「より多くの人を獲得するために」

使徒の働き 21章17―26節
17. 私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
18. 翌日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。
19. 彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。
20. 彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。

21. ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。

22. それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。

23. ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に、誓願を立てている者が四人います。

24. この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。

25. 信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けるべきであると決定し、すでに書き送りました。」

26. そこで、パウロはその人たちを連れて行き、翌日、彼らとともに身を清めて宮に入った。そして、いつ、清めの期間が終わって、一人ひとりのためにささげ物をすることができるかを告げた。

礼拝メッセージ

2023年9月24日

使徒の働き 21章17―26節

「より多くの人を獲得するために」


 仏教の言葉の「彼岸」ですが、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われている通り、長くいつ終わるかと思っていた残暑から、急に秋がやって来ましたね。長そでをはおりたくなるような秋風がうれしいです。それでも日中はまだ暑い日が続くのでしょうか?

 先週は、大阪の高槻へまた富山へと、家族で出かけることの多い一週間でした。大阪では、土浦めぐみ教会の先生や関西在住の出身者たちが20名以上も集まり、なつかしい再会をして来ました。土浦めぐみ教会は、私にとって18歳から26歳までの青春時代を過ごした教会です。今も大きな影響を頂いている教会です。

 使徒の働きに出て来るパウロとって、エルサレムという町は、私にとっての土浦のような特別な場所だったのではないかと思います。生まれ故郷は、現在のトルコ南西部の「タルソ」という町でした。パウロは外国生まれのユダヤ人でした。その後、エルサレムに移り住み、ガマリエルというユダヤ教の律法学者につきます。エルサレムで旧約聖書を徹底的に勉強したのです。使徒の働き22章冒頭に、パウロのそんな過去が語られています。

青春時代、ユダヤ教徒としてひたすら勉学に打ち込んだのです。パウロも立派ですが、ご両親も立派ですよね。子どもの信仰教育、信仰継承のために必死でした。お金をつぎ込み、息子をエルサレムに送り出します。そして最高の先生のもとで勉強させました。子どもに、神様のみことばをしっかり学ばせてあげたいという、両親の熱意を感じます。

そんな青春時代からかなり経過し、今やクリスチャンに変えられ、世界各地に福音を宣べ伝える宣教師となっていたパウロ。第3回目の伝道旅行を終えて、エルサレムに帰って来た時、そこには3種類の反応があったと思います。①「歓迎」②「疑い」③「敵意」です。

① エルサレム教会の兄弟姉妹は、パウロ先生たち一行を大歓迎します。17節に「私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた」とありますし、20節にも、宣教報告を聞いたエルサレム教会のリーダーたちが、「これを聞いて神をほめたたえ」たと記されています。

「パウロ先生が、諸教会からの献金をたずさえてやって来てくれた。貧しさと苦しみの中にいる私たちを励ますために来てくれた!」このことは大きな喜びでした。さらに、エルサレムから始まって、主イエス様の御救いの知らせが、異邦人世界にどんどん広がっていることを知り、エルサレム教会のクリスチャンたちは、励まされます。全世界すべての人の神、主イエス様をほめたたえたのです。

② 好意的な反応が大多数の中、パウロの教えや働きに対する「ある疑い」が、一部で生じていました。20,21節です。

20. 彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。21. ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。

パウロは、「まじめな」ユダヤ教徒や「頭がちがち」のユダヤ教徒が聞いたら、かなりびっくりすることを大胆に語っていたと思います。ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を見ますと、「人は律法を守ることによっては救われない。旧約聖書に記されている律法を一生懸命勉強して、それ守ろうとすればするほど、それを実行できない自分の罪を知らされるだけだ。人が救われるのはこの私の罪のために身代わりとなって死んでくださった主イエス様を信じる以外にないのだ」。パウロは信仰によってのみ、また神の憐れみと恵みによってのみ、人は救われ得るのだとはっきりと語って来ました。

