私たちの教会では、第二・第四日曜日の礼拝の中で、神様から与えられた「十戒」のみことばを告白しています。
「十戒(じっかい)」
わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷(どれい)の家から導(みちび)き出したあなたの神、主(しゅ)である。
1. あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
2. あなたは自分のために偶像(ぐうぞう)を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
3. あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。
4. 安息日(あんそくにち)を覚えて、これを聖(せい)なるものとせよ。
5. あなたの父と母を敬(うやま)え。
6. 殺してはならない。
7. 姦淫(かんいん)してはならない。
8. 盗んではならない。
9. あなたの隣人(となりびと)について、偽(いつわ)りの証言(しょうげん)をしてはならない。
10. あなたの隣人の家を欲(ほっ)してはならない。
(『聖書・新改訳2017』 出エジプト記20章2-17節より〔一部抜粋〕)
私たちは「戒め」とか「法律の条文」とか「ルール」といった言葉を聞きますと、どうしても堅苦しいもの。私たちの自由を奪い縛り付けるもの。窮屈な生き方を強いるもの。本音(現実)とは違う建前(お役所が決めた厳格な原理原則)。そんな負のイメージを持ってしまいやすいものです。
しかし「十戒」(新改訳聖書では『十のことば 』と表されている)は、私たちを押さえつけるためのものではありません。十戒が与えられた際の旧約聖書・出エジプト記の流れを見れば分かるように、「あなたを愛しているよ」という神様の思いに応えて、人の側も「主よ、私たちもあなたを愛します。あなたに従います」と答える。それに対して神様が、「そうか、うれしいよ。じゃあこの約束に従って互いに歩んで行こうね」と結んでくださった契約のことばなのです。互いの愛を確認した上で、「それから」(出エジプト記20:1)と告げられた「十のことば」です。
人間の歩みに例えれば、結婚の際の誓約のようです。夫と妻が「愛し合います」と誓い合う。その時、「健やかな時も病める時も、富める時も貧しき時も、愛して変わることなく、互いに敬い合い、助け合い、最後の日まで相手に対して誠実であることを約束します」と契約を結びます。それは相手を服従させるもの、拘束するものではありません。互いに愛を深めていこう、築き上げていこうという約束です。
神様もそんな思いで、大きな愛をもって私たちと10の約束を交わしてくださいました。それは私たちがこの世にあって、神様とともに幸せに、安全に、良い生き方をしてほしいと願う親心からでした。
「十戒」のそれぞれの「~してはならない」という言葉は、明らかな禁止命令です。けれども、これは冷酷無比な命令ではありません。「もうあなたは、~する必要はないんだ」。「あなたが、~するはずがない」といった意味が含まれているのだそうです。例えば最初の戒め、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト記20:3)には、あなたは本物(あのエジプトからあなた方を救い出したまことの神)をもうすでに知っている。だから他の神など求める必要がない。他の神に心をなびかせるはずがない、といった期待・信頼が込められているのです。
モーセを介して、神様はまずイスラエルの民に十戒を与えました。さらにこの約束を忘れずに正確に覚えているように、二枚の石の板に「十のことば」を書き記して、渡されました。
「モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。」(出エジプト記 32章15節)
「主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。」(申命記 4章13節)
最後に、この世に生きる私たち人間に、神様が「十戒」を与えてくださっている意味を三つ確認します。
① 罪と悪に満ちている世の中で、それでも私たちが安全に平穏に秩序を保って生きていけるように。
罪人である私たちは、何が正しいことか分からなくなってしまいました。悪に歯止めがかからなくなり、人間社会は混乱しています。神様は、そんな私たちの悪にブレーキをかけるため、十戒を与え、正しいこと・良いことを求める心を残してくださっています。さらにこの世で、上に立つ人たちをお立てになり、彼らを通して法律を定め、それに背く人たちを罰する権威を人に与えてくださいました。
ローマ人への手紙2章
14. 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。15. 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。
② 私たちが、神様の愛に応えられない、逆に背いている罪人であることを悟らせ、キリストの赦し・救いを求めさせる養育係・教育係の働き
パウロは、「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ人への手紙3:24)と語っています。十戒の戒め一つひとつ、さらに主イエス様が解き明かされた戒めのさらに深い意味「心の中でも犯しているならば同罪なんだ」ということを知らされる時、私たちは、自らの決意・意思・行動によってでは、神様の前に「義」とは決して見てもらえない罪人であることを知らされます。自分によってではなく、キリストの赦しにすがる他ないことを知らされるのです。
③ 罪の奴隷(やりたくない悪をやめることができず、正しいことを実行できなかった状態)から解放された人が、解放してくださった神様に感謝し、喜んで仕えていくために。神様の喜ばれる新しい生き方:神を愛し、隣人を愛して生きる指針として。
マタイの福音書5章のイエス様が山の上で語られた教えに「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」とあります。神様を敬い、正しい生き方を求め、それを世の中で実践していくために。イエス様によって新しく造り変えられた人には、「地の塩・世の光」としての使命が与えられています。十戒はそのための大事な指針です。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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