「さばきを下さないキリスト」

ヨハネの福音書7章53-8章11節
7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。
8章
1. イエスはオリーブ山に行かれた。

2. そし朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。

3. すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

4. イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。

5. モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

6. 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

7. しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

8. そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。

9. 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

10. イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」

11. 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

聖餐礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ⑯

 2024年8月4日

ヨハネの福音書7章53-8章11節

「さばきを下さないキリスト」


 特別な運動や仕事をしているわけでもないのに、この暑さをしのぐだけで、日々体力を奪われている気がします。日夜、お仕事や家事に従事されている皆さんには申し訳ないのですが、私はここのところ夕方、エアコンの効いた室内で寝転んでしまい、気が付くとしばらく眠りに落ちています。皆さんは、どのようにしてこの猛暑と向き合っておられるでしょうか?

 みことばから使徒信条の一つひとつの告白を学んでいますが、今朝は「罪の赦しを信じます」との告白です。「赦されること」そして「赦すこと」。一般社会で使われている「赦す・または許す」という言葉には、悪事を黙認する・許容するといった意味合いが含まれていたりします。けれども、聖書が教えている本当の「赦し」は、そういったことではありません。ヨハネの福音書8章の「姦淫(かんいん)の現場で捕まえられた女性を、イエス様が赦してくださった」出来事を通して、私たちに与えられる神様の赦しを確認しましょう。

聖書本文を見ますと、今日の箇所は括弧 〔  〕でくくられています。そして、下の脚注には、「古い写本のほとんどが7章53節-8章11節を欠いていて、この部分を含む異本間の違いも大きい。この部分がルカの福音書に含まれている異本もある」と記されています。このことから、ヨハネが執筆した最初の福音書には、姦淫の女性の出来事は記されてはいなかったと考えられています。印刷技術の無い古代世界において、聖書は人の手で書き写されて、各地の教会で用いられていました。今、見つかっている古い写本のうち、この出来事が記録されているのは、4世紀頃の写本になってからと言われています。それまでは記録されていなかった。だからと言って「これは作り話だ」と、簡単に切り捨てて良い出来事ではないでしょう。

実際に起きたことであった。しかし4人の福音書記者は記さなかった。それでも、イエス様がなさったすばらしい救いの御業だと、教会でずっと語り伝えられてきた出来事だった。だから、どうしても残しておきたいと、後にヨハネの福音書のこの部分に組み込まれていったと考えられています。

 ひとり祈るためにオリーブ山へ登って行かれたにイエス様は、翌朝早い時間にエルサレム神殿(宮)に入られ、集まっていた人々に教え始めます。ところが3節から、

3. すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4. イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。

世の中の週刊誌やワイドショーは、芸能人やスポーツ選手、政治家の「不倫」や「不貞行為」をあげつらい、テレビドラマや小説の中では、そうした事柄を人としての生き方に背く悪しき行いとしてではなく、「危険な大人の恋愛」と魅惑的に描いたります。

しかし、「姦淫」とか「不倫・浮気」といった事柄は、絶対に自分の身の周りでは聞きたくない言葉です。自分の家族の中では絶対に起きてほしくないことです。すべてが破壊され、みんなが深く悲しみ、傷つく赦しがたい裏切りです。

イエス様のみもとにそんな「不倫」・「姦淫」の現場を押さえられた女性が連れて来られたのです。5節 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

ここに出てくる「律法」とは、神様が昔イスラエル人に与えた「おきて」です。モーセを通して与えられた「十戒」に代表されるいましめで、細かい規定がレビ記・申命記など旧約聖書の最初の方に記されています。

約2000年前、ユダヤの国の指導的立場にもいた宗教家たち=律法学者やパリサイ人は、律法を細かく研究していました。自らも守り、人々に「守りなさい」と指導していました。そして守っていない人を捕え、裁くことも、自分たちの役割だと思っていました。捕えられた女性が犯した「姦淫の罪」について、律法は次のように定めています。申命記22章22節から、

22. 夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。23. ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、24. あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。

私たち人間に結婚という秩序を与え、夫婦と家族を守るために、神様が与えてくださったルールです。性欲という与えられた大きなエネルギーを獣のように、けだもののように、人間が用いないように、ちゃんと夫婦という契約を結んだ関係の中で行うようにと、神様が私たちを守るために与えてくださった「おきて」です。聖なる神様は、私たちに「家庭や夫婦の秩序・平和」を大切にしてほしいと願っておられます。夫婦がともに歩み、愛し合うことで、家族に祝福を与えようとしてくださっています。それゆえに、性的な不品行、性的な罪を神様は悲しまれるのです。

