「主よ、祈りを教えてください」

ルカの福音書11章1-4節
1. さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2. そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。

3. 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。

4. 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」

新年聖餐礼拝メッセージ

2025 年 1 月 5 日

ルカの福音書 11 章 1-4 節

「主よ、祈りを教えてください」


新しい年を迎えました。2025年の教会主題聖句は、ルカの福音書11章1節です。

さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

昨年は「みことばを受け入れる」という目標を掲げました。今年は「イエス様の祈りにならう」というテーマで、私たち一人ひとりの、また教会の祈りを 深めていきたい。そして、みなで神様に近づいていきたいと願っています。 礼拝では、来週から主イエス様が教えてくださった「主の祈り」の内容を一つずつ見ていく予定です。

皆さんは普段、「主の祈り」をどのように祈っておられるでしょうか? 毎週の礼拝の中で、また日常生活において、

① 何も考えないで、ただ唱えてしまっている 。まるで CD のリピート(繰り返し)再生のような祈りになってはいないでしょうか。

② あるいは、周りの人たちについて行くのに必死であったり、

③ 他のことを考えていたりすることはないでしょうか。

④ それとも、祈りの言葉一つひとつを思いめぐらしながら祈っているでしょうか。

私たちは今年、いやこれから生涯をかけて、祈りをもっと豊かなものに、神様に喜んでいただけるものに変えられていきたいと思います。そのために、 みことばから「主の祈り」を、そして「実際にイエス様が祈られたことば」 を学んでいきましょう。その祈りにならっていきたいと思います。


私たちの主イエス様は、お祈りをすることがお好きでした。超多忙な日々の中にあっても、祈るための時間を大切に とっておられました。

マルコの福音書 1:35  さて、イエスは、朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
ルカの福音書 6:12、13 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。
ルカの福音書 22:39、40  ゲツセマネの園での祈りそれからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

イエス様は神様です。誰かに助けてもらう必要などあるのでしょうか? 誰かにお願いする必要など無いのではと思ってしまいます。しかし、そうではありませんでした。イエス様は、天の父なる神様との豊かで親密な交わりをいつも求めておられました。父なる神様との温かなつながりを誰よりも必要としておられた のです。

ご自分のことを何でも知っていてく れる父に、これからのことすべてご存知であられ、ご計画通りにすべてを成就してくださる父に、御子イエス様はいつも語りかけていました。「アバ、父よ」(マルコ 14:36)=「お父ちゃん」と語りかけ、父に聞いてもらう、また父から語りかけられる幸いをいつも覚えていました。父なる神様とお話しすること。父なる神様に相談すること。それが最高の喜びでした。イエス様にとって祈りは、何にも代えがたい大切な時間 でした。

ルカの福音書 11 章 1 節から、そのように祈っておられたイエス様の表情を想像することできます。喜びや平安でいっぱいのお顔だったでしょうか。感動の涙が頬をつたっていたでしょうか。それを目撃し、また祈りのことばに耳をそばだてていた弟子たちは、イエス様が祈り終わるのを待って、「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」 と切望したのです。あんなふうに、イエス様のように祈りたい。自分たちの祈りとは全然違うと感じました。自分たちの祈りは形式的だ、そこには喜びも感動もない。十二弟子の中には、以前バプテスマのヨハネの弟子であった者もいました(ヨハネ 1:35-40)。ヨハネ先生が教えてくれたように、「イエス様の祈りを教えてください」と。

ある英国の説教者が書いた信仰書『真の祈り手としてください』(いのちのことば社、1993 年)には、この時の情景がこのように描かれています。

十二弟子は主が祈るのを見守っていました 。それがどこであったのかはわかりません。主がどんな祈りをされたのかもわかっていません。しかし弟子たちは、深い感銘を受けました。
私たちの主の敬虔さ、真剣さ、それに確信  ― 上に向けられた御顔の神々しさ、伸ばされた両の手のかもし出す厳粛さ!確かに神が、その場におられたのです!
彼らは互いにささやき合ったでしょう。あるいは、それぞれの思いの中で、こう考えていたでしょう。「もしあれが祈りだとしたら、われわれはまだ一度も祈ったことにならない!あのように祈ったことは、確かに一度もない! 」
そのため、主が祈り終えて立ち上がられたとき、 十二弟子の中の一人が小さな代表団のスポークスマンのように、このように言いました。「主よ。……私たちにも祈りを教えてください」(8,9 ページ)

「祈りを教えてください」それは 十二弟子の真剣な願いであり、私たちの願いです。私たちは、将来どうなるか分からな い心配・不安を抱えて生きています。ときに自分の判断や決断は正しかったのだろうか? 神様のみこころに背いてしまっていないだろうか?…と思い悩みます。自分の足りなさ、弱さ、できないこと がたくさんあり…不足を感じて生きています。心の中で、また日々の歩みの中で、 罪を犯してしまいます。だからこそ、私たちは全知全能なる神様に祈るのです。

「祈りを教えてください」という願いに、 こう祈ってごらんとイエス様が教えてくださったのが、「主の祈り」です。私たちは、このように神様に呼びかけて良いんです!このような祈りを神様は待っていてくださるのです! 「主の祈り」の内容、その深さ・豊かさは、来週の礼拝から見ていきますが、今朝は、私たちの祈りを耳をそばだてて待っているお方、話を聞かせてほしいと待っていてくださる神様 のお姿を見ていきます。

