ヨハネの福音書 16章 7-16節
7. しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8. その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9. 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10. 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11. さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
12. あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
13. しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
14. 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
15. 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
16. しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」
礼拝メッセージ
使徒信条シリーズ⑬
2024年7月14日
ヨハネの福音書 16章7-16節
「慰め主(なぐさめぬし)なる聖霊(せいれい)」
「暑い、暑い」と毎日、口にしてしまう今日この頃です。体調を崩されたりしていませんか? 色々なことがある毎日ですが、今朝もともに主なる神様を見上げ、とこしえに変わることのない神様のみことばに耳を傾けましょう。みことばに教えられ、励まされ、導かれていきたいと思います。
今朝は、使徒信条の「わたしは聖霊を信じます」という告白を聖書から深く味わっていきます。聖霊なる神様は、皆さんにとって身近な存在でしょうか? 普段、聖霊をどれほど意識して生活しているでしょうか?
礼拝メッセージで使徒信条について語る中で「ハイデルクベルク信仰問答」をよく引用しています。プロテスタント宗教改革の後、1563年にドイツで作られた信仰入門のテキストです。その中で「聖霊を信じます」という告白について、次のように教えられています。
問53 「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。
答 第一に、この方が御父(おんちち)や御子(みこ)と同様に永遠の神であられる、ということ。
第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、
まことの信仰によって
キリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、
わたしを慰(なぐさ)め、
永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。
ここには、聖霊が父なる神様や御子イエス様と同様に、永遠の神であられると告白されています。私たちが信じている神様は、とこしえに変わることの無いお方です。イエス様も聖霊も、昔は存在していなかったけれど、歴史のある時点で誕生したのではないのです。永遠に存在される三位一体なる神様です。
毎週、礼拝の最後に牧師は祝福の祈りをします。第Ⅱコリント13章13節の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」とのみことばに基づいています。父なる神様と御子イエス様と聖霊が同列に置かれています。
聖書は「神様は唯一」ですと宣言し(申命記 6:4、ガラテヤ 3:20など)、同時に私たちの前に、「神様は三つの存在」(マタイ3:16,17など)で現れてくださると教えています。三つにして一つなる神。人間のちっぽけな頭では到底、理解できないことですが、神様がそのような存在だと、ご自身を現わしておられるのですから、「アーメン、その通りです。」と私たちは信じていくのです。
聖霊は目で見ることも、手で触れることもできない霊的な存在ですが、人格をもっておられるお方です。(神様ですから「人格」よりも「神格」と言った方が正しいのかもしれませんが、)人格をもっておられる聖霊は、私たちと同じように喜んだり、悲しんだりされます。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)とありますし、使徒の働きには「聖霊に励まされて」とか、「聖霊に遣わされて」また「聖霊に禁じられて」と出てきます。聖霊はそのような人格を持つお方なのです。
けれども、キリスト教の異端、三位一体を否定する人たちは、聖霊には「人格」は無い。ただの「神の力」だと主張します。イエス様も「神に近い人」であって、神は父なる神様だけだと主張します。けれども、聖書はそんなことは言っていません。偽りの教えにだまされないように気を付けましょう。
そして聖霊なる神様は、私たち一人ひとりの心の内に与えられるお方です。私たちに寄り添い、私たちの内に住んでくださるお方なのです。
今日の聖書箇所、ヨハネの福音書16章7節で、イエス様はこう教えています。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」
こう語られた翌日の朝、イエス様は十字架にかけられ、その日の午後、死なれることが定まっていました。前の晩、最後の晩餐の席上からのメッセージでした。ご自分の死、復活、そして天に帰って行かれることをすべて知っておられたイエス様は、残していく弟子たちのために、「助け主を送るよ」と約束してくださったのです。この「助け主」こそ、聖霊なる神様です。同じヨハネの福音書14章16,17節で、イエス様は、「助け主」なる聖霊について、こう教えられます。
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」
聖霊は私たちに与えられ、私たちのうちに住んでくださる神様です。ヨハネの福音書の「助け主」という所には、*注がついています。聖書本文の下の注の説明には、この「助け主」という言葉は、ギリシャ語では「パラクレイトス」と言う。― 援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人のことを言うと説明が付されています。「パラクレイトス」の「パラ 」というのは、「そばに」という意味で、「呼び出す、召し出す」という意味の「カレオー」という言葉がくっついて、この「パラクレイトス=助け主」という言葉になっているのだそうです。
