「聖霊により宿られたお方」

マタイの福音書1:18-25
18. イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19. 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20. 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21. マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22. このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23. 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24. ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、

25. 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

聖餐礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ⑤

2024年5月5日

マタイの福音書1:18-25

「聖霊により宿られたお方」


暑さすら感じる5月の連休を過ごしています。

世の中のメディアでも報道されましたが、日本のキリスト教会にとって大きな存在であった方が先週、天に召されました。詩画作家の星野富弘さん(78歳)です。美しい花々の絵と神様への信仰に基づく詩を口にくわえた筆で書き記してこられました。その作品は多くの方たちを励まし、慰めています。私もその一人です。星野さんの生まれ故郷であり、創作活動をされていた群馬県の富弘美術館を2度訪問しました。ある作品を前にした時、私はそこから離れることが出来なくなりました。その作品に登場する地元の少年の優しさと、その子を見つめる星野さんの優しさが胸に迫って来て、涙が止まらなくなりました。これからも残された作品を通して、神様の素晴らしさと信仰の力が証しされてほしいと思います。

 さて今朝、与えられた聖書のみことばはマタイの福音書1章、クリスマスの出来事です。聖霊降臨日:ペンテコステを前にするこの5月ですが、主イエス様が地上にお生まれになった際にも、聖霊は力強く働いておられました。使徒信条で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」と告白しています。

天の父なる神様は、愛するひとり子を地球に送り出すために、うら若きおとめマリアを選ばれます。マリアに神のひとり子を産み、育てていく歴史上最大の使命を託されたのです。

マタイ1章18節、イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。

私たちはイエス様のご降誕について、次の3つの事実を信じます。

1. 聖霊によって母の胎に宿るという奇跡的誕生をされたお方:神であられるイエス様を私は信じます。

 マリアはすでに婚約を済ませていましたが、結婚生活はまだ始まっていませんでした。おとめ、処女(しょじょ)でした。そのマリアのお腹に赤ちゃんが宿ったのです!神の御子がマリアの胎に入って来た。それも聖霊によって!聖書は驚くべきことを淡々と語ります。夫婦の営み、男女の営みで生み出された命ではありません。聖霊によって身ごもった!このことを人間の小さな頭で理解しようとしてもできないでしょう。医学的に、または生物学的に解明し、説明しようとしてもできないでしょう。全能なる神様が、ご自身の意思・御心によって、御力でそうしてくださった。私たちは、この事実をそのまま信じ、受け入れるのです。

2. 人間の母であるマリアからお生まれになったイエス様:完全に人となられたイエス様を私は信じます。

けれどもイエス様は、はためには他の赤ちゃんと何ら変わらない存在でした。お腹の中ではマリアとへその緒でつながり、栄養をもらい、生かされる存在でした。そしてあのベツレヘムの家畜小屋で、初めてのお産を前に緊張している母マリアとヨセフの懸命の努力によって、生まれて来たのがイエス様でした。か弱く不確かな存在でした。

生まれてからは母乳で成長し、両親に下の世話をしてもらい、おんぶされ、だっこされ、家族や周りの人たちに愛され育まれ、成長して行かれました。神様が人間の赤ちゃんとなって生まれて来る。全能なる神が無力で何もできない存在になって母の胎に身を委ねられる。無限のお方が限界だらけの人間になられる!危険すぎる賭けのように思えますが、神様はそうしてくださったのです。それは神様が、私たち人間にいつも関心を抱き、私たちを愛してくださっているゆえでした。何よりも、私たちを救うためでした。

私たちが日常生活で味わう喜怒哀楽・苦労・悩み・貧しさ・みじめさ・弱さ・痛みをイエス様は肌で体験してくださったのです。イエス様は、罪は犯されませんでしたが、それ以外は何もかも私たちと同じように、いや私たち以上に、この世界で体験してくださったのです。

ヘブル人への手紙4章15節私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

人々から冷たい視線にさらされ、悪魔の誘惑にさらされ、大切な友に裏切られることも経験されました。愛する友が若くして死んでしまった悲しみも、ありとあらゆる試練・葛藤を体験してくださったのがイエス様なのです。そして今日この後、聖餐式にあずかりますが、マリアからお生まれになったイエス様は、母マリアの目の前で、あの十字架の痛み、御苦しみ、恐怖、孤独を人として体験されたのです。

