「ザカリヤの賛美」

ルカの福音書 1章 67-79節 
 67. さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。 
68. 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民(みたみ)を顧(かえり)みて、贖(あがな)いをなし、 
69. 救いの角(つの)を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。 
70. 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。 
71. この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。 
72. 主は私たちの父祖(ふそ)たちにあわれみを施(ほどこ)し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。 
73. 私たちの父アブラハムに誓(ちか)われた誓(ちか)いを。 
74. 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。 
75. 私たちのすべての日々において、 主の御前(みまえ)で、敬虔(けいけん)に、 正しく。 
76. 幼子(おさなご)よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前(みまえ)を先立って行き、その道を備え、 
77. 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。 
78. これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙(あけぼの)の光が、いと高き所から私たちに訪れ、 
79. 暗闇と死の陰(かげ)に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」 



第Ⅲアドベント礼拝メッセージ 

2025年12月14日

ルカの福音書1章67-79節 
「ザカリヤの賛美」


 かつて私はこの時期になりますと、毎年のどをつぶし、ガラガラ声になっていました。ゴスペルのコンサートに出演し、声を張り上げて歌い、のどを駄目にし、声が出なくなっていました。 お医者さんに診てもらいますと、「しゃべらないことが一番の薬ですよ、しゃべっちゃだめですよ」と言われるのですが、職業柄、クリスマスの時期にしゃべったり、歌ったりしないわけにはいかず、回復まで時間を要しました。  
 クリスマスの聖書箇所にも声を失ってしまった高齢の男性が登場します。バプテスマのヨハネの父親=祭司ザカリヤです。エルサレム神殿の中で、一生に一度の重要な奉仕をしていた時、突然、御使いガブリエルが現れ、「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を生みます」(ルカ1:13)と告げます。しかし、ザカリヤは「この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」(1:18)と答えてしまいます。「そんな突拍子もないことを、どうやって信じろと言うのですか!?」という思いもあったでしょう。 
 御使いは、ザカリヤに「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」(1:20) と告げて、去って行きます。  
 それから約1年間、ザカリヤは声が出なくなりました。一切しゃべることが出来ませんでした。高齢の妻が妊娠している期間中ずっと。イエス様の母となった親せきのマリアが3か月ほど家に滞在していた期間中もずっと。周り中から驚かれ、「ザカリヤ、びっくりだね。本当におめでとう!」と声をかけてもらっても、ただ黙って照れ笑いするしかできませんでした。そして初めての息子誕生と、その喜びが村中に広がった間も、ザカリヤは声が出ませんでした。生まれたばかりの自分の息子にも一週間、声をかけることが出来ませんでした。
  そして1章59節 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。 待望の我が子誕生から一週間経った日のことです。この子に「何という名前を付けるか」を巡って、親せきや近所の人たちが、「お父さんの名前を継いで、ザカリヤにしたらどうか」と提案する中で、お父さんは小さな黒板のようなものに、「その子の名はヨハネ」と書き付けたのです。
 その瞬間、すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた(64節)のです。
  私はこのことを思い巡らす中で、じわじわと感動が湧いて来ました。1年ぶりに声が出せるようになった瞬間、真っ先にザカリヤの口から出た言葉が賛美だったのです。神様をほめたたえる言葉だったのです。「ハレルヤ」だったでしょうか!「主よ感謝します」という言葉だったでしょうか!
  一年ぶりに出せた声、それは「ゴホン」とせきばらいでもなく、「あーいーうー」という発声練習でもなく、「ああ良かった良かった、治った」という自分への語りかけでもなく、「おいエリサベツ、声が出るようになったよ」という報告でもなく、「こんにちは、赤ちゃん。私がパパよ」とヨハネに向けての声でもなく、ただただ神様に向けての賛美だったのです!
  再び声が出るようになったので、ザカリヤは賛美できたというわけではないでしょう! 声が出ない間もずっと、ザカリヤの心には賛美があふれていたのではないでしょうか。長い沈黙の期間、御使いのお告げを心の中で思い巡らして来ました。また聖書の救い主誕生の約束と、その前に道備えをする者が登場することを確認したでしょう。そして今、妻のお腹に宿っている子が、まさに救い主誕生に先立つ預言者となることを知らされ、「ハレルヤ、アーメン、感謝します」という思いで満ちていった。だからこそ、開口一番、神様をほめたたえることができたのではないでしょうか。
  私たちの日々の歩みはどうでしょうか? 私たちの内にある思い、出てくる言葉は何でしょうか? この時期になりますと、スーパーや色々な所で賛美歌がBGMとして流れています。クリスマスの賛美歌です。うれしくなります。「知ってる!知ってる!」と、自然に「も~ろびと~こぞりて~」と歌い出したくなります。けれども、アドベント・クリスマスの期間だけでなく、いつも心に神様への賛美を、いつもくちびるに神様をほめたたる歌を私たちは保ち続けていきたい。ザカリヤの開口一番の賛美を、私たちも同じように歌っていきましょう。朝、目覚めた瞬間にまず! 


