ヨハネの福音書 4章 16-26節
16. イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17. 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18. あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
19. 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
20. 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21. イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
22. 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23. しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24. 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
25. 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26. イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
礼拝メッセージ
2025年7月20日
ヨハネの福音書 4章 16-26節
「神を礼拝する人」
明日、北陸飛騨宣教区の年に一度の大会が岐阜の飛騨高山で行われます。土砂崩れのせいで長い間、通行止めになっていた大野から飛騨に抜ける山道(国道158号)が、ちょうど良いタイミングで数日前、う回路が開通し、通り抜けられるようになったと報道がありましたので、そこを通って行こうと考えています。
今回、福井からは私一人の参加となりそうですが、数年前、同じ高山で行われた際には、子どもたちも一緒に行ってもらうきっかけ(エサ)として、「最近はまっているアニメ映画『君の名は』のモデルになった場所だよ。行って見ようよ!」と誘い、連れ出しました。 高校生の男女の中身が入れ替わってしまうという映画なのですが、映像が本当に鮮明できれいな作品です。その中で描かれていた飛騨古川駅や近くの飛騨市図書館を見学し、高山ラーメンも味わってから、ほくひ宣教区大会に行って来ました。
大好きなアニメの舞台となっていたり、映画やドラマが撮影されたりした現場にまで、ファンが実際に遠出して見に行くことを「聖地巡礼」と呼ぶのだそうです。「聖地」と呼ぶほど、特別などうしても見に行きたい場所という意味なのでしょう。また日本では「聖地」とされているような有名な神社仏閣へ参拝に行くことが、江戸時代あたりから「楽しい団体旅行」となってしまっていますから、そんな風に「聖地巡礼」が、軽い言葉として使われてしまうのかもしれません。
けれども本来「聖地巡礼」は宗教的命がけの旅。特別な祈り心を持って、そのために大きな財産をつぎ込む犠牲を伴う信仰者の旅ではないかと思うのです。イスラム教徒たちがメッカへと、仏教徒がインドへと、カトリックの信徒たちが危険で過酷な長距離を歩いて「聖地」へと巡礼する様子を、私たちはテレビの映像などから、教えられています。
先週からイエス様とサマリアの女性が対話しているみことばを開いています。今、二人がいる場所はサマリアのスカルという町でした(4:5)。そこはサマリア人にとって大切な礼拝の場所=ゲリジム山のふもとにあった町でした。サマリア人にとっては、ゲリジム山は「聖地」だったのです。
井戸端会議として始まった主イエス様とサマリアの女性との対話ですが、軽い世間話ではなく、「本当のいのちの問題」、また「生き方の問題」、そして「神を礼拝するとは」という、深い深い話題になっていきます。そこにあった地下30~60メートルの深さの井戸のように、彼女が心の深い所で持っていた関心・霊的求めへと、また彼女がずっと深い所に隠しておこうと思っていたあの辛い過去へと、そして神様の用意された救いのご計画へと、話題が深まっていくのです。
初対面の男性に、しかも犬猿の仲であったユダヤ人の見ず知らずの男性から自分の過去と現在をすべて言い当てられたサマリアの女性は、イエス様にこう告げます。
4章19、20節、
彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
かつて、ソロモン王が亡くなった後、イスラエルが南北に分裂してしまった時代がありました。神殿があるエルサレムを都とした南ユダ王国の人たちと、やがてサマリアを都とする北イスラエル王国(Ⅰ列王記16:23,24)の人たちは、ケンカ別れしました。北王国のヤロブアム王は考えます。みんなが、これまでのように過越の祭り・仮庵の祭りなどのたびごとに、年に何回もエルサレムに巡礼の旅をし、エルサレムで礼拝するようになると、国民の意識は「やっぱり一つの国になろう、ダビデ王家のもとに戻ろう」となってしまうだろう(Ⅰ列王記12:26,27)。そうならないように、エルサレムに行かずとも、こちらで神を礼拝できるお宮を建てようと考えました。そんな人間的な思惑で始まった北の礼拝は、すぐに人間中心の偶像礼拝へと落ちて行きました(Ⅰ列王記12:28-33)。
そのためサマリア人は、ユダヤ人から「異教徒・偶像崇拝者・神のさばきにあうべきほろびゆく民」と嫌われ軽蔑されてしまいます。勝手に礼拝の場所を変更した不届き者だと。そのことも対立の火種の一つでした。しかし、サマリアの女性が「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが」とイエス様に訴えているように、二人が見上げたところにあった標高800メートル超のゲリジム山は、由緒ある場所でもあったのです。 先ほど交読した申命記11章29節に出て来た、神様の祝福を象徴するゲリジム山です。実際にヨシュアは、約束の地に入って行った時、ゲリジム山の前でイスラエルの民を祝福し、律法を読み上げます(ヨシュア記8:33-35)。もっと歴史をたどれば、申命記11:30に「それらの山はヨルダン川の向こう側、日の入る方の、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの向かい、モレの樫の木の付近にあるではないか」と説明されています。
二つの山のふもとにあったモレの樫の木は、あのアブラハムがカナンの地に入った時、最初に祭壇を築き、神様を礼拝した場所に生えていたたのです!
