「死んで葬られ、よみにくだり」

マルコの福音書 15章37-47節
37. しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
38. すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

39. イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」

40. 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。

41. イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

42. さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、

43. アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。

44. ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。

45. 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。

46. ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。

47. マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ⑧

2024年6月9日

マルコの福音書15章37-47節

「死んで葬られ、よみにくだり」


パソコンやスマホで、死後の世界を意味する「よみ」という言葉を打ち込んで漢字に変換すると、「黄泉(よみ)」という熟語が出てきます。古事記など日本の神話の中で描かれている恐ろしい死者の世界です。

その「よみ」という概念を、聖書の「シェオル」(ヘブル語)や「ハデス」(ギリシャ語)という死後の闇の世界を表す単語の日本語訳に利用したのですね。文語訳聖書や口語訳聖書は「黄泉」と表し、新改訳聖書 第3版は「ハデス」と記し、新改訳2017は「よみ」とし、新共同訳聖書では「陰府(よみ)」となっています。

「よみ」は、「火の燃えるゲヘナ」(マタイ5:22)と呼ばれる「地獄」とは、異なる世界のようです。すべての人はいつか必ず死を迎えます。それから「よみ」と呼ばれる世界にくだり、その後、神様の最後の審判によって、私たちは永遠の救い(天の御国)か、永遠のほろび(地獄)かに行く先が振り分けられます。主イエス様は、「ゲヘナ(地獄)」には落とされませんでしたが、死者たちが待っている「よみ」にまで下られたのです。金曜の夕べから日曜の朝まで3日間、そこにおられたのです。

使徒信条でもイエス様が、「死んで葬られ、よみにくだり、」と告白しています。どうしてイエス様は、① 十字架で完全に死なれた、② そして墓に葬られた、③ さらに死後の世界「よみ」にまで下られた、と使徒信条は細かく、念入りに言葉をつないでいるのでしょうか? 


① キリストの死と復活の事実を否定しようとする者たちへの明確な反論として 

使徒信条が整えられていくキリスト教会の歴史の中で、様々な異端の教えが教会に入り込んで来ました。その中には、

・ 完全な神であるイエスが死ぬはずがない。身体は人間として死んだとしても、たましいは神(聖なる完全なもの)として死ぬことはなかった、という主張がありました。

・ また、キリストは十字架上で気絶したような「仮死状態」のまま葬られてしまったのではないか。完全に死んでいなかったのではないか。そこから目を覚ましたに過ぎない。だから復活は作り話だという主張です。

 どちらの主張も聖書から否定できます。イエス様は完全に神であり同時に完全な人となって地上に来られました。「肉の身体は不浄で一時的なものであり、霊的たましいは聖く永続するもの」といった当時の哲学の教えのようではありませんでした。身も心も、肉体もたましいもイエス様お一人の中に分離することなく完結していました。

 その両方(人間としてのご性質と神としてのご性質・また肉体とたましい)が、あの十字架で痛めつけられ、苦しめられ、傷つけられて、イエス様は完全に死なれたのです。先週みことばから聞きましたように、私たちの罪の身代わりに、神ののろいをすべて引き受けて、のろわれた者となってイエス様は死んでくださったのです。

イエス様の死亡診断を福音書は明確に記録しています。「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた」(マルコ15:37)「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。百人隊長に確認すると、」(マルコ15:44,45)「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている」(ヨハネ19:33―35)。

通常、十字架につけられた死刑囚は2・3日もうめき、苦しんでから絶命しました。ですからその日のうちに、わずか6時間ほどで息を引き取ったという報告を受けても、総督ピラトは信じられませんでした。ローマ軍の百人隊長を呼んで確認します。人を殺す訓練を受けている兵士です。味方の生死・敵の生死を見極めることが出来る人です。その軍人がイエス様の死を確認しているのです。さらに心臓がもう止まっているイエス様の脇腹をローマ兵はやりで突き刺しました。血と水が分かれて飛び出しました。もうすでに死亡確認はされていましたが、たとえ仮死状態であっても、出血多量で絶命するでしょう。

このようにイエス様は、私たちのために、私たちの身代わりとなって十字架で完全に死なれたのです。


 キリストの死の先に、同じように、キリスト者の死の先にある大いなる希望・安心・喜び。復活の確かな約束があることを信じるため。

そのイエス様のなきがらを、裕福な議員であったアリマタヤ出身のヨセフが引き取って、自分のために用意しておいた、まだ誰も葬られていない墓に葬ったのです。マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。(マルコ15:47)

そして3日後、その墓は空っぽになっていたのです。間違いなくイエス様の遺体が安置されているはずのお墓が。墓の前の石の大きな扉が、封印されていた扉が開いていて、その中は空っぽでした。イエス様は復活されたのです。

私たちもいつか死を迎えます。日本の教会では臨終、納棺、お葬式、火葬、収骨とあって、それから墓地に埋葬されます。「死んで葬られ」となります。しかし、それであなたという存在が消えて無くなることはないのです。使徒信条で「3日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。」と告白しているように、「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)とみことばが約束しているように、私たちもイエス様とともに死に、イエス様とともによみがえるのです。

