受難週礼拝説教「私のための十字架」

ルカの福音書 『聖書 新改訳2017』

32. ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。

33. 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。

34. そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

35. 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」

36. 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、

37. 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲(あざけ)った。

38. 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。


受難週礼拝説教

2022年4月10日

ルカの福音書 23章32―38節

「私のための十字架」

 

おはようございます。私たちは、今日から特別な一週間に入っていきます。大切な一週間です。キリスト教信仰の一番の要である「イエス・キリストの十字架と復活」を記念する受難週です。この一週間、私たちは一日一日、主イエス様が味わわれた苦しみと痛みを、しっかりと心に留めて歩んでいきましょう。自ら十字架に進んで行かれたイエス様の思い、その背後で全てを見届けておられた父なる神様の思いを、みことばから教えられながら過ごしていきましょう。

主イエス様は、十字架上から「七つのことば」を語ってくださいましたが、今朝は、その最初のことばに注目します。ルカの福音書23章34節 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

「パッション」という映画があります。聖書に忠実に従って、キリストの受難を描いた映画です。この映画の中では、今まさに、イエス様の手と足に釘が打ち付けられている、そのただ中にあって、イエス様が、この祈りを発しています。痛みの極み、苦しみの極みのまっただ中から、イエス様は、この祈りをささげてくださったのです。

ある牧師は、キリストのこの祈りを、「人類が耳にし得る最高に尊い祈り 」だと語っています。別の牧師は、「人間が生まれて祈ることを覚えてからこのかた、いまだかってこれ以上に神聖な祈りが神にささげられた試(ため)しがない。実にそれは人間の祈りというよりは、むしろ神に対する神の祈りである。自分を殺す者たちの罪が赦されるようにと切に願う。そんなことが人間にできるとは、その時まで夢にも思わなかった 」と記しています。

私たちはこの朝、イエス様が十字架の上から最初に発せられたこの祈りのことばに、しっかりと心を向けていきましょう。イエス様が祈られた「彼らをお赦しください」の「彼ら」とは、いったい誰のことなのか? ともに、みことばから教えられていきたいと思います。

まず、イエス様が死刑を執行される現場に引っ立てられていくところから。23章32節 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。

 十字架という方法で死刑に処せられるため、イエス様は引っ立てられて行きます。現代の私たち、特にクリスチャンは「十字架」ということばを良く使います。「十字架」と簡単に口にします。賛美の中でも「十字架」と歌っています。ある方は、十字架の形のペンダントや携帯電話のストラップを付けていらっしゃるかもしれません。しかし2,000年前、聖書の時代には、そんなことは有り得ないことでした。「十字架」とは、口に出すのもはばかられることば、おぞましいことば、恐ろしいことばでした。

 その時代を生きていたユダヤの歴史家=ヨセフスは、十字架を「最も惨めな死 」だと書き残しています。ローマ帝国の政治家であり哲学者でもあったキケロは、「十字架という考えは、ローマ市民には、知らないものでなければならない。この考えが、ローマ市民の思い、目、耳によぎるようなことはしてはならない」と記しています。十字架刑はローマ市民には決して適用されませんでした。またローマ帝国の本国においても行われず、植民地において、そこで殺人を犯した者や、反乱を犯した者だけに適用される、つまり凶悪な犯罪者に対して見せしめとして課せられる、最も残酷な死刑の方法でした 。

 例えば、あのバラバという人物は、十字架刑に処せられるにふさわしい犯罪者であったと言えるでしょう。イエス様が身代わりとなってくださったゆえに、最初に救われた人物、バラバです。バラバは、エルサレムで暴動を起こし、人殺しをしてしまった犯罪者でした。しかし、イエス様を殺したいと企む人々の陰謀により、バラバは恩赦にあずかり釈放されます。そして代わりに、一つも罪を犯したことのないお方、完全に聖いお方が、有罪判決を受け、死刑に処せられたのです。ゴルゴタの丘の3本の十字架、本来ならその真ん中にバラバが磔(はりつけ)にされているべきでした。けれども主イエス様自ら、十字架に進んで行かれたのです。むごたらしい死を遂げるために、ひとりの死刑囚となってくださいました。痛めつけられ、あざけられ、もてあそばれることを知りながら、イエス様は、犯罪者の立場になってくださいました。

 33節には、その場所が「どくろ」と呼ばれていたと記されています。エルサレムの町の外、城壁の外にあった刑場でした。ヘブル語で「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれていたところです。どくろ=頭蓋骨(ずがいこつ)のような不気味な形をしていたのかもしれません。あるいは、そこには死刑囚たちの残骸、どくろが散乱していたのかもしれません。「死の香り」、「死人の香り」が漂っている悲惨な場所でした。

 最も聖なるお方が、罪人として処刑されたのです。神の御子が「神を冒涜する犯罪者」と訴えられ、裁かれ、処刑されたのです。これは完全なる冤罪(えんざい)事件でした。人間的に見るならば、100%間違った判決であり、100%間違った処刑でした。

 イエス様を十字架に磔(はりつけ)にした張本人、聖書は33節で「そこで彼らはイエスを十字架につけた」と記します。この「彼ら」、イエス様を十字架につけた「彼ら」とは、いったい誰のことでしょうか? 

