ヨハネの福音書 7章 1-13節
1. その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
2. 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
3. そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
4. 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
5. 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
6. そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7. 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
8. あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
9. こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
10. しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。
11. ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
12. 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。
13. しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
聖餐礼拝メッセージ
2025年10月5日
ヨハネの福音書7章1-13節
「神の時と人の時」
私たちは日々、時間や時刻、それを指し示す時計に囲まれながら、追い立てられるような生活をしています。また時間というものがあるので、朝・昼・晩と生活のリズムを保つこともできます。時間が決まっているので、今朝、皆で集まって、午前10時半から礼拝をおささげできています。
以前、小学校2年生の子どもたちが算数の宿題を持ち帰りました。アナログ時計の絵があって「今は午前11時45分です。これから20分したら、何時何分ですか?」といった問題でした。皆さん、正解は 分かりますよね。でも小さな頃からデジタルの時計に慣れているせいか、あるいは長い針は1のメモリに来ると5分という意味で、1時間は60分という独特な数え方が難しいせいか、子どもたちは理解に苦しみました。時計や時間の仕組みが分からず、親子で四苦八苦していました。
早く宿題を切り上げてしまいたいと考えた私は、そばにある目覚まし時計の電池を抜いて、裏のねじをぐるぐる回しながら、「さあこれ何時? 長い針を2周、回すよ。ほら今、何時になっている?」などと言って、理解させようとしました。
そんな日常を過ごしたことを思い出しつつ、イエス様がご自分の弟たち*に語られたみことばを思い巡らしました。ヨハネの福音書7章6節の「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています」。そして、この時のイエス様の弟たちに関して、ヨハネは7章5節で「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」と記しています。
*イエス様の弟・妹
:聖霊により処女マリアの胎に宿られたイエス様。マリアは、いいなずけのヨセフと結婚する。イエス様ご降誕後、この夫婦の間には多くの子どもたちが与えられた。
この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄では ないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」(マルコ6:3)
時計のねじをくるくる回していた自分を思い出しながら、「ああ、そうなんだ!だからか!なるほど!」と気付きが与えられました。時計のねじを回せば、時刻の表記を変更することは可能です。けれども、本当の時間=「今、何時何分何秒」という時刻を、人は1秒たりとも遅らせることも、止まらせることも、進ませることもできないのです。私たち人間は、時間に支配されています。というよりも、時を定められ、均一なリズムで時を動かし、すべての時と、その時々に起こる全ての事がらを支配されている大いなるお方=神様に支配されているのが、人間の本当の姿なのです。
それなのに、人間は自分で自分の時間をコントロールできるような、さらに人の時間までコントロールできるような傲慢な考え方をしてしまうのです。そして、それは時の支配者なる神様の上に立とうとする高慢なのです。 イエス様の弟たちもまさにそうでした。
7章1節からです。
1. その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。
2. 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。
3. そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
4. 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」
年に一度の仮庵の祭りが盛大に行われる秋の日が近付いていました。イエス様の「兄弟たち」この言葉には弟だけでなく、親せき・いとこなども含まれるそうですが、親せき縁者がイエス様に向かって言うのです。 「こんなガリラヤの田舎でくすぶっていないで、都に上って行って一旗揚げてきたら良いじゃないですか?」
言い方は悪いですが、私たちに例えれば、「福井でどんなにすごいことを言っても、どんなにすごいことをやっても、全国区にはなれませんよ。東京に進出して来なさい。大手メディアや大手広告代理店とタイアップして、知名度をアップしないとだめですよ!」 そんな風に、親せき縁者がイエス様をけしかけるのです。
