出エジプト記 32章1-10節
1. 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
2. それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
3. 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。4. 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
5. アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」
6. 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
7. 主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
8. 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
9. 主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
10. 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
礼拝メッセージ
十戒シリーズ ③
2024年9月15日
出エジプト記 32章1-10節
「自分好みの神で良いの?」
今、日本中の都道府県・市町村・観光地に「ゆるキャラ」いわゆる「ご当地キャラクター」がいますね。熊本県のくまモン、滋賀県のひこにゃんなどが有名で、次から次に新しいものが登場します。着ぐるみのゆるキャラがいて、その人気を競う全国ゆるキャラグランプリが開催されていて、そしてぬいぐるみやキーホルダー、お菓子のパッケージに印刷されたものなど、たくさんの関連商品で満ちあふれています。
好きなキャラクターもいれば、どうしても好きになれない、苦手だな…と感じてしまうゆるキャラもいたりしませんか? これを言うと、私は地元の方々を敵にまわしてしまいそうですが、頭に角のようなものがついているゆるキャラは、どうしても好きになれません。かわいいと思えません。鬼を連想してしまうからかもしれません。
優れた芸術家やデザイナーまたアニメーターが造ったキャラクターであっても、万人受けは難しいのかもしれませんね。好きになる人もいれば、嫌う人もいる。応援する人もいれば、批判する人も出てくるでしょう。それを見る人の感覚、受け取る側の好き嫌いで評価が正反対になったりします。
今朝は十戒の二番目の大切な戒め、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」を深堀りしていきたいと思います。ゆるキャラと偶像を同じテーブルに載せてはいけないかもしれませんが、どちらも何かをイメージし、形作られ、表情を持っているという点では似ているかもしれません。それを見る人の主観で、好きか嫌いかが、分かれるのです。「俺は、あの優しくて清らかな○○像の表情を見ていると、心が落ち着くよ」とか、「私は、あの〇〇像の指の形が好き」などと。
偶像は神(神々)や仏、偉大な宗教家や英雄などをイメージし、描きあげたり、制作されたりしたものです。時間の経過とともに、それが大切にまつられ、宝となり、ご利益があると信じられ、ついには拝まれ、神格化されていくのでしょう。しかし、それがどんなに芸術的に優れたものであっても、作品を前にして涙を流すほど感動したとしても、それは本物ではありません。イメージして造られたものです。そして受け取る側の好き嫌いが反映されます。だからこそ、次々に新たな魅力を持たせたキャラクターや偶像が登場するのかもしれません。自分好みの像を求めてしまうのです。つまり、偶像を求める私たち人間が上に立って、商品の買い手のように自分好みの神を選んでいくのです。それが、偶像礼拝の愚かさ・恐ろしさではないかと思います。神と人との主従関係が逆転してしまうのです。
まことの神は霊的存在であられ(ヨハネ4:24)、人の目には見ることができないお方です。このお方が、ご自身を像としてまつり上げることをかたく禁じられたのです。そこには、「わたし神自身が主であり、あなたがた人は神に造られ、生かされている存在なのだ。神により頼み、神に従って生きることが、あなたがた人間の本当の幸せなのだ」という大切なメッセージが込められているのではないでしょうか。
私たち人はすぐに傲慢になって、神様に向かって行きます。「自分の好み」の神様(偶像)を求めるのです。自分にとって都合の良い神様(偶像)を。私の願うように、私だけに幸運をもたらしてくれる、私が願う「幸せ」を叶えてくれるそんな神様(偶像)を求めるのです。そして、ちょっと手を伸ばせば届くような、お手軽で手元においておける、私たちの「不安」を和らげてくれるお人形的な偶像を求めてしまうのではないでしょうか? 「自分のために」偶像を造ってしまうのです…。
出エジプト記32章で「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(1節)と求めてしまった人々。心の中には、「マスコット的なお手軽な神がほしい」という求めがあったのではないかと想像します。つい数十日前、十戒を聴き、それに「聞き従います」(20:19)と答えたばかりでした。「偶像を造ってはならない」との戒めが耳に残っていたはずです。「従います」という言葉が舌先に残っていたはずです。それなのに「偶像を造ってくれ」とモーセの兄アロンに要求してしまったのです。