イエス様は、このいましめをさらに厳しく受け止めておられました。マタイの福音書5章27-29節で、

27. 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。

 「不道徳な行為を実際にしなければ良い」ということにとどまらず、イエス様は心の中にやましい思いが無いかと問いかけて来るのです。このみことばの前にまっすぐに立つ時、私たちは姦淫の現場を押さえられた女性と同じ罪人であることに気付かされます。多くの人が自分も目をえぐり出さなければいけないと思うはずです。

 そんなイエス様を嫌い、イエス様を徹底的におとしめようとした宗教家たちの企みはこうでした。心の中の思いまで厳しく言及するイエスだったら、「この女を石で殺せ」と言わざるを得ないのではないか。もしもそう言ったら、「人を赦しなさい、敵をも愛しなさい」というイエスの教えは全部うそだったと言うことになる。しかも植民地支配されている我々ユダヤ人には今、人を死刑にする権限はない。それを持っているあのローマ帝国に対して、イエスは越権行為を働き、さらに人々に「石打ちという殺人」を犯させた殺人教唆(きょうさ)の犯罪者だと告発できる。

 反対に「この女を処罰してはならない、釈放しろ」と言えば、聖なる神のいましめに背くことになる。イエスがどう答えても我々の思うつぼだと、敵は考えました。「さあイエス先生よ、どうするんですか?」と敵はしつこく問い続けるのです。律法学者とパリサイ人が告訴したかったのは、女性ではなくてイエス様だったのです

どちらの答えをしても、イエス様をわなにはめることができます。イエス様を敵視していた律法学者・パリサイ人は、今がチャンスと興奮していました。イエス様をここで蹴落としてやろう。窮地に追い込んでやろう。そんな彼らの心を見透かすかのように、イエス様は身をかがめて、地面に指で何かを書かれるのです。この時、イエス様が何を書かれたのか、気になるところですが、周りが皆、かっかかっか興奮している中、イエス様だけは静寂に包まれているように感じます。

そして7節で、 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」 

悪意をもって問い続ける彼らにイエス様はこう告げられます。難しい言葉ではありません。聞いて誰もが理解できる言葉です。しかし同時に、誰一人として安易に、軽々しく対処することを許さない権威に満ちた言葉でした。

偽善が入り込む余地のない、徹底的に自らの内面を探られる鋭い言葉でした。表面的には「律法を厳守している聖職者」と見せていたかもしれません。けれどもイエス様の前では、それが一切通用しないことを思い知らされる言葉だったのです。

9節、彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

  「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」との言葉に、彼らは自らの心を突き刺されます。この女性を利用して、イエス様をおとしめようとした。罪を犯した女性の命など、どうなっても構わない。彼女の人格を完全に無視して、まるで人を道具のようにしか見ていなかった。その冷酷さを示されたのかもしれません。ー そして、ここに当然いるべき相手の男性がいないのも不思議です。もしかしたら、女性をわなにはめ、姦淫の罪を犯させ、彼女をイエス失墜のために利用しようとした。そのために男を用意しハニートラップをしかけていたとしたら、宗教家たちの罪はおぞましいものです… ー

また彼らは、そのようにして陰湿にイエス様を葬り去ろうと企んだ自分自身の重大な罪に気付かされたのかもしれません。女性を糾弾する資格はない。イエス様を糾弾するなんてもちろんできない、自分こそがまず糾弾されなければならない罪深い存在なのだ。彼らは、そのことに気付かされ、年長者から順に去って行ったのです。

 

そして、その場に残ったのはイエス様と女性だけでした。イエス様は彼女に「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか」と問いかけます。彼女は「はい、主よ。だれも」と答える。そしてイエス様は「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語りかけてくださったのです。

 パリサイ人・律法学者は、自分の罪に気付かされました。誰一人石を投げることができずに去って行きます。けれども最後に残ったたったお一人だけは、石を投げることができるお方でした。ひとつも罪の無い聖なる神の御子でした。そして、このお方は決して石を投げることをなさらないのです。