親せき縁者は、イエス様をすごいことをする兄貴だ、ただ者ではないと理解していました。38年間も寝たきりだった病気の人をひと声で癒し(ヨハネ5章)、また希望を失った女性に新しい人生を与える(ヨハネ4章)ようなすごい兄貴に憧れ、尊敬していたかもしれません。けれども、このお方を信じ、従おうとはしていませんでした。反対に利用しようとしていたのです。「上手く行って、イエスが国中に知れ渡り、超有名人になったら、おれたちも、おこぼれにあずかれるかも!」という野心もあったかもしれませんね。
あのイエスのマネージャー役を買って出よう。あのイエスを利用して、俺たちも有名になり、儲けてやろう、そんな悪い考えもあったのでしょうか。時を支配され、愛をもって、私たちをご支配されている神の御子を、弟たちは反対にコントロールし、支配しようとしたのです。「イエス、国中の人々が都エルサレムに集まる今がチャンスですよ。最高のタイミングですよ、さあ都に行きなさい」とイエス様の時、神様の時を何も分かっていないで、勝手に人間が神の御子を支配しようとするのです。はなはだしい思い上がりです。
だからこそ、福音書記者ヨハネは解説するのです。
7章5節「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」と* 。
* 他の場面では、弟たちは悪い評判をされている兄イエスを、実家に連れ帰ろうとしている。
これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が 「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。(マルコ3:21)
このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。(マルコ3:30,31)
イエス様の弟たちの姿を見ながら、ああ、私も同じだなあと思わされます。 神様の時を待てないのです。先走って、勝手に判断し、勝手に行動し、「ああ、またやっちゃった…」と後悔することの多い私自身です。
あるいは、神様から「今だよ、今、立ち上がりなさい。ここで行動しなさい」と示された時に、立ち上がらないで、そのタイミングを失ってしまうことの多い私自身です。皆さんはいかがでしょうか?
神の時を正しく理解できない。自分勝手に時を判断してしまう。愚かでどうしようもない私自身です。
先ほど交読した伝道者の書3章にあったように、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」ことを信じ期待し、待ち望み、体験していきたいと願います。
思い上がり、イエス様の時と行動を支配し、自分たちの思い通りにイエス様をあやつろうとした弟たちに対して、イエス様は何と答えられたでしょうか。
6. そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
7. 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。
8. あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
9. こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
「わたしの時はまだ来ていない。わたしの時はまだ満ちていない。だから表立ってエルサレムに、人でごった返している仮庵の祭りに行くことはしない」とお答えになります。この時点ですでに、イエス様はユダヤ当局から命をねらわれていました。でもまだ、十字架の時ではない、と父なる神様から示されていたイエス様は、「まだだ、今ではない」と時を見定めておられるのです。
それは同時に、イエス様の時と行動を支配しようとした弟や親族に対する抵抗でもあったのではないでしょうか。
弟たちの提案は却下されましたが、イエス様はその後、お忍びでエルサレムに上って行かれます(10節)。そして隠れていることなどできず、堂々と宮(エルサレム神殿)の中で、人々に語りかけてくださいました(14節)。
この段階では、イエス様は「まだだ、時ではない」と、正体をさらしながらのエルサレム行きはなさいませんでした。しかし、それはやがて数年後の過越の祭りに向けての上京の準備でもあったのでしょう。
「時が来れば、必ずエルサレムに上る。それも十字架の苦しみを受けるため、殺されるために」。「それこそ、わたしの使命だ」。「この弟たちのため、弟子たちのため、多くの人たちを救うために、わたしはエルサレムに上る」と覚悟を決めていてくださったのです。
さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然(きぜん)として進んで行かれた。(ルカ9:51)
十字架の苦しみから絶対に逃げない。父なる神様との恐怖の断絶が待っていようとも、時が来れば先延ばしにしない。イエス様の壮絶な覚悟が伝わって来ます。
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ13:1)
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。(マタイ26:45)
イエス様はご自身の時をご存知でした。父なる神様とのたえざる祈り(対話)を通して、ご自身の時と、その時になすべきわざをご存知でした。神様が定められた最善の時とみこころにずっと忠実に歩まれたのです。
私たちもこのイエス様のお姿に近づいていきたいと願います。
これから聖餐式にあずかります。私の罪を赦してくださるため、私を救ってくださるために、私を生かしてくださるために、あの時、逃げずに、ひるまずに、堂々と、十字架をかついでゴルゴタの丘に向かってくださったイエス様のお姿・その壮絶なご覚悟を覚えながら、ともに感謝し、聖餐式にあずかってまいりましょう。
祈ります。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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