  前置きが長くなりましたが、ザカリヤの賛美を見て行きましょう。「ほむべきかな」のラテン語「ベネディクトス」という呼び名で知られている賛美です。これは、賛美であり、同時に聖霊に満たされたザカリヤによる預言でした(67節)。神様の約束が果たされること、この子ヨハネが紹介する真の救い主によって、人類に救いがもたらされることをザカリヤは聖霊に示され語ったのです。
ザカリヤの賛美また預言から、三つのことに気付かされ教えられます。


 1. 「私だけの幸せ」という小さな喜びをはるかに上回る「全世界・全人類にもたらされる壮大なスケールの幸せ」を見つめ、この救いをお与えくださる偉大な神様をほめたたえています。


 「やったー、待望の子どもが与えられた!これで我がザカリヤ家も次の世代に祭司の家系を継承できます。神様、感謝します。ハレルヤ!」そんな賛美をしても良いのでしょうが、ザカリヤはもっと大きな視点で、神様のみわざを仰ぎ見、賛美しています。

68, 69節
 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。」  

我が民・我が国・この世界に、主なる神は救いをもたらしてくださる。しいたげられ、苦しめられ、助けを呼び求めている人々を神様は決して忘れてはおられない。罪の中に沈み、悩み苦しんでいる人々を贖い出してくださる。  

バッファローの角のように力強い救い主をダビデの子孫として立ててくださる。また祭壇上の四隅にある角に、祭司はいけにえの血を塗り、イスラエルの人たちは、自らが犯した罪を「どうか神様、お赦しください」と祈り求めて来た 。

レビ記4章
32. 罪のきよめのささげ物のために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来る。
33. その罪のきよめのささげ物の頭の上に手を置き、全焼のささげ物を屠る場所で、罪のきよめのささげ物としてそれを屠る。 
34. 祭司は罪のきよめのささげ物の血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す。 

真の救い主は、ご自分の血を流し、いのちを犠牲として、ほふられた神の子羊となって救いを成し遂げてくださる。ザカリヤは、このように主なる神様が成し遂げられる私たち人類のための救いを預言したのです。


 2. 約束されたことを必ず確実に果たされる神様の真実さ・誠実さ・すばらしさをザカリヤは、ほめたたえています。


70, 72, 73節、 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。   

先週ともに見ましたマリアの賛美の中でも「私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」(1:55)とありました。

ザカリヤも同じように、救い主誕生は、はるか昔から神様がご計画され、預言者たちの口を通して、その約束を与えてくださっていた。アブラハムと結ばれた祝福の契約・救いの誓いを、神様は何があっても実現される。それは私たちに対する真実な愛・誠実な愛のゆえなのだ、なんて素晴らしい神様なのだろう!ザカリヤは感激し、主をほめたたえます。 