今日のみことばに続いて、イエス様は祈りを聞いてくださる父なる神様のご性質を二つのたとえ話で教えられました。交読したみことばの個所です。

① ルカの福音書 11 章 5~8 節

ある人の家に、夜遅く突然の来客がありました。旅人が一宿一飯を求めて訪ねて来ました。昼間は太陽が照り付ける暑い砂漠地帯の中東です。日が沈んだ後、旅をするのは、かの地では良くあること でした。旅人に家に入ってもらったものの、食品庫が空っぽであることにその家の主人は気付きます。中東・ユダヤは、旅人やお客さんを温かくもてなすのが当たり前であり、礼儀でした 。その地の人たちは、疲れ果てた旅人を追い返したり、食事のもてなしをしないで、寝かせたりはしませんでした。

けれども、現代のように 24 時間営業をしているコンビニ やスーパー・ファミリーレストランはありません。ですから、家の主人は急いで、隣近所の友人の家に行って「パンを三つほど貸してくれないか」と頼むのです。このことは、ごく普通に行われていたことでした。日本でも一昔前まで、お隣さん同士で「ちょっとお醤油を貸して」が行われていたと聞きます。中東の村では、突然の来客に対応するために、近所同士で助け合い、食べ物を貸し借りするのは普通 のことでした。しかし、イエス様のたとえ話に出てくるこのご近所さんは、「嫌だ」と願いを聞き入れようとしません。

「もう戸締りもしてしまった。私も子どもたちも寝巻きに着替えて、ベッドに入っているから、面倒をかけないでくれ」と。イエス様のこのたとえ話を聞いた当時の人たちは、大笑いしたはずです 。「そんな隣近所の人がいるなんて考えられない」と。 そんなことをしたら「あの人は、本当にけちで、なんて薄情な男だ!」と、翌朝には村中でうわさされてしまう。そしてイエス様はこのたとえ話をこう締めくくります。

「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう 」

「パンを貸してくれ~」と頼み続ける人の態度を祈りに当てはめて、こう言われるのです。

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 」

現代の私たちの感覚からしますと、真夜中に隣近所の家のドアをバンバンたたいて「パンを貸してくれ~」と言う方が非常識に思われますが、イエス様の時代の人々の感覚からすれば、ご近所のお困りごとに助けの手を差し伸べようと しない人の方が非常識極まりないとなるのでしょう。

イエス様は「主の祈り」を教えてくださった直後に、このたとえ話をされ ました。それは、私たちの祈りを聞きたいと待っていてくださる父なる神様のことを知らせるためでした。なかなかパンを貸そうとしない友人 ← それに対して → 「祝福を与えたい、良いものを与えたい」と、私たちの祈りに耳を傾けておられる父なる神様を対比させて、その違いを明らか にされるのです。真夜中にドアを叩いてくる近所の人を迷惑がり、ベッドに入り込んで、「もううるさい、早く 帰ってくれ」と願っている自己中心なご近所さん、無視を決め込んでいた不機嫌なご近所さんでも、 しつこく頼み込めば、結局はあなたの求めているものを与え てくれる。それなら、なおさら父なる神様が、あなたの祈りに応えてくださらないことがあるだろうか !イエス様は、そんな父なる神様を知らせようとなさったのです。 そして二つ目のたとえ話につながっていきます。

② ルカの福音書 11 章 11,12 節

「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。」

「Always 三丁目の夕日」という映画を見たことがあります。戦後 10 数年後の東京の下町に、親から捨てられた男の子がいました、その子は、小説家兼駄菓子屋の主人に引き取られ、育ててもらいます。育ての親は、記念日を前に男の子に尋ねます。「何かほしいものがあるか?」 と。その子は遠慮して「何もほしいものなんて無い」と答えてしまいます…。 育ての親は、子どもが書いたメモ を発見し「万年筆が欲しいんだ」ということを知ります。その人は必死になって、隣のご主人からお金を借りるまでして、男の子に万年筆を買ってプレゼントしてあげるのです。地上の親は、たとえ血がつながっていなくても、子どもに良い物をあげたい。子どもを喜ばせてあげたいと思うのです。

それなら、父なる神様は、どれほど私たちの「願い」を聞きたい。「神様、これが欲しいです」と言ってくれるのを待っていてくださる でしょうか。神様は私たちに、「もっと信頼して、願っていいんだよ」、「話しかけてほしい」と私たちの祈りを待っていてくださるのです。

そして、父なる神様が私たちに与えたいと願っている一番良きものとは何でしょうか?

ルカ 11:13 「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

私たちは神様に、「健康や日々の守り」、「仕事の成功」、「家族関係や人間関係がうまくいくこと」、「悩みや問題の解決」「どうしてもほしいあれやこれ」といった、この世のものを求めます。しかし、父なる神様は、それ以上に、私たちに聖霊をお与えになりたいのです。私たちの心に住んでくださり、私たちの思いを神様に向けさせ、私たちを正しい道に導いてくださる助け主・慰め主なる聖霊です。 私たちが神の子とされていることの確かな証拠である聖霊です。

私たちの神様は三位一体なるお方です。父なる神様が聖霊を与えたいということは、ご自身の分身であられるようお方を、つまり神様ご自身をあなたに与えたいと願っておられるのです。

これから今年最初の聖餐式にあずかろうとしています。聖霊をお与えくださる父なる神様は、さらに世界一大事なお方を私たちにお与えになりました。ひとり子イエス様を私たちに与え、私たちの罪を赦すためにひとり子を十字架にまで至らせられたのです。そこまで与え尽くしてくださった父なる神様の大き過ぎるご愛を心の内に覚えながら、聖餐式にあずかってまいりましょう。

祈ります。



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