「遣わされる神・遣わす神」

ルカの福音書4章14-22節
14. イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。
15. イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。

16. それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

17. すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。

18. 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、

19. 主の恵みの年を告げるために。」

20. イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。

21. イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

22. 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝メッセージ

2024年5月19日

ルカの福音書4章14-22節

「遣わされる神・遣わす神」


今日のペンテコステ礼拝の準備をしていく中で、先週の週報で事前にお伝えしおいた聖書箇所とメッセージタイトルから、大きく変更するようにと導かれました。

以前、牧師の学び会で読んでいた『父と子と聖霊 三位一体論』(南窓社、1984年)という本をめくっていく中で、その内容の一部分を皆さんにお分かちしたいと思わされました。カトッリク教会の神学者ピーター・ネメシェギ先生が三位一体を解説している良書です。ネメシェギ先生は、「三位一体の神は、遣わされ・遣わす神であり、またご自身を明け渡される神なのだ」と語っておられます。

聖書とくに福音書を開いていく中で、本当に神様はそのような素晴らしいお方だとあらためて気づかされています。今朝は多くの聖書箇所を引用しながら、「遣わされる神・遣わす神」というテーマで父・子・聖霊なる神様のすばらしさを確認し、そして私たち一人ひとりに神様が託してくださっている使命を確認していきます。

1. 父なる神様は、御子キリストと聖霊を、私たちのために遣わされる。

約2,000年前、イスラエルの地にお生まれになり、30歳になられてから人々の前に立って語り始め、癒しの奇跡を起こしてくださった主イエス様。イエス様は、「わたしは天の父からこの世界へと派遣されて来たのだ」という明確な自己認識をされていました。

先ほど交読したイザヤ書61章のみことばを、安息日の礼拝で朗読されたイエス様は、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」(ルカ4章21節)と宣言されます。「700年前にイザヤはわたしについて語っていた。ここに記されているメシヤ(油注がれた者:王・祭司・預言者)=救い主は、わたしだ」と宣言されたのです。「主の霊:聖霊が注がれ、主によって遣わされた者が今ここに立っている」と。

そしてイエス様は、この世界に遣われて来たご自分の役割=使命を明確に自覚しておられました。

① ひとり子であるご自分だけが知っている父なる神様のお心・ご性質を、私たちに知らせるため。

「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」(マタイ11:27)

したがって、イエス様を見る者は父なる神様を見、イエス様を知る者は父なる神様を知り、イエス様を信じる者は父なる神様を信じるのです。

イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(ヨハネ12:44,45)

② 私たちの身代わりに、十字架でいのちをささげてくださるため。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)

12弟子の一人であったヨハネは、イエス様がこの世界に遣わされて来たのは、父なる神様の私たちに対する愛の極みのゆえであったと証言しています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16,17)

 そして、イエス様がもたらしてくださった救いは、聖霊が遣わされることによって 全うされるのです。

 十字架の死と復活の勝利の後、イエス様は弟子たちに言われました。

「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

復活され、天の父なる神様のもとに帰られたイエス様は、約束された助け主=聖霊をペンテコステの日曜日の朝、弟子たちに送ってくださったのです!この聖霊のすばらしさについて、イエス様は前もって、最後の晩餐の席で弟子たちにたくさん教えてくださいました。

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(ヨハネ14:16,17)
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 聖霊が与えられ、イエス様を信じて救われたパウロも証言します。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)

 これら神のことばである聖書を通して、次のようにはっきりと言うことができるでしょう。「父なる神様は、御子イエス・キリストを遣わし、聖霊を遣わすことを通して、私たちに対するご自分の無限の愛を示してくださった!」と。私たちの心に神様の愛を知らせ、罪人である私たちを赦し、救い出し、ご自身と和解させるために、父なる神様はイエス様を派遣され、御霊を私たちに与えてくださったのです。

2. 聖霊によって、キリストを通して、私たちは父なる神様のみもとに近づくことができる。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)

私たちが自らの過ち・罪に気づかされる。そこからイエス様の十字架を見上げ、「主よあわれんでください、主よ赦してください」と悔い改めに導かれる。その時、赦されている喜び・平安を頂ける。イエス様を主と信じ告白し、洗礼を受ける。そのすべてが私たちの内に住まわれる聖霊の働き・導きによるのです。

そして聖霊に導かれキリストを信じ、キリストに似た者に変えられ、キリストとひとつになっていく私たちは、安心して大胆に父なる神様のもとへ行くことができるのです。何でも父なる神様に祈り求めることができるのです。

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。(ガラテヤ4:6)
「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」(エペソ3:12)
「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル 4:16)

3. キリストに呼び出され、助け主なる聖霊と共に、私たちもこの世界に証し人として遣わされていきます。

 神様の愛に満たされ、イエス様によって救われ、聖霊に導かれて歩む私たちには、神様から託されている使命があります。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ 15:4)

 イエス様の愛にとどまる。イエス様のみことばの内を歩む使命です。しかし、このことはクリスチャンの仲間内だけにとどまる、教会の中だけにい続けることを意味しません。反対に、そこから私たちはイエス様を証しする者として、日々この世界に遣われていくのです。この世界にイエス様の実を、御霊の実を実らせていくのです。

イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ 20:21)

 キリストだけがまことの救い主、まことの神であることを証しするために。羊飼いのいない羊のように傷つき弱り果てて倒れている人たち(マタイ9:36)に、まことの羊飼いを証しするために、私たちは先にイエス様に選ばれたのです。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)と、私たちをも弟子に呼び出してくださる主イエス様は、「神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。」(ルカ9:2)と、私たちを遣わしてくださいます。使命を与えられた「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」(ルカ9:6)のです。

「自分はしゃべるのが苦手だ、難しいことは言えない。勇気がない。」私も正直そう思います。しかし証し・伝道はあなたの社交性・会話力・知恵・経験によってなされるのでありません。父なる神様の愛と熱心さ・イエス様のたぎるような情熱・助け主なる聖霊の導きによってなのです。ですから、証しは・伝道はあなたが一人だけでする孤独な働きでありません。インマヌエルの主、ともにいてくださるイエス様、かたわらに、心の内におられる助け主=聖霊なる神様との共同作業です。

「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」(マタイ10:19,20)

ペンテコステの日曜日 = 聖霊が与えられ、キリストを信じる者たちの新しい群れ=教会が誕生し、キリストの御救いがそこから世界中に宣べ伝えられるようになった世界宣教の始まりの日です。

今一度、私が救われている喜び、主によって生かされている私の使命を再確認していきましょう。

祈ります。


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