使徒の働き 15章1―11節
1. さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2. それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。3. こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
4. エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
5. ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
6. そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
7. 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
8. そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
9. 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
10. そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
11. 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
礼拝メッセージ
2023年5月28日
使徒の働き 15章1―11節
「恵みによる救い」
A.D.(紀元)30年頃の春、出エジプトを記念する過越の祭りが行われていたエルサレムの町で、私たちの主イエス・キリストは死なれました。私たち全人類の罪を身代わりに背負い、十字架に付けられて。主の死によって、私たちが本来受けなければならなかった最後の審判での罪の刑罰(永遠の苦しみ)は、肩代わりされました。私たちは、この事実を受け入れ、信じ、一方的な神の御恵みによって、赦された者として感謝しつつ歩みます。
そして私たちの主は、死なれ、墓に葬られてから3日目の日曜日の朝、よみがえらされました。死に勝利されました。主の死につながれた私たちは今、主の復活のいのちにあずかっています。この地上での最期は、あなたという存在の消滅でもなく、また別の存在に生まれ変わるようなことでもありません。クリスチャンにとっての肉体の死は、永遠のいのち(天の御国)への入り口です。あなたはあなたとして、主とともに永遠に喜び生きるのです。
復活された主は40日後、弟子たちが見ている中、天に昇られました。主の昇天は、御子イエス様が今、天の御国で父なる神様の右の座(王座)に着かれ、私たちの王(誠実で心優しい王)でいてくださる証拠です。私たちを見守り、支えてくださっている王なるイエス様です。
そしてイエス様は、地上に残していかれる弟子たち(私たち)のために、父なる神と共に約束された助け主=聖霊を天から送ってくださいました。それが今日、ペンテコステの出来事です。ペンテコステとは五旬節という意味で、過越の祭りから50日目にあったお祭りでした。その日から聖霊に導かれて、主イエス様の福音(十字架と復活)が高らかに宣べ伝えられ、主イエス様を「我が神・我が救い主」と信じるクリスチャンが起こされ、キリスト教会が築かれていきます。2000年経った今、私たちも同じ信仰を頂いて、同じ聖霊に導かれて、同じ主を信じ、今日礼拝をおささげしています。
そのペンテコステから20年近く経った(A.D.48年)のエルサレムで、大事な教会会議が行われました。今日のみことばは、そのエルサレム会議の場面です。15章1節、さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
第1回伝道旅行を終え、パウロとバルナバは母教会のアンティオキア教会に帰って来ました。二人はアンティオキア教会で、うれしい宣教報告をし、しばし体と心を休めていました。
そんなアンティオキア教会に、ユダヤのエルサレム教会から、ある人々がやって来ます。彼らはユダヤ人クリスチャンで、15章5節には、元パリサイ派のクリスチャンであったと記されています。厳格なユダヤ教の一派であるパリサイ派出身の教会員たちでした。(パウロも元パリサイ派でした)
彼らは、パウロとバルナバの宣教によって、ユダヤ人以外の異邦人(外国人)もイエス様を信じ、洗礼を受けていること。そして異国の地にも教会が建てられていることを耳にしました。またパウロが、行った先々で「私たちすべての人間は、律法を守り行うことによっては救われ得ない。ただ主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、救わる」(使徒13:39)。そんなメッセージをしていることを知りました。
そのような新しい動きに反発を感じた彼らは、遠くエルサレムからやって来て、異邦人クリスチャンたちに、こう教え始めました。「あなたたちは、そのままではいけない。ただ信じるだけでは駄目ですよ。旧約聖書が命じている『割礼の儀式』や、様々な規定を守らなければ不十分です」
これは異邦人にとって、「異邦人のままでいては救われない。ユダヤ人のようにならなければ、救われない」というメッセージでした。これは大問題でした。「私たち人間が、救われる条件は何なのか?」というキリスト教信仰にとって一番大事な問題でした。キリスト教会発祥の地、本部にあたるようなエルサレム教会の信徒たちが、「あなたたちは間違っている。そのままでは救われない」と言ってきたのです。
パウロたちは、この主張に猛烈に反対します。パウロたちは、これまで異邦人世界で福音を語って来ていました。異邦人であっても、イエス様を信じるだけで人は救われる(=聖霊に満たされている)。いかなる国籍、いかなる文化の人であっても、キリストによって人は生かされ、永遠のいのちを持つことができる。その事実を目撃し、体験してきたパウロにとって、エルサレム教会の一部の信徒たちの意見は、断じて受け入れられないものでした。
2節、それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
教会は、「救いの条件は何なのか?」という問題に対して、一致した答えを得るために、エルサレムに集まり、神様のみこころを求める会議を開きました。3・4節を見ますと、パウロたちはエルサレムへの旅路の時間も、無駄にしていません。それぞれの場所で、喜びの宣教報告をして行きました。各地域教会の信徒たちとの交わりを喜びながら、旅をしていました。
