ヨハネの福音書 2章 1-11節
1. それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2. イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。3. ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4. すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
5. 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
6. そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
7. イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8. イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9. 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10. こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
11. イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝
2025年6月8日
ヨハネの福音書 2章 1-11節
「水をぶどう酒に変える」
今日は「ペンテコステ」です。この言葉の本来の意味は、「50番目・50日目(=五旬節:使徒2:1)」です。春の「過越の祭り」から50日後(七週間後)に行われた「七週の祭り:小麦の初穂の刈り入れを神様に感謝する(出エジプト記34:22)」のことを指しています。
過越の祭りの週に(ルカ22:1)、主イエス様は十字架に架けられ、死なれました。そして3日後、墓からよみがえられ、40日間(使徒1:3)、弟子たちと共にいてくださいました。40日目、主イエス様はオリーブ山から天に昇って帰って行かれます(使徒1:9)。
それから10日間、弟子たちはエルサレムの町の中で、真剣に祈り続けました(使徒1:14)。「イエス様が与えると約束された助け主=御霊を与えてください」と。40日+10日間=過越の祭りから50日目のペンテコステの日に聖霊(御霊)が降(くだ)ったのです(使徒2:2,3)。
聖霊に満たされた弟子たちは、イエス様の十字架と復活を力強く証しするようになりました。そこから全世界に向けて「主イエス様こそ救い主・神の御子」と宣べ伝える宣教が開始されました。 そして、主イエス様を信じて、救われた者たちの群れ=キリスト教会が誕生したのです。「教会の誕生日!」と言っても良いうれしい日曜日の朝、私たちはここに集っています。
今朝、開かれたみことばもうれしい場面です。2,000年ほど前の結婚披露宴です。現代の披露宴のようにお祝いのパーティにはおしゃれをした大勢の家族・親族・友人たちが集まり、わいわいしゃべりながら、ごちそうを食べ、祝辞を聞いたり、友だちが用意した余興を見て、わっははと笑い合ったりしたでしょうか。
そんな、はなやかな喜びの席が、一瞬にしてしらけてしまいそうな危機に直面してしまいます。ぶどう酒が無くなってしまったのです。水源の乏しいイスラエルでは、ぶどう酒(冷蔵庫の無い時代、ぶどう液は自然に発酵し、ぶどう酒になっていた)は、水代わりの飲み物でした。
私たちの日々の生活においても、思いがけない困難が襲って来ます。「ああ、どうしよう?どうしよう?」と、もがいてみても、どうしようも出来ないことが、家庭や学校、お仕事の現場でもあるのではないでしょうか? 「もう無理だ、もうダメだ」とお手上げにしてしまいなくなることが、あるのではないでしょうか?
そんな試練・問題・苦しみ・悩みに直面しながらも、その渦中にいる当事者本人は、何も出来ないのです。イエス様が出席されたカナの町での婚礼、新郎・新婦はひな壇の上からお祝いの席が、トンでもない事態に直面しそうなことに気付いたでしょうか? あせり始め、青ざめていく裏方の表情に気付いたでしょうか? ぶどう酒が底をつきそうだ…。まるまる一週間ずっと盛大に祝われていた当時の結婚披露宴、必要な分を計算して、それ以上にと相当な量のぶどう酒を用意しておいたはずなのに、なぜこんな事態が。
計算ミスがあったのでしょうか? そのための経費を惜しんで、ケチったのでしょうか? またこの週は、あまりにも陽気が良くて、暑さもあって、参列者が、がぶがぶ飲み続けたからでしょうか? それとも、すごい酒豪たちが集まっていたからでしょうか? 原因をあれこれ考えてみても、取り返しがつきません。盛大なお祝いの場が、一気に興ざめしてしまう。みんなの満たされていた「のど」と「心」が、一気に渇いてしまう。失敗が許されない人生一度の祝宴がとんでもない危機に直面していました。
『イスラエルに見る 聖書の世界(新約聖書篇)』という本の中で「ユダヤ教の結婚式」について、こんな説明が書かれてありました。
ユダヤ教の結婚式で、ぶどう酒は会食の宴(うたげ)のためだけでなく、食後には「七つの祝福の祈り」に不可欠なものであった。おそらくカナの婚礼でぶどう酒がなくなった頃は、この最後を締めくくる大事な祈りの前であろう。
イエスの母マリヤは、あわてふためいて息子のイエスになんとかして欲しいと頼んだのである。もし、ぶどう酒がなければ、最後の祝福の祈りが出来ず、結婚式は成立しなかったからだ 。
『イスラエルに見る 聖書の世界(新約聖書篇)』(ミルトス、1997年)、66,67ページ。
大変な危機が迫っているのに、新郎・新婦たちが、あくせくと動き回ることはできません。この宴会の責任者=世話役(ヨハネ2:9)は、のん気なものです。状況の深刻さが伝わっていません。あせっているのは、台所に立っているお手伝いさんたち、イエス様の母マリアはじめ多くの女性スタッフたちでした。
このようなピンチに直面させられた時、あなたならどうしますか? 「どうしよう?どうしよう?」と心配でたまらくなりますか? それとも、すぐにコンビニに走って行きますか? 方々に電話をかけて、助けを求めますか?