 しかしそのことが、ユダヤ教徒やユダヤ人クリスチャンに「誤解」を生じさせていました。「パウロは、旧約聖書の神のみことばを否定している。モーセの律法に背くように教えている」と。

③ 27節以降に登場するユダヤ人たちは、そのことゆえに「憎しみや敵意・殺意まで」もパウロに対して抱いたのです。

 これは誤解でした。パウロは「律法を守り行うことでは人は救われない」と語りましたが、「律法を破っても良い」とは一言も言っていません。ユダヤ人男性のしるしである割礼についても、第Ⅰコリント7章18節で、パウロはこう教えています。「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。」

パウロは、ユダヤ人でクリスチャンになって元々割礼を受けている人は、そのままにしておきなさい。しかしユダヤ人以外の異邦人でイエス様を信じ、クリスチャンになりたいという人がいるなら、その人に割礼を強制してはいけない。割礼があるか無いかは、人の救いには関係ないのだから、それぞれ神様に救われた時=召された時のそのままの状態でいなさいと、教えています。訴えられている「すべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな」とパウロが言っているということは、誤解であり、不当な言いがかりでした。

 パウロは、この誤解を解くために、そして何よりもユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの一致のために、エルサレム教会のリーダーたちの提案に従うのです。

 主イエス様の弟であり、エルサレム教会の指導者であったヤコブたち(18節)は、24節で語っているように、パウロに対する疑いが、「根も葉もないこと」だと理解していました。しかし、旧約聖書の律法に慣れ親しんでいるユダヤ人クリスチャンたちを納得させるために、彼らの誤解を解くために、はっきりと目に見える形で、これこれのことをしてほしいと、パウロにお願いしたのです。

 彼らの提案は、今エルサレム教会の中に「ナジル人(びと)の誓願」をしているクリスチャンが4人いる。彼らにより添ってほしいということでした。先ほど交読した民数記6章にナジル人について詳しく教えられています。ある人が、特別に神様への奉仕や祈りに専念したいとナジル人になる誓いを立てます。ナジル人はその期間、髪の毛を切ったり、ぶどうでできた飲食物を口にしたりすることを禁じられます。ひたすら祈りと奉仕に専念するのです。そして、ナジル人の期間が終了したら、伸びた髪の毛を切って、頭を剃り、毛の束を神殿に持って行って、いけにえに添えて、ささげなさいと決められていました。

 仏教では出家する僧侶は、髪の毛を落とし、頭を剃ってから仏門に入るでしょうか。ナジル人は、その逆ですね。また日本でも「物断ち」といって、神仏に願(がん)かけなどするとき、ある飲食物をとらないこと。茶だち・塩だちなどがあるそうです。色々似ていて面白いですね。

ナジル人は、ユダヤ人のユダヤ教の一つの宗教行為でした。使徒の働き18章18節を見ますと、「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を剃った」とパウロ自身も以前、ナジル人になっていました。パウロもれっきとしたユダヤ人であり、旧約聖書の戒めを大事にしていました。

「パウロは、ユダヤ人をないがしろにしている。旧約聖書に逆らう教えを説いている」という批判を正すために、パウロは自らナジル人たち寄り添うのです。使徒の働き21章26節には、「そこで、パウロはその人たちを連れて行き、翌日、彼らとともに身を清めて宮に入った。」と記されています。「宮」はエルサレム神殿です。敵意むき出しのユダヤ人たちが待ち構えていた場所でした。そこにパウロはあえて飛び込んで行きました。

誤解を解くためであり、またユダヤ人教会と異邦人教会に分裂を生じさせないためでした。両者を一致させるためでした。パウロは、こう確信していたと思います。「エルサレム教会の指導者たちの提案に従って、そうすることで、ひとりでも多くのユダヤ人がイエス様の救いに導かれるなら、私はそうする」と。

そんなパウロの確信が、第一コリント9章19,20節に語られています。

19. 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。20. ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには─私自身は律法の下にはいませんが─律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

より多くの人を獲得するために、一人でも多くの人をイエス様のもとに導くために、パウロは自分を捨てたのです。そして人々に仕えていったのです。

私たちはどうでしょうか?「ユダヤ人には、ユダヤ人のように」、「弱い人々には、弱い者に」なれているでしょうか?反対に「ギリシャ人に対しても、ユダヤ人のようにせよ」と押し付けてしまっていたり、「弱さを抱えた人にも、強くあれと」と上から目線で臨んでいることはないでしょうか?

