ローマ人への手紙8章 14-17節
14. 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15. あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16. 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17. 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストと ともに共同相続人なのです。
礼拝メッセージ
主の祈りシリーズ ②
2025年1月12日
ローマ人への手紙8章 14-17節
「天にいます私たちの父よ」
冬休みが終わり、先週から小学校が再開しました。凍(い)てつきそうな寒さの朝、子どもたちの下着の背中にホッカイロを貼り付けながら、「雪道にうもれたり、すべったりしないように気をつけて行くんだよ」と毎朝、送り出しました。雪と厳しい寒さの中を歩んでいますが、皆さんは大丈夫でしょうか?
今日から「主の祈り」一つひとつの内容の豊かさを味わっていきたいと願っています。今朝は最初の部分、私たちが祈っていくお方、神様への呼びかけの言葉です。これまでの文語体では「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、口語体では「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6:9)と始まります。
皆さんは普段、お祈りをなさる時、まず神様に対してどのように呼びかけていますか? 「神様」、「父なる神様」、「天におられるお父様」、「イエス様」、「主よ」、「ハレルヤ」、「愛する神様」など、それぞれの呼び方があるでしょう。時と場合によって変わるかもしれませんし、その時の状態・状況、みことばから示された神様のイメージなどによって様々です。
お祈りの最初、呼びかけの言葉は実はとても大切です。私たちが声を発するよりも先に、私たちの言葉を「聴きたい」と待っていてくださるお方に、私たちが心を込めて応答する言葉だからです。私たちが「天の父よ」と呼ぶよりも前に、実は神様の方から、「我が子よ」、「○○よ」と名を呼んでくださっているのです。「さあ話そう」、「今日はどうだった」、「どうしてほしいだい」と心を込めて向き合ってくださるお方に、私たちも信頼して、「お父さん、あのね…」、「ねえねえ聞いて」と呼びかけていくのです。
「天の父よ」この呼び名は、そんな親しさと同時に緊張を、近さと畏れを、安心と圧倒されてしまう状態をと、対極にあるものを同時に表す呼び名であると思います。
まずは緊張や畏れ、圧倒される状態からです。「天にいます」と言葉を発する時、私たちは、自らの居住まい(姿勢)を正されます。私たちが祈りをささげるお方の、あまりの聖さ、気高さ、力強さ、すばらしさ、絶対さ、天地万物と永遠(過去・現在・未来すべて)を知り尽くし、支配しておられる偉大な神であられることを覚えていきたいのです。この地上をはるかに超えた天の世界におられる神様です。「天」と聞くと「大空や宇宙のはるかかなた」といった高い所、遠い所、特定の空間や場所をイメージしてしまいます。けれども、神様は偏在なる(どこにもおられる)霊的お方です。
「人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──主のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──主のことば。」(エレ ミヤ書 23:24 )
「神は霊ですから、」(ヨハネの福音書 4:24)
先ほど交読しました第Ⅱ歴代誌6章は、ソロモン王様がエルサレム神殿を献堂した際の祈りです。お父さんダビデ王が切望しながら、建設許可を神様から与えられなかった神の宮。「あなたの息子がそれをする」と約束され、託された働き(Ⅰ歴代22:6-11)を、ソロモンは成し遂げます。金や宝石がふんだんに使われたきらびやかで豪華で立派な神殿が完成しました。しかしソロモンは献堂式の祈りの中で、気付かされていきます。「それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(第Ⅱ歴代6:18)と。
生けるまことの神を、どこか一つの場所に閉じ込めておくことなど不可能だ。全人類・全被造物・全世界・全宇宙の王なる神だ!とソロモンは、神様のあまりの偉大さに圧倒されました。それでも、「あまりにも恐ろしくて近づけません、話しかけれません」ではなく、大胆に「私たちがこの主の宮でささげる祈りと願いを、また叫びを聞いてください。この宮を訪れる異国人の願いもかなえてください。何より、心から罪を告白する者たちを赦してください」(6:19―42)と祈りをささげました。
「天の神よ」と呼びかける時、私たちは神様が超越者であられ、天と地を造られた創造主また支配者であられ、どこかひとつ場所に置かれておくような限界をもつお方ではない全能者であられることを覚えましょう。人間が、このお方を担ぎ上げたり、お供え物やお世話をしてあげなければいけなかったり、その存在が何かの像にしまい込まれたりすることなど、絶対にないお方なのです。まことの神様は、私たちのすべてをご存知であられるお方です。この神様の前に、自分は今あるんだということを身震いするような思いで自覚し、緊張し、畏れ、圧倒されながらこの神様の前にひざまずくものでありたいと思います。
そんな大いなるお方を、私たちは同時に「父よ」とお呼びしているのです。そのような関係になっているというのです。私たちは神の子として、小さな子どもが「ママ、パパ」、「ねえ聞いて」、「お父ちゃん。お母ちゃん。じいじ。ばあば」と慕い信頼して、呼びかけるように、神様に近づいて良いのです。