死んで葬られる日の先に、復活の確かな希望・安心、天国の最高の喜び、栄光のからだへの復活が必ずあることを信じ、力強く歩んで行きましょう。


③ たとえ、私たちが「よみ」のような暗闇の絶望状態に叩きのめされたとしても、もうすでに私たちの主イエス様は、そこまで落ちてくださり、そこを通り抜け、勝利してくださったことを知るため。

 私たちは、生きている中でそれぞれ悩み苦しみ、病み痛み、つらい中を通らされます。絶望させられる現実もあります。真っ暗闇のような状況に落とされることもあるでしょう。しかしそれでもイエス様が味あわれたような、あそこまでの極限の苦しみは、まだ味わっていないように思います。いかがでしょうか?

 イエス様はその全てを体験してくださったのです。

― 私たちが味わってきたつらい過去、悲しみ、みじめさ。

― 今、私たちが感じている痛み、苦しみ。

― これからも私たちが味わうであろう嘆きや苦悩

 その全てを、イエス様は極限まで体験してくださったのです。

イエス様はよみにくだられた。「よみ」とは死んだ人が行く世界です。暗闇・暗黒・いのちの輝きなどみじんも無い世界です。そこにイエス様は下ってくださったのです。

『ハイデルベルク信仰問答』は、イエス様がよみに下られたという告白について、こう解き明かしています。

ハイデルベルク信仰問答問44 なぜ「陰府(よみ)にくだり」と続くのですか。答え それは、わたしが最も激しい試みの時にも   次のように確信するためです。すなわち、   わたしの主キリストは、
     十字架上とそこに至るまで、
     御自身もまたその魂において忍ばれてきた

     言い難い不安と苦痛と恐れとによって、

     地獄のような不安と痛みから

     わたしを解放してくださったのだ、と。 

答えは一文が長く、難しい文章ですが、分かりやすく言えば、こういうことではないでしょうか。イエス様は苦しみ抜いて十字架で死んでくださった。それだけでなく、墓に葬られ、よみにまで下ってくださった。それは、私たちが体験する最も激しい試みをも、イエス様はすでに体験し、それを耐え忍んでくださったということなのだ。

だから、たとえ「地獄」としか思えないような状況・不安・苦痛・恐怖の中を通らされても、イエス様はすでにそれを体験してくださっている。不安でおびえている、痛み苦しんでいる私とともにイエス様はいつも、いてくださる。さらにすばらしいことに、十字架の死によって、また復活によって、イエス様は私たちを「地獄」のような絶望から解放してくださっているんだ。

先ほど詩篇88篇のみことばを交読しました。「よみ」としか思えないような痛み・孤独・恐怖の中で苦悩している信仰者のうめきです。

3. 私のたましいは 苦しみに満ち 私のいのちは よみに触れていますから。4. 私は穴に下る者たちとともに数えられ  力の失せた者のようになっています。5. 私は  死人たちの間に放り出され  墓に横たわる  刺し殺された者たちのようで
す。

それでも、この信仰者はその苦悩を主なる神様に向かってうめくのです。

1. 主よ 私の救いの神よ 昼 私は叫びます。夜もあなたのみそばで。
2. 私の祈りを あなたの御前にささげます。どうか 私の叫びに耳を傾けてください。

 

よみの中から叫び求めるのです。叫び求めて良いのです。それを聞いていてくださお方がおられるのです。「わたしもそこを通った。苦しいだろう、しんどいだろう、分かっているよ」とすべて分かっていてくださるお方、完全に共感してくださるイエス様がおられるのです。人は誰も分かってかってくれないかもしれない。でもただ一人イエス様だけは分かってくださるのです。

そして死を打ち破り、よみから復活されたイエス様は、あなたを必ずよみのような状況から救い出してくださいます。あなたの身と心を誰よりも知っていてくださり、愛していてくださり、いつくしんでいてくださるイエス様が、あなたをよみに捨てたままにしておくことなどあり得ないからです。

祈りましょう! 

天の父なる神様。今朝もみことばをお与えくださり、ありがとうございます。

ひとり子イエス様は、私たちの身代わりとして、十字架に付けられ、死なれ、葬られ、よみにくだってくださってくださいました。

イエス様は、私たちが味わう全ての絶望をなめ尽くしてくださいました。私たちが、どんな試練に遭う時にも、どんな苦しみ中に置かれる時にも、イエス様は、私たちと共にいて慰め、励ましてくださっています。ありがとうございます。

イエス様は、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫んでしまう絶望の淵に立たされても、死の淵を歩まれても、「父なる神様は、必ずわたしを守り支え、共にいてくださること」を信じてやみませんでした。どこまでも父なる神様の御心に従い、最後は「完了した」と宣言されて、命をささげてくださいました。

全ての絶望を味あわれ、全ての絶望に勝利してくださった希望の主、救い主イエス様のお名前によってお祈りいたします。

アーメン

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