キリスト教信仰の一番大事な部分=福音は決して曲げてはいけません。福音の中心(核心)部分、イエス様の十字架によってのみ救われることは、絶対で変えてはいけないものです。

しかし、それ以外のこと、「この福音をどのように伝えていくのか?」や「教会でどのような奉仕をするのか?」、また「聖歌か讃美歌か、それともワーシップソングなのか、どのような賛美をささげるのか?」といったこと、他にも極端な例ですが「教会のお昼ご飯のメニューを何にするのか」などといった事柄は、福音の周辺部分にあたります。福音の周りにある事柄です。

それらに関しては、私たちは神様の御心を求めながら、私たち自身で共に自由に考え、自由に選択していって良いのです。しかし悲しいかな、私たち教会はそういった周辺にあること、ささいなことでもめたり、争ったり、対立したりしてしまうのではないでしょうか? 最初の教会でも、使徒の働き6章に記されていますが、食卓のこと、貧しいやもめたちへの配給のことが原因で、教会に分裂が起こりそうになりました。

教会に分裂やいがみ合い、ねたみなどが生じて、大喜びするのは、ただ悪魔・サタンだけでしょう。教会が内輪もめしていたら、伝道は進みません。交わりが冷たくなっていけば、宣教は進みません。「そんな教会には、もういたくない」とつまずき、ひとり・またひとりと悲しみながら、教会の交わりから離れて行くでしょう。

「なんだ教会も、この世の集まりと変わらないじゃないか」と、求道者や新来会者がつまずき、去って行ってしまうでしょう。

そうならないために大事なことは何でしょうか? それは、自分の考えや自分の経験、自分の主張を「これが絶対だ!」、「これで間違い無い!」と思わないようにしていくことではないでしょうか? 「こうあらねばならない」とか、「これが絶対だ」と相手を押し切って、自分のこだわりだけを通そうとしないことではないでしょうか?

教会の仲間たちを互いに生かすために、また主の教会を建て上げていくために、私たちは、徹底的に自分を低くし、自ら仕えていくしもべとなりたいのです。ときに自分が馬鹿を見ること、自分が馬鹿になることもあるでしょう。周りの誰かあの人がではなくて、まず自分自身を、そのように見つめていくことが大事です。

それが、より多くの人を獲得するために、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになった」パウロのあり方ではないでしょうか。ひとりでも多くの人たちが、罪の暗闇から救い出され、人生のむなしさから解放されて、永遠のいのちを得るために、私たちがしていくことではないでしょうか?

主イエス様も、天の王座を降りて、人となって生まれてこられました。あの馬小屋の飼い葉おけの中にです。そして十字架であなたの身代わりに死んでくださったのです。主が、ここまでへりくだってくださったのに、どうして私たちが自己主張し合うことができるでしょうか? どうして私たちが、ただ自己満足のためだけに生きていけるでしょうか?

まず、神様の前にあっては、完全さからは程遠い、不完全な弱さだらけの、心の貧しい人間であることを認めていきましょう。イエス様の赦しと憐れみがなければ、何にもできない存在であることを。神様の守りと導きが無ければ、生きてはいけない存在であることを認めましょう。

そんな私たちを救うために、ご自分を無にされ、十字架の死に進んでくださったイエス様をしっかりと心に覚えながら、今週も歩んでまいりましょう。

お祈りします。

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