イエス様の母マリアは、人間の力ではどうしようもできない現実を知って、イエス様に訴えました。「ぶどう酒がありません」(2:3)。これはただの報告、状況説明ではないでしょう。母マリアの表情には、あせりと困惑、「どうしたら良いの?」という思い、そして「何とかしてほしい」という切実な願いがあったはずです。
真剣にイエス様に訴えかけ、迫ってくるマリアへのイエス様のお答えは、何とも素っ気なく、とても冷たく感じられます。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)
― 肉親だからといって、お母さん、あなたの願い・あなたの要望を全部かなえることは出来ないのですよ。私はあなたただ一人のためだけの救い主ではないのですよ。そして救いを成し遂げる時=わたしの十字架と復活の時は、まだ来ていないのですよ。 - 主イエス様は、身内だからこそ、あえて距離を置くようになさったのではないでしょうか。
そう言われても、マリアはあきらめません。大事な新郎新婦と親族に恥をかかせるわけにはいかない。イエス様なら必ず何とかしてくださる。「どうしてもお願いします」との思いで、お手伝いさんに声をかけるのです。「あの方が言われることは、何でもしてください。」(2:5)
「困った時の神頼みだ」とばかにされたって良い、何とかしてほしい、助けてください、マリアはイエス様にすがって、心の底からそう叫んだのではないでしょうか?
このカナの婚礼で、イエス様は最初のしるし、ご自身が神の子キリストであることを大いなる奇跡をもって表してくださいました。驚くべき奇跡です。
少量のワイン、ボトル数本のワインだったら、小さな子どもでも手品師のように出せるかもしれません。濃縮果汁を服のそでの裏側に隠し持っておいて、ま水の入った瓶の上から上手に流し込む、あらお見事!ぶどう酒の登場です。パチパチパチ👏と。
しかし、イエス様の奇跡は量が半端ありません。6節に「そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。」と。脚注には「1メトレテスは40リットル」と、あります。2メトレテス=80リットル ~ 3メトレテス=120リットル。真ん中を取って、100リットルの水がめ6つとしますと、合計600リットルです。夏場に、2リットル入りのペットボトルの麦茶を買って飲んだりしますが、2リットルのペットボトル300本分です。ものすごい量です。そのすべてに満杯に注がれたお水が、みんなぶどう酒に変化したのです。
イエス様がなさった奇跡は、祝宴が無事に継続できて良かった・良かった、感謝・感謝というハッピーエンドの出来事にとどまりません。私たちの信仰理解を変えてくれるみことばです、イエス様をどのようなお方だと信頼し、期待するのかを教えている大切なみことばです。11節です。
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
弟子たち=先週みことばを開いた、イエス様に呼ばれた最初の弟子たちです。アンデレ、ヨハネ、ペテロ、ピリポ、ナタナエル。彼ら5人は、カナの婚礼でイエス様がなさった奇跡を目撃した時、イエス様をもっと深く、もっとあつく信じ始めたのです。イエス様をどのようお方だと信じたのでしょうか? イエス様と共に歩んで行けば、私の人生はどう変わると信じ、期待したのでしょうか?
水をぶどう酒に変えてくださった。全く別物に変えてくださった。しかも、ご自分は水にも、水がめにも指一本触れることなく、ただお言葉だけで、水をぶどう酒に変えてくださったのです(2:7)。
水がぶどう酒に変わったように、イエス様と共に歩み始める時、私たちの人生はまったく新しい色に、新しい香りに、新しい味わいに変わります。ワインのように時が経てば経つほど、それは深まり、その良さが増していきます。それは、共に歩んでくださるイエス様のように、私たちが変えられていくからなのです。
またイエス様と共に歩み続けていく時、私たちの生きる意味・目的・生きがいが変わります。しらけそうで、もう終えるしかないとあきらめていた宴会が、喜びの祝宴に変わったように、私たちの人生は変わります。自分のための人生ではなくなって、共に歩んでくださるイエス様の道を、イエス様と共に生きる人生になっていきます。
そしてこの変化=キリスト教用語で「聖化」とも言われますが、そのために助け主なる聖霊が、私たちの内で働きかけてくださっています。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント人への手紙 第二 3:18)
御霊は、私たちをイエス様に似た者に(心・思い・言葉・行動などを)造り変えてくださるのです。先ほど交読したガラテヤ人への手紙5章に「御霊の実」として九つの品性が出て来ましたね。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」これからは、主イエス様の内側からあふれ出て来た良きもの=品性ではないでしょうか? 私たちも御霊に満たされ、日々イエス様のように、徐々に徐々に変えて頂きながら、イエス様のような品性を実らせていきたいのです。
水をぶどう酒に変えてくださる主です。これからも、私たちの内にそのような変化をイエス様はもたらし続けてくださいます。神様の喜ばれる色合いに、香りに、味わいに変えられ続けていくことを信じ、期待し、共に歩んでまいりましょう!
祈ります。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」(ヨハネの福音書15章5,6節)
主よ、ポキンと折られて、地面に落ちた枯れ枝のような私でした。本当のいのち、生きる意味、生きがいを見失っていました。火にくべられて燃やされるしかなかったような私を、イエス様は拾い上げてくださり、ご自身につなげてくださいました。
イエス様、あなたに接ぎ木された時から、私は変わりました。変えられ続けています。新しいいのちを頂き、助け主なる聖霊のお働きによって、私は日々イエス様に似た者に変えられ続けていると信じます。
けれども自分の日常、自分の内側を見てしまうと、良くなっているどころか悪くなっているように感じてしまうことがあります。
私の力によってではなく、御霊の力によって、私たちを造り変えてください。
神様の約束は確かで、必ずそうして頂けることを信じます。これからも神様、あなたに喜ばれる者へ私たちを造り変えてください。
水をぶどう酒に変えてくださった主よ、私たちの内にもそのような変化をもたらしてください。もたらし続けてください。神様の喜ばれる色合いに、香りに、味わいに私たちを日々、造り変えてください。
期待し、待ち望みます。救い主イエス様のお名前を通して、お祈りいたします。アーメン
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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