「大胆に赦しを求めて」

マタイの福音書 27章 1-10節
1. さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。
2. そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。

3. そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。

4. 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」

5. そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。

6. 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」

7. そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。

8. このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。

9. そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。

10. 主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」

礼拝メッセージ

2024年3月17日

マタイの福音書27章1-10節

「大胆に赦しを求めて」


何かと騒がしいここ数日です。長年の悲願が実現した、うれしい。これからこの町・わが町が栄えていくと期待できる。そんな楽観的な気分がある中、今日与えられたみことばは暗く、重苦しい内容です。捕らえられ、ユダヤの最高法院で真夜中に開かれた裁判で裁かれ、議員たちから一斉に「死刑だ」と断罪されたイエス様の身柄が、ついにローマ総督ピラトのもとへ引き渡されます。

 そのことを知ったあのユダ=イエス様をユダヤ当局に売り飛ばしたイスカリオテのユダは罪責感にかられ、耐えられず、精神的極限状態に陥ってしまったのでしょう。自ら首をつって死んでしまうのです。

 恐ろしく、つらく悲しい出来事ですが、聖書は、これらすべてが旧約聖書の預言の成就であった。聖書の本当の著者である神様の御心が、成し遂げられたんだ。神様の完全なるご計画が実現したと語るのです。「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。」(9節)と。

 イエス様が捕らえられ、死刑判決を受け、十字架で苦しまれ死なれたこと、遺体は葬られましたが、三日目の朝、墓が空っぽになっていたこと。そのすべてが決して偶然ではなく、必然であり、最悪に見えるこれらすべては、神様が私たちのために用意された最高の出来事であったのです。残酷に見える十字架刑、悲し過ぎるイエス様の死、しかし、それを向こう側から見ておられるお方がいらっしゃったのです。イエス様をこの地上にお遣わしになった父なる神様は、御子の身代わりを通して、私たち罪人を救おうと御心を立て、それを実行されたのです。

 イエス・キリストの十字架の死は、私たち罪人のための身代わりの死でありました。暗く・重苦しい事実の中に、私たちの救い・希望・喜びがありました。私たちの罪を赦し、生かすための神様の大きな愛のご計画が実行に移されたのです。私たちに本当の平安を与えるための神様の壮大な恵みのご計画が、実現していったのです。

 受難週の金曜日の朝を迎えました。マタイ27章1節 さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。

長く暗い夜が終わり、朝の光が差し込んで来ました。しかしイエス様を絶対に抹殺しようと企む祭司長・民の長老たちは、暗がりの中で恐ろしい話し合いをしていました。ユダヤ当局の内々では、イエスという男は「唯一絶対なる神と自分を同列に置く罪人だ。神を冒涜する重罪人だ。殺されなければならない」と断罪できました。

しかしこの時代、ユダヤの最高法院(議会)には、犯罪者を死刑に定め、死刑を執行することは許されていませんでした。ユダヤ当局よりも上にいたローマ帝国、実質的にユダヤを植民地としていたローマの総督の手に、死刑の判決と執行の権限がありました 。

そこで、ピラトは言った。「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」ユダヤ人たちは言った。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」(ヨハネの福音書18:31)

ですから、ローマ総督ピラトに、イエスがどんなに危険な人物であるのか、どれほど恐ろしい犯罪者であるのかを立証しなければいけませんでした。しかし、ローマ帝国は、多民族・他宗教を包含しながら、大帝国を築いていました。各地の宗教問題には介入しませんでした。ですから、ユダヤ当局が作り上げた「神を冒涜する重罪人」という罪名ではイエス様を処刑できません。ユダヤの指導者たちは策を練り、ピラトに対しては、「このイエスという男は危険な政治犯です。クーデターを企てるテロリストのリーダーです。『我こそがユダヤ人の王だ』と主張し、信奉者たちを従えてエルサレムに乗り込んで来ました。このイエスは、社会の安寧秩序を著しく乱し、ローマ帝国の素晴らしい権威に逆らう犯罪者です」と訴えたのです。ユダヤ当局は、イエスをそのような恐ろしいやからだと、ピラトの前で強調したのです。27章2節、 そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。

厳重に縄で縛りつけておかなければならないほど、恐ろしい危険人物だと示しながら、イエス様を無理やり引っ立てていったのです。

連行されていくイエス様の姿を、ユダは目撃したのかもしれません。金曜日の朝、イスカリオテのユダは、イエス様の身にこれから何が起こるかを悟りました。イエス様が殺されようとしていることを知り、激しく動揺します。恐ろしくなります。それも自分のせいで、自分がイエス様を敵の手に売りとばした結果、イエス様がこうなってしまったことにがく然とするのです。