本来、人は神様によって造られ、生かされている神の子でした。しかし、私たち人は「神などに頼らなくても、自分たちだけで生きていける」と、神様を軽んじ、無視し、反発して生きるようになりました。神様が願っている生き方・考え方とは、正反対の的外れな道を選び取ってしまいました。それが、聖書が教える人間の罪です。
私たちのこの罪を赦すために、神の子イエス様が身代わりに、十字架で罰を引き受けてくださいました。勝手に親元を飛び出して好き勝手なことばかりし、勘当されて当然の私たちを取り戻すために、神の子が、父なる神様との和解を成し遂げてくださいました。この神の子イエス様を信じ、つながることよって、私たちはまことの親元に帰ることができるのです。親子としての関係を回復されるのです。
使徒パウロは、このことを今日の聖書箇所、ローマ人への手紙8章14節において、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」と語ります。私たちは内に働きかけてくださる御霊のお働きによって、罪を自覚させられ、イエス様を救い主として信じる信仰を与えられます。御霊は、神様が用意してくださった救いへと、私たちを導いてくださるのです。
この御霊が内に住み、この御霊に導かれている私たちは神の子どもなのです。御霊は、祈る私たちの心の内にも働きかけてくださいます。「♪こんにちは赤ちゃん、私がパパよ」の歌詞のように、「このお方、神様はあなたの父なのですよ。アバ(パパ)、お父さんと安心して、信頼して呼びかけてごらん」と、御霊がうながしてくださるのです。ローマ8:15,16、
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
奴隷根性は、いやいやながら主人に従う生き方です。へまをしてしまうと、主人の怒りを買い、罰せられ、この家から追放されるかもしれないと恐れながら、戦々恐々として生きていかなければなりません。
それに対して、子どもは自由で伸び伸びしています。良いことをしたら「すごいね」とオーバーにほめてもらい、悪いことをしたら叱られますが、家から追い出されることはありません。あの両親の子どもだからです。
お祈りを始める前に、しばし静まって神様がどのようなお方なのか、心の内で思い巡らしてみましょう。みことばを思い巡らしてみましょう。その時、御霊があなたの心に示してくださいます。「○○な神様なんだよ」と。「このお方は愛とあわれみ、恵みに満ちているあなたの父なんだよ」と。御霊に導かれて「アバ父よ」、「父なる神様」と私たちは親しく、信頼して、安心して呼びかけていきたいのです。
さらに使徒パウロは、子どもとは「相続人」の権利を有している。相続人として親の莫大な富を「ください」と主張できる権利を有していると驚くべきことを語っていきます。8章17節、
子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
神の子イエス様につながることによって、私たちも父なる神の子とされました。イエス様と一緒に、私たちは神様の宝を相続させて頂けるのです。宝とは、救い、永遠のいのち、天の御国の住まいであるでしょうし、同時にこの地上で頂ける神様の守り・祝福ではないでしょうか。「お父さん、お母さん、今日のお小遣いをちょうだい」と子どもが主張できるように、莫大な宝を持っておられ、私たちのために本当の良いものを知っておられ、それを最善の時に与えることが出来る父なる神様に、私たちは遠慮せず大胆に願い求めていきたいと思います。
最後に「私たちの」という言葉に注目します。主の祈りは「私」だけの祈りではなく、「私たち」の祈りです。キリストにとらえられ、キリストのように生きていきたいと願う弟子たちの共同体の祈りです。つまり神の家族・教会の祈り、信仰の友と一緒にささげる祈りなのです。
私たちは祈る時、自分の悩み・心配・病や抱えている問題の解決を祈ります。自分のお願い事も祈ります。そこから、自分のことから天を見上げ、神様の思い・まなざしを感じながら、自分の横にいる人たちを見ていくのです。家族のこと、一緒に学び・働いているあの人・この人のこと。そして今一緒に神様を礼拝し、一緒にみことばを聴いている神の家族のことを考えていきたいのです。
祈りは、私一人だけの孤独な営みのように見えますが、神の家族みんなでささげていく営みです。あなたが例え祈れない日にも、あなたのために祈っていてくれる人がいます。誰かのことを思いながらあなたが神様に祈っていきます。教会の仲間たちとともに祈っていく「私たちの」なんだということを覚えていきましょう。
「私たち」の中には、祈りに寄り添っていてくださる助け主聖霊と、私たちの祈りを父に取り次いでいてくださるイエス様も一緒に「私たち」に含まれてくださるでしょう。また世界中の聖徒たち、代々の聖徒たちと、時間・空間を超えて、私たちは主が教えてくださった同じ「主の祈り」を「天にいます私たちの父よ」と祈っていくのです。今日も世界中の何十億という神の家族とともに、「天にいます私たちの父よ」と、祈っていくのです。このスケールの大きさに感動・感激しながら、「私たち」と祈っていきましょう。
主の祈りの最初の呼びかけ「天にいます」と、私たちはまず、まことの神様を見上げ、その偉大さを思い巡らし、圧倒されながら、畏れを覚えながら、襟を正し、心を整えて祈りを始めましょう。
そしてこのお方を「私たちの父よ」と告白できる恵みを感謝し、喜びましょう。信頼して、安心して「豊かに与えたい」と願っておられる父なる神様に、ともに願い求めていきましょう。
祈ります。
8.の「天主経」
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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