「わたしだ、恐れるな」

ヨハネの福音書 6章 15-21節 
 15. イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 
16. 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。 
17. そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。 
18. 強風が吹いて湖は荒れ始めた。 
19. そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。 
20. しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 
21. それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。



 聖餐礼拝メッセージ 

2025年9月7日 

ヨハネの福音書6章15-21節 

「わたしだ、恐れるな」 


 ある年の冬、私は会議に出席し、夕方、高速道路に乗って家に帰ろうとしていました。すると向かい風が吹いて来て、猛吹雪になりました。フロントガラスにたくさん雪が叩きつけます。目の前は真っ白で、何も見えなくなりました。スピードを落とし、身も縮む思いで、こわごわ運転しました。しばらくすると吹雪は止み、視界が開けて来ました。生きた心地がしました。その時の安心感は忘れられません。 

 今日の聖書箇所の弟子たちも、自動車ではありませんが、舟の上で本当に恐ろしい経験をしました。ガリラヤ湖に浮かぶ一そうの舟が、激しい強風と高波に飲まれそうになりました。しかも深夜、湖のど真ん中です。周りは真っ暗闇でした。 

 5つのパンと2匹の魚をお使いになって、成人男性5,000人、女性や子どもも含めれば、1万人から2万人もの大群衆のお腹を、いっぺんに満たされるという驚くべき奇跡をなさった直後でした。

ヨハネ 6章 14,15節 
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。 

 あのモーセのような預言者が再来したのか! またモーセは「私のような一人の預言者」(申命記18:15、18)が起こされると、神様の約束を書き残していた。まさに目の前にいるイエスこそ、その人物ではないか!と人々は期待を高めました。 人々は熱狂し、イエス様をこの世の王様にまつり上げようとしました。厳しいローマ帝国の支配からユダヤ独立を勝ち取ってくれる指導者にまつり上げようとしたのです。人々のそのような「キリスト(救い主)に対する間違った期待」から身を避けるために、イエス様は、集まった群衆を解散させ(マタイ14:22、マルコ6:45)、一人で山に登って行かれます。そこで静まって、父なる神様に祈っておられたのでしょう。 

同じ出来事が記されているマタイの福音書14章22節には、「それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。」 押し寄せてくる群衆から弟子たちのことも守ってくださるために、イエス様は彼らを無理やり舟に乗せ、「向こう岸へ渡りなさい」と送り出すのです。 

 弟子たちはこの日、くたくたに疲れ切っていたでしょう。パンと魚の奇跡の場面、弟子たちは2万人もの人たちを、100人ずつ・50人ずつとグループ分けし、座らせました(マルコ6:39,40)。大声を張り上げ、大群衆に「順番をきちんと守ってください。ちゃんと並んで」などと呼びかけながら、一人ひとりに食べ物を配ったのです。配膳作業をしながら、弟子たちも大興奮したでしょう。イエス様の弟子であることを、この時ほど誇りに思ったことは、なかったかもしれません。 

 壮絶な奉仕が終わった後、弟子たちの心と体は疲れ切っていました。舟に乗り、早く向こう岸に渡って、静かな場所でぐっすりと眠りたいと願いました。しかし、そんな期待とは裏腹、彼らはその晩、舟の上で眠られない夜を過ごし、不安でいっぱいの夜を明かさなければならないのです。

ヨハネ 6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。

十二弟子の少なくとも三分の一は、ガリラヤ湖での舟の操業はお手の物でした。ペテロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネは、この湖で魚を取り、生活して来ました。しかし経験豊かな彼らをしても、舟が一向に前に進まないどころか、沈没しそうなピンチになり、命の危険を感じているのです。

 約2,000年前、ペテロたちが乗っていたかもしれない当時の木造の舟が1986年に発見され、今イスラエルの博物館に展示されているそうです。この形、大きさ(長さ8.2m、幅2.3m、高さ1.2m)から言って、10数人は楽に乗れるものでした。帆船ですから、舟の進行は風頼みでもあったでしょうね。

 沈没してしまうのではないかと焦り始め、疲れもたまり、眠気も押し寄せ、互いにいらいらし始め、言い争いが始まりそうでした。 

 そんな弟子たちの様子を知ったイエス様は山から降りて来られ、湖をすべるように歩いて、弟子たちのもとに近付くのです。

 ヨハネ 6:19、 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。

 夕方、湖畔から船出し、4・5キロほど湖の中央に入っていました。もう10時間ほど、舟の中でした。そして何時間も嵐に翻弄されていた午前3時頃(マタイ14:25)、弟子たちは湖の上に浮かぶ人影に気付くのです。「ぎゃー出たー!幽霊だー!亡霊だー!」。飛び上がって、叫んでしまった(マタイ14:26)のも無理はありません。日本の怪談話の冒頭の定番フレーズ「草木も眠る 丑三つ時(うしみつどき)」も真夜中の午前2時から2時半頃のことだそうです。 