そして5節以降に、エルサレムでの会議の様子が記されています。7節には、激しい論争の後、あのペテロが立ち上がって、発言しています。ペテロは、異邦人の家を訪問し、そこで初めて福音を語った時、異邦人が救われた出来事を思い出して語っています。使徒の働き10章のコルネリウスの家族の救いです。
旧約聖書の律法では「汚れている」とされていた異邦人。そんな彼らの住まいへ「行きたくない、また行けない」と考えていたペテロに、神様は「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(10:15)と語られ、ペテロの心の内にあった偏見を打ち砕いてくださいました。
そしてペテロが、コルネリウスの家で福音を語ったとき、彼らが本当に救われた証拠として、聖霊が一人ひとりに注がれたのです!15章9節では「私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」と語っています。「神様のみこころは、ユダヤ人も異邦人も関係なく、何の差別もなく救うことなのだ。罪で汚れきった私たちの心を、神様はイエス様の十字架の血潮によって、きよめてくださる!神様のみこころは、これだ」と、ペテロは堅く信じていました。
さらに、10節を見ますと、「私たちユダヤ人も、律法をすべて完璧に守り行うことなんて出来ないではないですか! 罪ある人間がどんなにがんばっても律法を守り行って、神様の正しさの規準に達するなんて不可能ではないですか!」私たちが出来なかったこと、私たちが背負いきれなかった重荷を、なぜ異邦人に負わせようとするのですかと、訴えています。
そして11節には、私たち人間の救いは、ただただイエス様の十字架による恵みによってだけなのだ。神様から罪人である私たちに一方的に恵みとして与えられるのが救いなのだ。それ以外には人が救われる方法はないと、語りました。
ペテロのこの発言で、会議の方向性は決まりました。出席した多くの教会員が、神様のみこころが何であるのかに、気付いたのです。パウロは、この時のエルサレム会議の様子を、後にガラテヤ人への手紙の中で書き記していす。先ほど交読したガラテヤ人への手紙の2章1節からです。
異邦人クリスチャンにも「割礼」を受けよと強制する「にせクリスチャン」がいたと言います。私たちの自由、キリスト者に与えられる自由と喜びを破壊しようとする者たちがいた。パウロは彼らと戦った。これは福音の真理を曲げないための戦いだった。後にパウロはそう記します。
では、今この時代に生きている私たちにとって、私たちの自由を奪い取ろうとするもの。私たちを縛りつけようとするものとは、何なのでしょうか?
それは「クリスチャンらしく振舞おうとすること」ではないかと、私は思いました。真心からの純粋な動機ではなく、「人から良く見られたいとか、クリスチャンらしくしなきゃ・・・」といった偽善的な思いですること。また口にする言葉などでは、ないでしょうか。
割礼を受けなきゃ、また律法を守らなきゃ…と、自分で自分を縛っていた人たちのように、私たちの心の内側にも、何々しなきゃ神様から認められない。何々しないと周りから評価されない。そんな思いがあるのではないでしょうか? そして、いつも外見だけをとりつくろうこと。良い人に見られたい。良いクリスチャンだと思われたい。そんな努力をすることに縛られ、それが重荷となって、疲れ切ってしまっては・・・いないでしょうか?
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)と、聖書にあるにも関わらず、私たちは心をきれいにすることよりも、うわべだけをとりつくろうことに、一生懸命になってはいないでしょうか?
私自身そういう人間です。クリスチャンホームで生まれ育ち、しかも小さな頃は、牧師の子どもとして育ちました。自然と「良い子」でいることを身に付けていました。しかし、それはうわべだけの良い子でした。
高校生の頃、私は同じクラスの女子から、「高橋君って、見た目は良い人そうだけど、実は腹黒いよね・・・」と言われました。そういう人間でした。今でも、あまり変わらないかもしれません。
聖書の中に「偽善」という言葉が出てきますが、それは「仮面を付けて演じる」といった意味です。私たちも、クリスチャンの仮面、良いクリスチャンという仮面をかぶって、表と裏を使い分けてはいないかと思わされます。
神様の恵みによって救われた者としての自由をしっかりと持っているでしょうか? 人の目や、人の評価だけを気にするのではなく、神様の恵みの中で、自由に生きていくこと。救われた喜び・感謝・感激をしっかりと味わっているでしょうか? 神様からの一方的な恵みによって救い出されたという喜びや感謝を見失ってしまう時、私たちは偽善的になり、「良いクリスチャン」を演じることに縛られてしまいます。
パウロは、キリスト者の自由をこのように語っています。先ほどのガラテヤ人への手紙5章1節から6節まで、
1. キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
2. よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。
3. 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。4. 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5. 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。
6. キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
この自由。罪とその罰から解放された自由。死ぬことを恐れることから解放された自由。人の目だけを気にして、うわべをとりつくろって生きることからの自由。私たちの心も思いも、すべてを知っていてくださる神様に守られ、生かされているという大きな安心から来る自由。
この自由をしっかりと受け止めながら、この自由を豊かに味わい、喜びながら、歩む私たちでありたいと思います。祈りましょう!
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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