「わたしだよ。わたしだったのだ」👞👢

ヨハネの福音書 8章 21-30節 
 21. イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」 
22. そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」 
23. イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 
24. それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 
25. そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 
26. わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 
27. 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。 
28. そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 
29. わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」 
30. イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。 


子ども祝福礼拝メッセージ 

2025年11月16日 

ヨハネの福音書 8章 21-30節

「わたしだよ。わたしだったのだ」


  先週の日曜日は秋の歓迎礼拝でした。キリスト者学生会(KGK)北陸地区主事にみことばを説き明かして頂き、礼拝後にはお昼を一緒にしながら、皆さんにご自分のことを語って頂きました。帰り際、主事は「北陸の方たちは、あまりご自分の内面をお話しされない印象を持っていましたが、この教会は違いますね。正直な皆さんの思いをお聞きでき、本当に良い時間でした」と喜んでおられました。 

そのように「自己紹介をしてください」と言われたら、どのようにご自身を紹介なさいますか? ストレートに「あなたは何者ですか?」、「あなたはだれですか?」と問われたら、どうお答えになるでしょうか? 「どこどこの生まれで、だれだれの子どもで、今はこんな仕事をしていて、家族構成はこうです」、「趣味はこれこれで」。そんな説明をするでしょうか。あるいは、「私はクリスチャンです。イエス・キリストを信じ、キリストのように生きていきたいと願っています」とご自身の信仰を証しできるでしょうか。 

 ヨハネの福音書7・8章には、「イエスとはいったい何者なのか?」ということを巡って、人々や宗教指導者たちが議論し合い、疑問や疑念を抱いたこと。その問いを直接イエス様にぶつけ、それに対するイエス様のお答えに、ある人たちは感動してイエス様を信じるようになり、別の人たちは強い反感を抱いたことが記されています。 

7・8章には、イエス様を巡る「?(はてな)」、クエスションマークが繰り返し出てきます。拾い出してみますと、 

7:11「あの人はどこにいるのか」 
7:15「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 
7:20「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」 
7:26「もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのでは ないか。」 
7:31「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろ うか」 
7:35「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。」 
7:36「あの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」 
8:19「あなたの父はどこにいるのですか。」 
8:21のイエス様のみことば「わたしは去って行きます。」を聞いたユダヤ人(指導者たち)が抱いた一抹の不安…「まさか自殺するつもりではないだろう。」 
8:25「あなたはだれなのですか。」

などです。 約2,000年前、イエス様を目の前にした時、人々が抱いた疑問でした。これらの問いは、私たちにとっても非常に重要です。そして、答えていかなければならない問いではないでしょうか。 

 「今、イエス様はどこおられるのか?」

 「私はイエス様がキリスト=救い主であることを、本当に知っているのか?」

 「真(まこと)の王キリストが今、この世界全てを治めてくださっている。そのしるしが見えているだろうか? イエス様がこの世界に、私の日々の生活に働きかけてくださっている確かな証拠は何だろうか?」 

「イエス様が語られたことば、聖書に記されているこのことばは、いったいどういう意味だろうか?」 

 神の子イエス様は何のためにこの地上に降って来られたのか? 「何のため?」の答えの一つが今日のみことばにあります。

8章23,24節、 
23. イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から 来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 
24. それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 

 イエス様が上から=天の父なる神様のみもとから降って来られたのは、私たち人間が、「自分の罪の中で死なないためです」。罪をもったまま=罪を赦されないまま=父なる神様と断絶した状態のまま死を迎え、滅びに至ることがないようにするためです。反対にキリストと共に希望に満ちた人生の最期を迎えられるように、イエス様は世に来られたのです。 

キリストと共に死に、そしてキリストと共に新しく永遠に生きる者とされる。そのために必要な条件は、イエス様こそ「わたしはある」というお方だと信じることです。「わたしはある」という表現は28節にも出てきます。

「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、 ― を、あなたがたは知るようになります。」 

 人の子が上げられるというのは、イエス様が十字架にはりつけにされることです。イエス様が死んでしまわれることです。むごたらしく見えるその死によって、私たちの罪は帳消しにされ、赦され、救いが完成するのです。 

