苦しみ、若くして死んでしまった大切な弟ラザロをイエス様は墓の中からよみがえらせてくださったのです。何にも替えがたい弟のいのちを、イエス様は取り戻してくださったのです。本当にうれしくて、うれしくてたまらなくて、感謝したい、感謝したいという思いでいっぱいで、イエス様に一番の宝物、ナルドの香油を注いだのです。さらに女性なりの直感で、イエス様の身にこの後、何か大変なことが待っているのではと気付き、今晩しか、おささげできるチャンスは無いと言う必死な思いで、イエス様におささげしたのです。

それでも彼女のしたことは、非常識な行為だと弟子たちの激怒を買い、「何てもったないことをするのか!」と責められるのです。私も、マリアを責め立てた弟子の中にいます。自分の常識が絶対だ。私は空気を読めている。そして世の中の価値観が正しい。何でもお金に換算して、「得をした、損をしたと考えてしまう」、私はそんな人間です。

でも、ただひとりイエス様だけは違いました。マルコの福音書14章6節から

6. すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。7. 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。8. 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9. まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

「空気を読めていないのは、あなたたち弟子の方なんだよ。全然分かっていないね。『もったいなことをするな、失礼なことは止めなさい』と、責め立てられたマリアの方が、本当の意味で空気をちゃんと読めているんだよ。これからわたしの身にどんなことが起こるのか、察知できているんだよ。マリアは、わたしの埋葬の準備にと、このかぐわしいナルドの香油で香り付けしてくれた、彼女は本当にすばらしいことを、立派なことをしてくれたんだ!」

イエス様だけが、彼女の思いを分かってくださいました。イエス様だけが、彼女のまっすぐな思いを受け止めてくださいました。イエス様だけが、すごいことをしてくれたねと、手放しでマリアをほめてくださいました。最高の評価を与えてくださったのです。

イエス様が絶賛されたので、マリアのした行為は、今、マタイ・マルコ・ヨハネと3つの福音書に刻まれています。もしも、この時イエス様がほめてくださらなかったら、マリアの行為は、ただの向う見ずな突拍子もない行為として、弟子たちの記憶にだけ残って終わったでしょう。イエス様が受け止めてくださなければ、マリアのささげものは、愚かな無駄遣い、もったいない行為としてしか、記憶されなかったでしょう。最悪の場合、非常識なことをしでかした女、大変失礼なことをイエス様にした女という汚名を着せられたかもしれません。

でも、イエス様が分かってくださったので、イエス様が受け入れくださったので、イエス様が感動してくださったので、マリアのしたことは、またマリアの思いは、福音書の中で最高の輝きをはなっています。

10. まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

本当にイエス様はすごいお方です。本当にイエス様は素晴らしいお方です。本当にイエス様は愛なるお方です。

私たちも、神様のために、また誰かのために良かれ(最善)と思ってしたことで、誤解されたり、非常識だと叱られたり、分かってもらえないことがあるのではないでしょうか? 世の中の価値観・ものさしで測られ、つらい思いをさせられる時もあるでしょう。自分は空気が読めない人間なのかな…余計な事を言ってしまったのかな…余計な事をやってしまったのかな…と自分を責め、落ち込んでしまうこともあるでしょう。

たとえ周りからは認めてもらえなくても、周りに受け入れてもらえなくても、ただお一人、イエス様だけは、あなたの真心を理解してくださっています。ただお一人、イエス様だけは、あなたの真心を理解してくださっています。

祈りしましょう


天の父なる神様。 

私の中にも「もったない、なんて無駄な事を」と、マリアを責め立てた弟子たちと同じ考えがあります。お赦しください。

また私たちもマリアのように、真心からしたことを理解してもらえない時があります。受け入れてもらえない時があります。そして失望してしまいます。

そのような時、私たちにイエス様の御姿を、イエス様のみことばを、イエス様のみこころを知らせてください。「真心からささげたことなんだね。立派なことをしてくれたよ。ありがとう!」そう感動し、受け入れてくださるイエス様の愛の眼差しを覚えることができますように。

私たちの救い主=イエス様のお名前を通してお祈りします。アーメン

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