16. 聖書朗読について:「読むこと」と「聴くこと」 【礼拝プログラム解説】

礼拝説教(メッセージ)の前に、その説教で解き明かされる聖書箇所が司会者によって朗読されます。現代のように印刷や製紙技術の無かったいにしえの時代、聖書は各自で「読む」ものというよりも、礼拝で朗読者によって読まれ、教師から解き明かされて「聴く」神のことばでした。

聖書の中にも、「― 祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、― 夜明けから真昼まで、― これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。」(ネヘミヤ記8:2,3)や、「それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」(ルカ4:16)と記されています。

「読むこと」と「聴くこと」には、どんな違いがあるでしょうか? 本を読むことは、自分が主導権を握ることです。自分の好きな時間に、好きな場所で、好みの本の、好きな箇所を開くことができます。気分次第でそれを閉じることもできます。それに対して、誰かに朗読される話をじかに聴くことは、その語り手が主導権を持っています。聖書朗読を聴く私たちに求められている姿勢は、神のことばを前にして、「私の主導権」を主張するのか、それとも「神の主導権」を認めるかの問題です。礼拝で聖書朗読を聴くという姿勢は、私たちが自分の主導権を明け渡し、神様を私たちの主として受け入れる信仰の告白です。ですから、講壇から音読される神のことばを、私たちは共に全身全霊で聴き、受け止めていきたいのです。

それも、ただ聴くのではなく、共に聴きます。聴き手は私一人ではなく、教会の神の家族の兄弟姉妹と共に聴くのです。それは私たちが神のことばによって生かされ、養われ、導かれている「神の民」であることを確認する機会でもあります。同じ主の日、同じみことばを聴き、励まされ、その礼拝から世に遣わされていく神の家族がいることを感じながら、歩みましょう。

主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。(Ⅰサムエル記3:10)

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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

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