 マタイの福音書27章54節には、イエス様の最期を目撃した 

百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」 

 ルカの福音書23章46,47節にも、 

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。 

 十字架で処刑されたイエスは、罪など一つも無い正しい聖なるお方だった。神ご自身であったと、ローマ兵たちは胸が締め付けられるような体験をしたのです。

十字架の死・埋葬・そして復活・召天と。地に降り、私たちの身代わりに死なれ、そして勝利され、よみがえって天に昇られたイエス様のお姿を目撃する時、人はイエス様が本当は何者だったのかを知らされるのです。「ああ、このお方こそ『わたしはある』であるお方だ」と。 

 8章24節の「わたしはある」ということばには脚注が付いています。「わたしはある」というのは、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミ」出エジプト記3章14節「わたしは『わたしはある』という者である」という神の自己顕現(ご自身を紹介される)の表現に由来していると。 

かつて、イスラエルの人たちが400年間もエジプトで生活し、最後は奴隷としてこき使われ、苦しみうめいていた時、神様はエジプトから脱出させるためにモーセをリーダーに立てようとします。しかしモーセは「いいえ、私には無理です」と辞退しようとするのですが、神様は説得してくださって、「さあ、エジプトに行け」と押し出してくださいます。その時、 

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」 また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならな い。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」  

「わたしはある」それは永遠に存在される主なる神の偉大さを表すお名前であり、同時にエジプトの奴隷状態から救い出してくださる神様、また罪の奴隷となっていた私たちを救い出し、生かしてくださる神様を表しています。「わたしはある」それは「わたしこそまことの救い主、あなたの救い主、あなたの神」というお名前なのです。 

 今日は、子どもたちへのメッセージとして「くつやのマルチン」の紙芝居を一緒に見て頂きました。イエス様が、マタイの福音書25章で語られたみことばをもとに、ロシアの文豪トルストイが書き上げた童話です。

「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(25:40)

マルチンが、そうとは知らずに親切にし、もてなし、ささげたあの人たちが、実はイエス様ご自身だったというお話です。雪かきで疲れ切っていたおじいさん。貧しくてお腹を空かせていたお母さんと赤ちゃん。貧しさゆえにやってはいけないりんご泥棒してしまったあの男の子。マルチンが出会い、助けてあげたあの一人ひとり。イエス様は「あれがわたしだったんだよ。わたしだよ」とマルチンに示してくださった。そんなすてきなお話でした。 

 ヨハネの福音書の「わたしはある」というイエスのことばを思い巡らしながら、私はくつやのマルチンにイエス様が語られた「わたしだよ。あれがわたしだったんだよ」と重なり合うような気付きが与えられました。イエス様のみことばが心に迫って来ました。 

 イエス様が語られた「最も小さい者たちの一人」。それは他の誰でもない私自身です。皆さん一人ひとりが、最も小さい者の一人です。 

 人生で苦しかった時、つらかった時、となりに誰かいてほしいと切望した時。分かってほしいと願った時。イエス様があなたのかたわらにおられ「わたしだよ。わたしがそばにいるよ」と優しく語りかけてくださったのです。不安でいっぱいだった時。寒さでふるえていた時。暑くて意識がもうろうとしていた時も。病気で痛み、孤独を感じていた時も。恐れていた時にも「わたしだよ。わたしがいる」とイエス様はあなたと共におられるのです。自分のどうしようもなさ・罪深さに絶望してしまう時、イエス様は「わたしだよ。救い主であるわたしがいる。わたしを信じなさい」と語りかけてくださいます。 

 「わたしだよ。わたしはある。あなたと共にいる」と。そして「あなたの救い主だ」と、昨日も今日もとこしえに変わることなく。あなたと共にいてくださるイエス様なのです。十字架でいのちを捨てるまでしてくださって、あなたを救い出そうとしてくださったイエス様です。「わたしはあなたと共にいつも、いつまでもいっしょだ」。そう断言してくださるイエス・キリストに私たちは出会っていきましょう。今日も明日もずっといつまでも出会わせて頂きたい。出会い続けて生きたい。そう信じ願いながら、歩んでまいりましょう。 

 祈ります。  

0コメント

  • 1000 / 1000

福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。