ですから助け主なる聖霊は、「悩んでいる人の相談に親身になってのってくれるカウンセラー」、また、「訴えられ罰せられそうになっている人を必死に守ってくれる弁護者」、そして、「傷つき悲しんでいる人をいたわり慰めてくれる」そんなお方です。
イエス様は、あなた方のために与える聖霊は、そしてあなたの内に住んでおられる聖霊は、このようなお方だと、教えてくださったのです。私たちは、この聖霊をどれほど理解し、体験し、信じているでしょうか? もっともっと、聖霊を深く知って生きたいと思います。
聖霊は、私たちにどのような助けと慰め、また励ましを与えてくださっているのでしょうか? いつも、本当に多くのことをしてくださっていますが、その中からいくつか聖霊の働きについて、見ていきたいと思います。
聖霊は、私たちのどうしようもない部分、闇の部分、罪を示してくださいます。
ヨハネの福音書16章8,9節「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」
約20年前の2003年、私は牧師養成の神学校に入学しました。神学校では毎日お昼前にチャペルに集まり、礼拝をささげていました。神学校に入ったばかりの5月か6月の礼拝でのことです。ちょうどペンテコステ(聖霊降臨日)があった週の礼拝で、聖霊の働きについてのメッセージが語られました。
「聖霊は、あなたの心にある罪を示してくださいます。聖霊は、私たちを悔い改めへと導いてくださいます。聖霊は、私たちをイエス様の十字架を信じる信仰へと導いてくださいます」そのような内容が、聖書のみことばから淡々と語られました。
私は、そのメッセージを聞きながら、心が深くえぐられ、耐えられなくなりました。涙がとめどなくあふれて来ました。神学生という立場でありながら、聖霊のお働きを全然分かっていなかったこと。それ以上に、心の中にある本当にみにくい部分、汚れていて罪深いことが示されていったのです。
その日、礼拝の後、立ち上がれず、食堂にも行けず、午後もずっとチャペルの椅子に座ったまま、涙を流して祈りました。「神様、こんな罪深い私を赦してください、あわれんでください、こんな者が神学生として学び続け、牧師になって良いのでしょうか?」と、うめきました。そして「イエス様の十字架の赦しを受けさせてください」と祈りました。
聖霊によって、罪を示され、十字架の前にひざまずく経験をさせて頂きました。
自らの大きな過ち、罪を示されることは痛いことです。つらく、悲しいことです。しかし、そこで悔い改め、イエス様の十字架を仰ぐことができるならば、罪が示されることは、決して悲しみと絶望で終わらないのです。
「もう、あなたは赦されているよ」。イエス様の十字架の身代わりの死によって、あなたの赦しは完成しているよ。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)イエス様のこのみことばを、いつも聞き続けていくのです。
私たちは聖霊によって自らの罪を示されます。そして心から悔い改め、神様が与えてくださる赦しを信じて、新しく生かされていくのです。
今回、聖霊なる神様についてのみことばを思い巡らす中で、交読したエペソ人への手紙4章30節「神の聖霊を悲しませてはいけません」が、心に迫って来ました。聖霊は、私たちのそばにおられ、また内におられ、どんなことを悲しんでおられるのでしょうか? 前後のみことばを見ますと、
· クリスチャン(新生したはずの者)が、いまだに以前の生活をしていること。 古い人を着たままでいることです。(4章22節)
· 具体的には、「怒って、罪を犯してしまうこと」、「憤りを翌日まで持ち越すこと」(4章26節)、「あなたの怒りや憤りの感情を悪魔が利用して、私たちに『あなたの怒りは正しい、報復してやりなよ』などとささやきかけ、あなたに罪を犯させようとすること」(4章27節)、「盗みを働くこと」(4章28節)、「悪いことばを口から出すこと」(4章29節)、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなど一切の悪意」(4章31節)です。
そうした私たちのどうしようもない部分・罪を犯している有様を、聖霊は悲しんでおられるのです。私はここで「聖霊が激しく怒っている」とか「聖霊がほとほとあきれてしまっている」ではないことに気付かされました。そうではなく、「聖霊は悲しんでくださっている」のです。
親に反抗し、不良グループに仲間入りし、悪事を重ねている子どものことを、心を引き裂かれるような思いで見つめ、悲しんでいる親のような思いで、神様はいてくださるのです。私たちが立ち返って罪を悔い改めること。新しくされ、正しい道を歩むことを、神様は待ち続けておられるのです。
旧約聖書のホセア書11章には、神様のそのような思い・悲しみがこう語られています。
7. わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。
8. エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
9. わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。
また、新約聖書のペテロの手紙 第二 3章9節には、
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
私たちは神様を、そばに・内におられる聖霊なる神様を悲しませ続けている存在です。この聖霊の悲しみを、私たち自身の悲しみとしていきましょう。自らのどうしようもなさ、罪深さ、冷酷さ、愚かさ、かたくなさに気付かされ、なげきましょう。そして聖霊にうながされて、イエス様の前にこうべをたれていきましょう。十字架の前にひざまずきましょう。
そしてイエス様の赦しを私の内に、私のものとさせていただきましょう。
赦されたものとして、新しいいのちを頂いた者として、聖霊に日々慰められ、励まされ、導かれていく者として、歩んで行きましょう。聖霊が喜んでくださる歩みを選び取っていきましょう。
お祈りします。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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