 その人影は、湖の上を歩く(普通ではありえないことですが、)イエス様でした。 先ほど交読した詩篇77篇19節に、「あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。」と歌われていたように、主イエス様は湖面を、水上を歩いて、弟子たちを救い出しに来てくださったのです。 

6:20 イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」

いつものイエス様の声でした。「わたしだよ、怖がるな。もう大丈夫だ」と語りかけてくださいました。 この「わたしだ。」というイエス様のお言葉は、元々「エゴ―・エイミ」というギリシャ語です。イエス様が「わたしは○○である」とご自身を紹介される時に、使われた定番フレーズです。それは「わたしは約束された救い主だよ。天から降って来た神の子だよ。わたしは主なる神である」という宣言なのです。 

 さらにもとをたどれば、出エジプト記 3章 14節で、モーセに「わたしは『わたしはある』という者である。」と語られた主と同じお方なのです。 出エジプトの際、大海を分けて道を開き、神の民を無事に向こう岸へと渡らせてくださった神様は、それから約1,500年後、荒れ狂う湖を一瞬にして静め、弟子たちが乗った舟をすぐに目的地に到着させてくださったのです。 

 出エジプトの際、飲む物も食べる者の何にもない荒野の極限状況に置かれたイスラエルの民、すぐに餓死してもおかしくない難民であった神の民に、毎朝マナを与えて食べさせ、生かしてくださった主なる神様は、それから約1,500年後、5つのパンと2匹の魚をもって、余るほど人々を満腹させてくださり、さらに「わたしがいのちのパンです」と、今だけの満腹・満足をはるかに超えた、永遠に続く生きる喜びをもたらしてくださるお方でいてくださるのです。 

 よく聖書を読まれている方、よく聖書を学ばれている方が、時々こんなことをおっしゃるのを聞きます。 ― 「私には、どうしても旧約聖書の神様と新約聖書の神様が別のお方であるように思えてならないんです。イエス様を通して知ることができる神様は、愛に満ちていて憐み深く、本当に優しい神様なのですが、旧約聖書に登場する神様は、すぐにさばき、罰する本当に恐ろしい神様としか思えないのです。」 - 皆さんもそんな風に感じることがあるでしょうか? 

 けれども聖書は、はっきりと宣言します「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル13:8) 創世記の中の創造主なる神様も、出エジプト記の中の主なる神様も、ダビデを助け、生かしてくださった神様も、預言者にご計画を明かされた神様も、そして約2,000年前、人となって現れてくださった神の御子イエス様も、永遠に変わることのない同じ神様なのです。そしてこの主なる神が、今も生きて働いておられ、あなたを・私を・私たちを守り導いてくださっています。 

 ガリラヤ湖で、嵐に飲まれそうになっている舟と弟子たちの姿は、私たち自身の姿、また教会の姿です。人生に押し寄せて来る様々な嵐のせいで、沈みそうになってしまいます。「恐れるな」と神様に言われても、怖くて怖くてたまりません。 

 それでも、その舟の中から、嵐のうずの中から「主よ、助けてください」、「主よ、救ってください」と、私たちは主なる神様にすがることができるのです。目には見えませんが、確かに伸ばされている主の御腕に信頼し、しがみつくことができるのです。いや主ご自身が、私たちをつかんでいてくださるのです。   

これからもずっと変わらずに助けてくださる主の御腕に気付いていきたいと思います。

21節 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。

「すぐに」です。それは、私たちの願う時間:「すぐに」ではないかもしれません。弟子たちも一晩中、嵐におびえた後、イエス様を舟にお迎えしてからの「すぐに」でした。人間の側から見れば、期待し、忍耐し、待ってから訪れる神の時:「すぐに」であったりもします。神様の最善の時の「すぐに」です。イエス様が知っておられる最善の時に「すぐに」イエス様は御手を伸ばし、あなたをつかみ、助け出してくださるのです。この主の導き・守り・主の最善の取り計らい・最善のご計画を信じて歩んでいきましょう。   

 最後に、詩篇107篇23-32節のみことばを聴きましょう。 

 23. 船に乗って海に出る者 大海で商いする者 
24. 彼らは見た。主のみわざを 深い海で その奇しいみわざを。 
25. 主が命じて 激しい暴風を起こされると 風が波を高くした。 
26. 彼らは天に上り 深みに下り そのたましいは みじめにも溶け去った。 
27. 彼らは酔った人のようによろめき 知恵はことごとく吞み込まれた。 
28. この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から導き出された。 
29. 主が嵐を鎮められると 波は穏やかになった。 
30. 波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。 
31. 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。 
32. 民の集会で主をあがめ 長老たちの座で主を賛美せよ。 

 祈りましょう。


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