 3. 真の救い主が来られる! それに先立って、この子ヨハネを用いてくださる。何と光栄なことでしょう!主よ、ありがとうございますと、主を賛美しています。  


ザカリヤはこれから来られるイエス様を預言しました。そしてイエス様によってもたらされる「救い」が何であるかを預言しました。 

 71節 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。

 この箇所だけを見ますと、敵は人間のような、また敵対する民族や国家のようなイメージを抱いてしまいますが、続く箇所を見ますと、私たちの真の敵が見えて来ます。 

 77節 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。 
 78. 79節 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」  

私たちの本当の敵は、私たちの内側にある罪なのです。そして罪へといざなう悪魔です。罪の中に沈み、本当の平安や喜びを失っている絶望状態:暗闇と死の陰が、私たちの敵なのです。 

 そこから私たちを救い出し、生かしてくださるために、朝日のような光で私たちの暗闇を打ち破ってくださるために、イエス様は来られる。ザカリヤはそう預言しました。バプテスマのヨハネも、「罪を悔い改めなさい」と人々に迫り、その罪を洗いきよめてくださる真の救い主イエス様の方に、人々の心を向かわせていくのです。 

 私たちを救ってくださる神様のあわれみ深さを体験し、このあわれみを受け取ってていく時、私たちは、神様との関係が断絶から平和へと変えられ、「恐れなく主に仕えるようにして」(74節) いただけるのです。 

 私たちもこのような大きな視点を与えられ、神様の誠実さ、偉大さ、あわれみ深さを知らされ、大きく賛美をささげていきたいと願います。 


 最後に今回、ザカリヤの体験を思い巡らす中で、気付かされたことを皆さんとお分かちします。それは、私たちもザカリヤと同じ体験をさせて頂けるいうことです。この気付きが与えられ、私は本当にうれしくなりました。 

 私たちも、いつの日か必ず声を失い、話せなくなる日が来ます。それでも、次に声が回復した瞬間、その時からずっと、神様をほめたたえ続けていくのです。  

いつのことか分かりますか? 私たちの死と天国での復活の瞬間です。この地上で息を引き取る時、私たちはもうしゃべることができなくなります。神殿でのザカリヤのように、舌が固まってしまうでしょう。  

けれども、そこから始まるのです。次に目覚めた瞬間、主イエス様の御顔をこの目でしっかりと仰ぎ見、イエス様の本当にやさしいまなざしに見つめられながら、その瞬間から私たちはイエス様を・父なる神様を・聖霊なる神を、三位一体なる神様をほめたたえるのです。御使いたちと、全世界から呼び集められた聖徒たちと共に永遠に。声が回復された瞬間、神様をほめたたえたザカリヤのように、私たちもそうなるのです。 

交読したヨハネの黙示録7章に約束されている通りです。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(7:10)私たちは心からの喜びをもって、声高らかに、父なる神と子羊イエス・キリストをほめたたえ続けていくいのです。 

 私たちが普段、礼拝の中で神様をほめたたえるために用いている『聖歌』。この『聖歌』の最後の節(4節や5節など)の歌詞をページをめくりながら順番に味わってみてください。そこには、天国での喜びや期待、イエス様再臨待望の歌詞が多くあることに気付かれされます。

いくつか取り出してみますね。 

聖歌428番「とうとき泉あり」の5節、 

 回らぬ舌もて 歌いぬれど  
栄えの御国に 移されなば  
心ゆくばかり いとも妙(たえ) に  
救いの力を たたえ歌わん


 他にも、聖歌610番「ああイェスきみ、こよなき友よ」の3節、  

最期(さいご)の息 引き取るときも  
汝(な)が声を 聞かまほし   
永遠(とこよ)の朝 覚むるときには  
共に歌わん 御栄えを   
そば近く おらせ給(たま)えや   
そば近く 永遠(とこしえ)に 

 祈りましょう。  



 

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