自らが刑事裁判で被告人になったと想像してみてください。その時、どんなに「私は無罪です」と主張しても、それで無罪になるのではありません。弁護士や証人や傍聴人が「無罪だ」と言っても、それでは無罪にならないでしょう。ただ裁判官だけが、被告人が「有罪か・無罪か」を最終的に決定できるのです。

イエス様は罪の無いお方、義なるお方、私たちを正しくさばいてくださるお方です。このお方が、本当は罪深い私のことを「あなたにさばきを下さない」と宣言してくださるのです。神様の法廷で有罪判決を受けて当然の私に「あなたにさばきを下さない」と言ってくださるのです。その根拠はイエス様ご自身が、私たちの受けるべき罰を代わりに受けてくださったからです。代わりにイエス様がさばかれたからです。それが十字架です「あなたにさばきを下さない」というイエス様のみことば。そこには、十字架の赦しが確かな理由としてあるのです。

私は、ヨハネの福音書8章のイエス様の立ち居振る舞いいから、私たちの罪を赦すイエス様のお姿が表されているのではないかと思いました。8章のこの場面、「身をかがめて」と2回出てきます(6節と8節)。どうしてイエス様は緊迫したこの場面、身をかがめたのでしょうか? これは私の考えであり、推測ですが、イエス様は身をかがめて、姦淫の女性と同じ立場にまで下りて来てくださったのではないだろうか。おそらく姦淫の女性は逮捕され、皆の前に連れ出され、震え恐れおののいていたことでしょう。縛られ、倒れ込み、地面に這いつくばっていたかもしれません。

律法学者たちは、この女性を道具としてしか見ていませんでした。周りの群衆は、「罪深いけがれた女」とレッテルを貼り、冷たい目でさげすんで、彼女を見下ろしていたでしょう。

そんな中、イエス様だけが身をかがめてくださったのです。彼女の視線に合わせ、より添ってくださったのです。彼女が犯してしまった罪も、彼女自身のことも、彼女の過去も現在も、彼女のすべてを見てくださったのです。心の中にある大きな罪責感、「ああ、なんであんなことをしてしまったのだろう…」という思い、「でも、こんな私だけど救ってほしい、イエス様、助けてください」という心の叫び、そのすべてを知ってくださったのではないか。

それまで周りの人たちの冷たい視線が、「こういう女」(5節)と断罪された女に注がれていました。イエス様は、その視線をご自身に向けようと、かがんで何やら地面に書き始めたのです。人々の注目・視線が、一斉にイエス様の指先に動きました。一人の女を寄ってたかって責め立てる人々の目を、ご自身の方へとそらしてくださったのです。震えおののく彼女を見て、イエス様は彼女を深く憐れんでくださったのではないか。イエス様のお姿から、私はそのように思えてきました。

そして7節で「あなたがたのうちで罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と語られた後、8節「そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた」と出てきます。どうしてもう一度、身をかがめられたのでしょうか? 私は、この時イエス様は、身を挺して命がけで彼女を守ろうとしてくださったのではないかと思いました。地面にへばりついている彼女、イエス様はその前に身をかがめてくださった。石が飛んでくるかもしれない、その時は自分が受けとめる。自分が身代りとなる。彼女が刑を受けることがあれば、代わりに刑を受けよう。彼女を覆い隠すように、前にかがみこまれたのではないか。十字架の身代りを前もって示してくださったのではないか。私は、この箇所を読みながら、そのように感じました。

「わたしもあなたにさばきを下さない」これは、イエス様の十字架によってのみ与えられる赦しの約束です。イエス様の深いご愛とあわれみによる恵みの約束です。そして、イエス様は「行きなさい」と、私たちを励まし、「これからは、決して罪を犯してはなりません」と、私たちを新しい人生に、主と共に生きるいのちの道へと、聖なる道へと導いてくださるのです。

過去にあなたが犯してしまった過ち。その事実は、決して消えることはありません。そして私たちは、聖なる神様の前で、自分ではその過ちに対する代償を支払いきれません。犯してきた罪を自分の力では解決できないのです。姦淫の女性も捕えられ、そのことを認めざるを得なかったはずです。私たちも罪深い存在です。けれどもイエス様自ら、身をかがめてくださった。そして「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語り掛け、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

過去を問わない。あなたを罪に定めない。さばかない。だから、安心して行きなさい。もう罪を犯してはいけない。新しい人生を歩みなさいと語りかけてくださるのです。このイエス様を信頼し、イエス様に赦され続けて歩んでまいりましょう。

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