しかし、イエス様の地上での生涯は決して一人ぼっちではありませんでした。いつも、どんな時にも三位一体の神が互いに支え合い、励まし合い、共におられたのです。

3. マリアとヨセフが「聖霊により救い主が宿った」との神様のみことばを信じたように、私も信じます。

聖霊によって神の御子が宿った。このことを最初に信じたのが、当事者となった二人でした。マリアとヨセフは、人間の常識をはるかに超えた神様の御業に自らを委ねました。神様のみことばを信じたのです。二人とも、それぞれ突然の驚きと想像もつかないような恐れ・不安・悩みを抱きましたが、それでも神様の約束を信じました。

私たちも信じます。私たちのためにお生まれになった神の御子を。私たちの身代わりに十字架で死んでくださった救い主を。3日後に墓からよみがえられたキリストを、天に昇り、私たちのためにとりなしてくださっているイエス様を、私たちも信じます。

そして、イエス様が聖霊によってこの地上で生を得られたように、私たちも聖霊によって新しく生かされていることを信じます。先ほど交読しましたローマ人への手紙 8章 11節にはこうありました。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

私たちが自らの罪を示され、その時、イエス様の十字架が心に迫ってくること。イエス様を救い主と信じることができること。そのすべてが聖霊の働き・導きによってです。私たちは普段、なかなかこの聖霊のお働きに気付けません。何かが起こった後で、「ああ、あのことは聖霊の導き、聖霊の助けだったのだなあ」と気付かされます。教会に導かれた理由、信仰告白し、洗礼を受けることが出来た経緯、クリスチャンとして歩まれている日々は、ここにおられるお一人おひとり皆、違っているでしょう。

厳しい試練、ご自身やご家族の痛み・悲しみ、人生の挫折や真剣な悩みを通らされて、神様のもとに導かれた方もおられるでしょう。うれしいことがあって、神様に感謝したいと教会を訪れた方もいます。それぞれの歩みに、それぞれの人生に助け主なる聖霊がともなってくださって、私たちを御救いに、神の子としての新しいいのちに導いてくださるのです。

最後に今朝も「ハイデルベルク信仰問答」の問いと答えから、イエス様が人となって来られたことのすばらしさを、そして十字架で成し遂げてくださったみ救いのすばらしさを確認しましょう。

問35 「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ」とは、
    どういう意味ですか。


答  永遠(えいえん)の神(かみ)の御子(みこ)、

   すなわち、まことの神であり、またあり続けるお方が、

   聖霊の働きによって、処女(おとめ)マリヤの肉と血とから

   まことの人間性をお取りになった、ということです。

   それは、御自身(ごじしん)もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては

   すべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。



問36 キリストの聖なる受肉(じゅにく)と誕生によって、

   あなたはどのような益を受けますか。


答 この方がわたしたちの仲(ちゅう)保者(ほしゃ)であられ、

  御自身の無罪性(むざいせい)と完全なきよさとによって、

  罪のうちにはらまれたわたしのその罪を神の

  御前(みまえ)で覆(おお)ってくださる、

  ということです。


「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」と信じ、告白します。罪に沈んでいた私を救うために、赦すために、生かすために、神の御子イエス様は、完全な人なってマリアから生まれて来てくださいました。このお方は仲保者:自らの罪のせいで断絶してしまった、私たちと父なる神様との間をつなぎ直してくださるお方です。自らのいのちを犠牲にして、私たちの身代わりに罪の刑罰を受けてくださり、その十字架の死によって、神様と私たちの橋渡しをしてくださいました。

罪を持つ私たちと全く同じ存在:罪人では聖なる神様の御前で、他者のための完全ないけにえ、犠牲とはなりません。自らの罪の報いを受けるだけです。まったく罪の無い聖なるお方だからこそ、私たちのための完全な身代わりであられるのです。

また、痛みも苦しみも全く感じない完全無欠な神様のままだけであったなら、イエス様は私たちの救い主とはなりません。痛みを感じ、恐れを感じる人なってくださったので、私たちと同じ立場にまで下って来てくださったので、イエス様は私たちの身代わりであられるのです。

これから聖餐式にあずかります。イエス様の十字架の犠牲の尊さを覚え、それが私たちを赦すために、救い出すために、生かすために完全であったことを信じ、聖餐式にあずかってまいりましょう。

祈ります。


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