指導者モーセは、すでに40日間もシナイ山にこもって帰って来ません(24:18)。モーセは死んでしまったかしれないと思いました。もしかしたら群衆は、人間モーセに対して、まるで神(偶像)に対するような信頼を、また依存の思いを寄せてしまっていたのかもしれません。目の前には、主なる神が臨在し、火で包まれ、煙をはくシナイ山がありました。恐ろしい光景でした(19:16―18)。そんな近づきがたい恐ろしい神ではなくて、エジプトにたくさんあったようなかわいらしい神(偶像)、手で触れることができるような親しみやすい神(偶像)を求めてしまったのです。
自分好みの分かりやすい神(偶像)を求め、造られた金の子牛の像を見た人たちは、自分好みの身勝手な礼拝を始めます。32章6節「彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」羽目を外し、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎでした。男と女はいかがわしい行為を始めたでしょう。
偶像礼拝の愚かさ・罪深さ・恐ろしさは、ここにあるのではないでしょうか? 人間中心の誤った「礼拝」となります。人間が「主」となり、神々(偶像)は「人間の好み」で選べる一つの商品となり下がってしまうのです。ただひとりの神を愛し、信頼し、最期までこのお方と共に歩んでいくという、神の前における正しい生き方がそこなわれてしまうのが偶像礼拝であり、偶像を使って私たちを神から遠ざけようとする悪魔の企みではないかと思います。
偶像礼拝は、生けるまことの神と私たちの関係を破壊します。私たちの側で、神様を殺してしまうのです…。想像してみてください。家族団らんの時間、すぐそばにお父さん・お母さんがいるにも関わらず、子どもが、お父さん・お母さんが写っている写真に向かって、「あのねパパ・あのねママ」と話しかけている、そんな怖い光景を。偶像礼拝はまさにそんな光景ではないでしょうか? 死からよみがえり、今も生きておられるイエス様が私たちと共におられるのに、助け主なる聖霊なる神様が私たちの内におられるのに、父なる神様が私たちの父として永遠におられるにも関わらず、そのお方ご自身に語りかけるのではなく、そのお方をかたどった絵画や、木像や石像に語りかけ、手を合わせ、祈っているのが、偶像礼拝ではないでしょうか?
生きている親がいつもそばにいるのに、その横でまるで親の遺影に語りかけるかのような子どもの姿です。それは親の存在を殺してしまうに等しい行動です。私たちは自分好みの偶像を拝むことによって、まことの神を見失い、その存在を心の中から消してしまうのです。それがどれほど、イエス・キリストを素晴らしく描いた芸術作品であっても、どれほど豪華で立派なイエス像であっても、美しいステンドグラスであっても、圧倒されるような壮大な教会堂であっても、また聖人としか思えない信仰者(私はまったくそうではありませんが)であっても、それらは決して神ご自身ではなく、崇拝(礼拝)の対象ではないのです。
神様が教えてくださった大切なルール、大切な約束を聞きましょう。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト記20:4-6)
生きておられる神様は、私たちと血のつながったつながり・生き生きした関係を求めています。いつも共に生きようと願っていてくださいます。それなのに、私たちの側でまるで「遺影」に語り掛けるように、まことの神を殺し、造り物の偶像を拝むなら、神様はそれをとても悲しまれるのです。浮気をされた夫のように、または妻のように、そんなことをする「あなたをねたむ」と神様はおっしゃるのです。そんな愚かなことをするなら、三代・四代先まで、つまり孫・ひ孫の代までのろいを、さばきをもたらさざるを得なくなる。反対にわたしだけを愛して、わたしとの祝福の約束のうちに生きるなら、恵みは千代先まで及ぶと、すごいことを語ってくださっています。
先ほど交読したⅡコリントのみことばに、
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
5:7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
とありました。今を生きる私たち、あまりにも多くの目に見えるものに取り囲まれています。イラスト、マンガ、画像・映像、イメージ写真、グラフ、広告、コマーシャル、新商品などなどであふれています。目から入ってくるものがあまりに多すぎて、目には見えないすばらしいもの:知恵・優しさ・いのち・信頼・希望・愛といったもの。そして目には見えませんが確かに存在されるまことの神を見出しにくい現代の私たちです。
永遠に続く価値あるものを、永遠に存在されるまことの神をいつも思い続けていきましょう。このお方の御声を聞き続けていきましょう。
自分好みに自分でこしらえた神(偶像)ではなく、私を造り生かし愛してくださっているまことの神を思い、恐れと信頼をもって、まことの神様との生きた関係を求めていきましょう。このお方とともにいる時間、日曜日の礼拝、毎日神様をほめたたえ、みことばを開く時間を、祈る時間を大切にしていきましょう。
祈ります。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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