① イエス様の両手・両足に太い釘を打ち込んだローマ軍の兵士たちでしょうか?

② それとも、ピラトの法廷で、この男は「有罪だ」と訴えた祭司長たち、また国の指導者たちのことでしょうか?

③ あるいは、「十字架だ!この男を十字架につけろ!」と、ピラトに向かって叫び続けた民衆たちでしょうか?

④ または最終的に判断を下したピラトでしょうか?

「彼ら」・・・このキーワードが、続くイエス様の祈りにも出てきます。34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イエス様は苦しみの極限から声を振り絞って祈られます。「父よ」いつも密接な交わりをもっておられる親しい「父なる神」に、私の切なる願いを聴いてくださいと呼びかけるのです。その願いとは何だったでしょうか? この苦しみ、痛みから解き放ってください、助けてくださいという祈りだったでしょうか? そうではなく、自分のことをねたみ、苦しめる「彼ら」のために祈られたのです。ご自分を十字架に至らせた者たちのための、とりなしの祈りでした。

「彼ら」の罪を赦してください。「彼ら」に及ぼされる罪の報い、刑罰から、彼らを救い出してくださいとの祈りでした。イエス様の切なる願い、真剣な祈りでした。

十字架上でこんなにも尊い祈り、こんなにも聖い祈りがささげられていた。それにも関わらず、十字架の下にいたほとんどの人たちには、イエス様のこの祈りが心には入って来ませんでした。この祈りを理解できませんでした。世界で最も聖いお方、最も尊いお方を抹殺(まっさつ)してしまっているというとんでもない罪を今、自分が犯していることに気付けないでいました。「彼らをお赦しください」との祈りを聞いても、「赦される・・・なんじゃそりゃ?」と、罪意識のかけらすら感じていなかったと思います。

「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」その通りでした。

イエス様の十字架の一番近くにいたであろうローマ軍の兵士たちは、イエス様ご自身よりも、イエス様が身に付けていた着物に夢中になっていました。彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。 誰が、この男の肌着を手に入れるか、彼らはくじをひいて、わいわい楽しんでさえいるようです。ヨハネの福音書の十字架の箇所を見ますと、イエス様は大変高価な肌着を着ておられたことが分かります。「また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった」(ヨハネ19:23)。イエス様の弟子の誰かが、イエス様にささげた肌着だったのかもしれません。あるいはお母さんマリヤが、精魂込めて織ったものであったかもしれません。

 

兵士たちの目には、その肌着、高価な肌着しか映っていませんでした。神の御子、救い主が、今、彼ら=人々の身代わりに死のうとされているのに。歴史を揺るがすこの大きな出来事が、今、頭上で起きているのに、彼らは1枚の肌着に夢中になっていたのです。その姿は、千年前のダビデによって預言されていました。先ほどした交読した詩篇22篇18節の通りです。

 彼らの姿は、私たちの姿を表しています。この世のものにすぐに夢中になってしまう私たちの姿です。十字架の真下にいながら、そこに付いてくださったお方を無視している。そして下ばかり、この世のことばかりに熱中してしまう私たちです。物質的なもの、目に映るもの、私たちの生活を快適にしてくれるもの、お得な情報、ポイントがたくさんたまる方法、そんな欲求を満足させてくれるもののとりこになってしまう私たちです。

別の人たち、民衆はどうだったかと言いますと、35節に「民衆は立って眺めていた」人びとは傍観者になっていました。キリストの十字架を目の前にしても、無関心、無感動でいられる、何にも感じなくなっている彼らの心です。私たちも、もしかしたら、そんな無関心、無感動な心になってはいないでしょうか?