創世記 12章 5-7節
5. アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、 ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6. アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
7. 主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
「勝手に礼拝の場所をこしらえた」と批判されていたサマリア人ですが、彼らにも彼らなりの理由があったのです。この樫の木がある場所は、我が民族発祥の地、信仰の父アブラハムが最初に祭壇を築いた地なのだと。「元祖○○」、「〇〇発祥の地」を巡って、隣り合うお店や県が、つまらない対立を繰り返しているように、ユダヤ人とサマリア人は、どっちが神を礼拝する「聖地」を所有しているかということを巡っても対立していたのです。
さらに、サマリアの女性は、離婚を5度も経験させられた訳アリの女性でした。もしかしたら、彼女はサマリアの「聖地」ゲリジム山に登ることも、そこで神を礼拝することも禁じられていたかもしれません。あるいは、井戸に行くのも人目を避けて真っ昼間にしていた彼女です。ましてや礼拝などに行けるはずもない…冷たい視線を向けられるに決まっている…「そんな私…、神に見捨てられて当然と思っている私が…、永遠のいのちの水を飲んで良いのでしょうか! こんな私に神の救いが及ぶはずがないでしょう!」。ヨハネ4章19,20節の彼女の言葉の背後には、そんな心の叫びがあるように思うのです。
イエス様はそんな女性に語りかけてくださいます。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」 ゲリジム山でもない、エルサレムでもない、特別な「聖地」にもう行く必要はない。今あなたがいるところで、これからは神様を礼拝できる、そんな新しい恵みの時代が来た!と宣言してくださったのです。
私たちも同じです。日曜日、ここ福井の教会の礼拝堂で、ともに主なる神様を礼拝できる恵みにあずかっています。と同時に、あなたの井戸端で主にお会いできるのです。台所で、通勤する車の中で、職場で、学校で、病室で、私たちは神様のことばを聞き、神様を身近に感じ、神様のみわざを体験し、神様の素晴らしさを知り、「アーメン、ハレルヤ」と神様を礼拝できるのです。イエス様が彼女に会いに来てくださったように、あなたの現場にまで主イエス様は来てくださるのです!
イエス様は彼女に伝えます。
23、24節 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
この箇所は、これまでの新改訳聖書と新しい『新改訳2017』では、翻訳とその意味することが大きく変わっています。
· 新改訳聖書 第3版は、
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
· それに対して、新改訳2017は、
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
この変更について、翻訳を担ってくださった内田和彦先生(神学校教師であり牧師であられる方)は、こう書き記しています。
「霊」を意味するギリシャ語の単語が、神の霊であれば新改訳では「御霊」と訳し、人間の霊の場合、単純に「霊」と訳されてきた。従ってこれまでの新改訳第3版の「霊」は人間の霊である。またそれと対をなしている「まこと」も人間の真実であると理解できる。実際、礼拝で私たちが心から礼拝できるようにという意味で、「霊とまことによって礼拝できるように」という祈りがささげられる。
しかし、ヨハネの福音書では「霊」は基本的に聖霊のことである。人間の「まこと」と理解されて来たギリシャ語の単語も、神が明らかにされた「真理」であり、真理である「キリスト」である。したがって聖霊の助けにより、神が啓示された真理によって礼拝をささげることが教えられていると考えられる。 新しい翻訳によって、礼拝が人間の営みである以前に、神が可能としてくださった恵みであることが明らかになる。人間中心の礼拝ではなく、「御霊と真理によって」ささげる礼拝、御霊に導かれ、神が示してくださる真理によって神ご自身を礼拝することが求められている 。
内田和彦『聖書翻訳を語る 『新改訳2017』 何を、どう変えたかのか』(いのちのことば社、2019年) 76,77ページ。
イエス様は、彼女に「本当の礼拝とは何か」を教えてくださるのです。「私なんか、礼拝に来るのにふさわしくない…」と思っていた彼女。でもイエス様は、彼女がいつも正午に来る井戸端で、真の神=イエス様と出会う機会を与え、救いへと招き、彼女を礼拝者としてくださったのです。人が生きていくうえで一番大切なこと、必要不可欠なことは、神様につながり、神様をほめたたえ、神様によって生かされる人生なのだと、彼女に気づかせてくださったのです。
私たちを救いにあずからせてくださる聖霊と、父なる神様と和解させ救ってくださるイエス様ゆえに、私たちは今日も神様を礼拝できるのです。御霊と真理によって礼拝できるのです!
さて、イエス様と彼女の井戸端での会話。読まれてみていかがでしょうか? 初めは、なんかとんちんかんな会話だなあ、かみあっていない会話のように感じられたのではないでしょうか?
イエス様 「わたしに水を飲ませてください」(4:7)
女性 「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(4:9)
イエス様 「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(4:10)
女性 「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」(4:11,12)
イエス様 「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を 飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:13,14)
女性 「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(4:15)
イエス様 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16)
この世の水=H2Oしか思い浮かばない彼女に → イエス様が与えたい永遠のいのちの水を知らせ、
自分なんて礼拝に行けないと思っていた彼女に → あなたも救いに・礼拝に招かれているのだよと伝え、
目の前にいる疲れ切った脱水症状寸前のユダヤの旅人が → 実は、聖書の中に 約束されているメシア=キリスト、サマリア人も待望してきた救い主だと、気づかせてくださったのです。
女性 「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(4:25)
イエス様 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)
私たちも、この時の彼女と同じように、たくさんのとんちんかんなことを、神様に申し上げてしまう日々かもしれません。しかし、そんな私たちをなおも見捨てないで、霊的な真理へ引き上げ、神様のみこころを気付かせようと、私たちを井戸の底から引き上げてくださる素晴らしい主イエス様なのです。このお方をこれからも信頼し、ともに歩んでまいりましょう。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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