自分がやってしまったこと の、当然の結果でした。自分のせいでした。もしかしたらユダの心の中には、「イエス様を追い込めば、イエス様は何かすごいことをなさるのではないか。ユダヤ国民を苦しめているローマ軍を追い払い、メシヤとして君臨されるのではないか!」そんな期待があったのかもしれません。どんな病をも奇蹟で癒されたような、すごいことが起こることを期待したのでしょうか…。あるいは、ただその時の金欲しさで、イエス様を銀貨30枚=奴隷一人を売買する値段で売ってしまったのでしょうか…。

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。 (マタイ26:14―16)

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 (マタイ26: 47―50)


3,4節 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」

ユダは自分がしてしまったことを後悔しました。しかし悔い改めませんでした。後悔は「ああ、なんてことをやっちゃんだ…もう終わりだ、もう駄目だ…」という絶望的悲しみです。

そしてユダは「ごめんなさい、申し訳ありませんでした」と謝罪すべき相手を間違えました。銀貨30枚を支払ってくれたユダヤ当局に「とんでもないことをしてしまった…。銀貨30枚返すから、おれがやったことをちゃらにしてくれ。無かったことにしてくれ」と頼み込みに行ったのです。

しかし、相手にしてもらえません。絶望したユダは5節 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった のです。


ユダの悲惨な最期はペテロと正反対です。ペテロもイエス様を裏切りました。イエス様を守るべき場面で三度も「あんな奴、知らない、俺とは関係ねえ」と完全にイエス様を見捨てました。ペテロもユダも外に出て行きました 。顔向けできないとイエス様から遠ざかりました。しかし、ペテロは絶望しながらも、イエス様のあわれみと励ましに満ちたまなざしを感じました 。「信仰が無くならないように。再び立ち直ったら、兄弟たちを励ますんだよ」というイエス様の祈り を心の奥で聞いていました。耳にこだまして来るイエス様のみことばによって、彼は激しく泣きながら悔い改めたのです。「イエス様ごめんなさい、イエス様申し訳ありません。弟子失格です。それでもイエス様、あなたの憐みに満ちたそのまなざし。その御心ゆえに、私を赦してください」それがペテロの告白だったでしょう。

   ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。(マタイ26:75)

主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。(ルカ22:61, 62)

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31, 32)


イスカリオテのユダもイエス様の前に出て行って「イエス様、本当に申し訳ないことをしました。取り返しのつかない裏切りをしてしまいました。赦され得ないと承知しています。けれども、どうか憐れんでください。私を滅ぼさないでください」と、ひざまずいて告白したら、ユダの最期は違ったものになったかもしれません。ユダは進み行く場所を間違えたのです。

Ⅱコリント7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。


さらにおぞましいことに、ヨハネの福音書11:57で「祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた」と、「イエスの居場所を密告せよ」と命じていた張本人は祭司長・パリサイ人でした。ユダに銀貨30枚を支払った張本人も彼らでした。そんな彼らはユダを捨て駒のように利用し、「もうお前なんて、用なしだ」とユダを見殺しにしたのです。後悔の念で耐えられなくなったユダが投げ返した銀貨30枚を見て、「これは不正なお金だ。こんなものを神殿の金庫に入れたら、聖なる神の宮が汚れる」と、受け取りを拒否したのです。もとはと言えば、自分たちの財布から出した銀貨30枚です。それを「血の代価」だ。人を殺すために使ったおぞましい銀貨だ。イエスの、ユダの死の匂いがするおぞましい金だと、言うのです。一番おぞましいのは、彼ら自身であるのに、その事実に気が付かないのです。

ユダが投げ返した銀貨30枚は、エルサレムで客死(かくし)した外国人のための墓地、または無縁仏を葬る墓地となりました。陶器師の畑、そこでは陶器を作るために粘土が掘り起こされていました。そこにあった多くの穴が死者を葬る墓地となっていきました。

マタイは、この一連の出来事は、本当に旧約聖書の預言が成就したのだ。エレミヤやゼカリヤが数百年も前に、預言した通りだと記しました。先ほど交読したみことばにあった通りです。神様のご計画が実現したのです。最悪にしか見えないことを通して、神様の救いが実現した。最善が実現したのです

ヘブル人への手紙4章
6. ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、また、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、
7. 神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。


11. ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
12. 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
13. 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
14. さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

15. 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

16. ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 

あの時のペテロのように、イスカリオテのユダのように、とんでもないことをしてしまった…。取り返しのつかないことをしてしまった…と、自責の念にかられ、絶望してしまうことがあるかもしれません。自分の非情さ、罪深さ、どうしようもなさを嫌というほど知らされ、顔を上げられないこともあるでしょう。

 けれども、そんな私たちを絶対に見捨てず、見離さない方がおられるのです。「あわれみで胸が熱くなっておられる」(ホセア11:8)神様が待っていてくださいます。「どう考えても赦されない…」そう自分で判断せずに、ご自分のいのちを投げ出してまでして、私たちを赦し、救ってくださるイエス様を思い出しましょう。信じて大胆に、イエス様の前に進んで行きましょう。

その時、あなたは「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカの福音書5:20)「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(ルカ7:50)「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネの福音書8:11)という主イエス様の御声を聞くのです。

祈りましょう。

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