さらにひどいことに、国会議員や兵士たちは、痛み苦しむイエス様をどん底に叩き落とすべく、キリストをののしり、あざけるのです。 議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分

を救ってみろ」と言ってイエスを嘲(あざけ)った。

「ざまあ見ろ、お前は詐欺師だ、ペテン師だ」彼らは、そんな軽蔑の言葉でイエス様をあざけるのです。

加藤常昭という牧師がいます。神奈川県の鎌倉で長年伝道をして来られた牧師です。加藤先生は、ルカの福音書の説教集の中で、この箇所をこう解き明かします。

「自分が死に直面している土壇場において、自分を救うことができないような救い主、その救い主がまことの救い主として通用するのか。私は人々のこのあざけりには、意味があると思います。おそらく私がこれらの人々に立ちまじっていたならば、同じことを言ったかもしれません。いや、少なくともこれらの人々の言葉を聞いた時、もっともだと思い、反論ができなかったのではないかと私は思う 。」

キリストの復活がまだ見えていない、この十字架の場面、私もそこにいたなら死に行く救い主など認められなかったでしょう。このお方に絶望してしまったかもしれません。

では、聖書が語っているところの「彼ら」とは誰のことでしょうか? イエス様を十字架に磔(はりつけ)にした張本人とは誰なのでしょうか? それはローマの兵士たちであり、祭司長、議員たちであり、民衆であり、ピラトでした。そして忘れてはいけないことは、その時代の「彼ら」と同じように、今も罪を犯し続け、自己中心で、この世のものにいつも目を奪われ、キリストの十字架に無関心に歩んでいる、そしてイエス様を信じ切れていない私たちも、この「彼ら」と同じなのだということです。

「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」(Ⅰコリント15:3)このみことばを裏側から見るならば、私たち人間の罪が、イエス様を十字架の死へ追いやったということです。私たちが、イエス・キリストを十字架に磔(はりつけ)にしたのです。どうしようもなく、みじめで憐れな私たちのためにイエス様は祈ってくださいました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」 この「彼ら」の中に私がいる。「彼ら」のど真ん中に私がいるのです。イエス様を十字架に追いやり、痛めつけ、イエス様をののしっている、イエス様の十字架など我関せずという生活をしている、そしてこの世のものに夢中になっている、そんな私の罪のために、イエス様は、ここまで苦しまれたのです。

自分が何をしているのか分かっていない。罪を犯しているのに、そのことに気付けないでいる。そんな私たちのために、イエス様はご自分のいのちをささげてくださいました。十字架上のイエス様は、やろうと思えば、そこから脱出することは簡単にできたでしょう。苦しみから脱出することは、いともたやすいことだったでしょう。けれどもイエス様は、十字架の上で、決してご自分を救おうとはされなかったのです。他人を救うこと、私たちを救うことに徹してくださいました。

議員たちがあざ笑って言った「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」これは、真理の一面を語っていると思います。神の御子は、他人を、私たちを救うために、ご自分を救おうとはされなかったのです。ご自分を救おうとは、決してなさいませんでした。 ― これが十字架です。これこそ十字架です。 -

「父よ。彼らをお赦しください」この祈りは、本来、私たちが祈らなければならない祈りです。「父なる神様、私の罪を赦してください。私を憐れんでください」と。けれども、この時イエス様は、まだそうは祈れないでいる「彼ら」のために、罪責感のかけらすら感じないでいる「彼ら」のために、彼らに代わって、必死に祈ってくださいました。

そして今も、イエス様は、この祈りをし続けてくださっています。天にあって、私たちのために、父なる神様にとりなしの祈りをし続けてくださっているのです。ヘブル人への手紙7章25節に「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられる」とあります。

私たちはみな、神様の御前にあっては、とんでもない負債を負っている罪人です。どうしようもない私たちを救い出してくださるために、神様は、ひとり子をこの世に送り、私たちに代わって、このお方を処刑するという、とんでもない方法で、とんでもない恵みを、私たちにもたらしてくださいました。

今朝、私たちはもう一度、ひれ伏して、キリストの十字架の前に進み行きましょう。 ひざまずいて、主の十字架を見上げましょう。そして、キリストによる本当の救い、本当のいのちを、しっかりと信じて、受け取っていきましょう。

十字架上でのイエス様の最初のことば。「父よ。彼らをお赦しください」この祈りの「彼ら」とは、私自身なのだ、私のために主は苦しまれ、死んでくださったのだ。キリストの祈りを、毎日の私自身の祈りとさせていただきたいと願います。

「父よ、私の罪をお赦しください。」

祈りましょう

父なる神様、どうか私たちの日々のつたない祈りを、天上でのイエス様のとりなしの祈りに近づけてください。自らの罪を悔い改め、神様からの赦しを受け取ることができますように。そして他の人の失敗や罪を赦すことができますように、私たちを導いてください。

みことばへの応答

Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。

1. イエス様の十字架からのみことばが、あなたの心にどのように迫って来ましたか?

2. キリストの十字架を忘れてしまわないように、あなたに求められていることは何でしょうか?

お祈りの課題など

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