「ふさわしい者とは?」

聖餐礼拝メッセージ

2022年4月3日(日)

コリント人への手紙 第一 11章17-34節

「ふさわしい者とは?」

 おはようございます。福井市に引っ越して来まして、市が指定したゴミ袋を買いました。ゴミ袋の表面に色々と説明が書かれてあるのですが、その中に「おとましい」を「行動」へ、という目標のようなキャッチコピーが記されてありました。皆様、ご存知ですよね。私は他県から来ましたので、「おとましい」という言葉の意味が分かりませんでした。インターネットで調べてみますと、「おとましい」は「もったいない」という意味なのですね!合っていますか? これからも初めて聞く言葉、たくさんの福井弁と出会えるのでしょうね。皆さん、どうぞお手柔らかに、少しずつこの地での生活の仕方と、言葉遣いを教えてください。

「おとましい」と同じように、「ふさわしい」という言葉も、とらえどころのない言葉であるように感じます。場をわきまえた言動といった意味もあるでしょうか。他ににも、「あの人こそ社長になるのにふさわしい」というように、「適切な」という意味もあるでしょう。しかし人によって「ふさわしい」と感じるものの見方は異なっているようにも思います。そして今朝、与えられたみことばにも「ふさわしい」が出て来ます。みことばの言う「ふさわしさ」とは、どのようなものでしょうか?

第Ⅰコリント11章27節、「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」

この箇所、以前の新改訳聖書では、こうなっていました。「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」

このみことば=「ふさわしくないままで」が、聖餐式の際に牧師から語られるたびごとに、私は恐れを覚えて来ました。洗礼を受けて、クリスチャンとなっていましたが、心の中には、神様の前に恥ずべき罪があり、そこから抜け出せないと感じていました。そのため「ふさわしくないままで」と聞くたびに、私はいたたまれない思いになりました。「私は聖餐式にあずかるには、ふさわしくない・・・」と思いました。「こんな自分が、パンとぶどう液を受けてはいけない。これを食べることは、罪を犯すことになるのではないか・・・」と不安になりました。

聖餐式は本来、神様から罪赦されていることを確認する恵みのときであるはずです。けれども「ふさわしくないままで」という言葉にひっかかっていた私は、聖餐式を恵みとして受け取ることができませんでした。

皆さんは、いかがでしょうか? このみことばが語られると「苦しい、心が痛む」という方がいらっしゃるのではないでしょうか?

では本当のところ、聖書がここで語っている「ふさわしくないままで」とは、どのような状態なのでしょうか? 反対に、「ふさわしさ」とは何なのでしょうか?

この手紙の宛先、教会があったコリントという場所は、現在のギリシャの首都アテネの西にあった町です。その町の教会では、「パウロにつくか」それとも「アポロにつくか」と、どのリーダーに従うかという分裂・分派が起きていました(3:3,4)。また、教会員がスキャンダラスなこと=性的な罪を犯していたり(5:1)、さらにイエス様の復活を否定する人たちまでいました(15:12)。私たちには想像もつかないような滅茶苦茶な教会でした。コリント教会が抱えていた問題は、どれも深刻でした。

パウロは、このコリント教会を建て上げた人でした(使徒18章)。この教会を心底、愛していましたので、コリント教会を見捨てませんでした。教会が、イエス様の福音に立ち返り、神様に喜ばれる教会となるようにと真剣に祈り、この手紙を書きました。

11章では、コリント教会が集会・礼拝において混乱していると聞き、悲しみ、心配しながらメッセージを伝えます。17節で「ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。」と、教会がとんでもない状態になっていると聞いているよと、パウロは語ります。それは18節の「まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。」とあるように、一つの教会になることができない現実でした。しかも、

20節以降を見ますと、「主の晩餐」=今、私たちが行っている聖餐式のせいで、教会に分裂が生じていたのです。20節から22節まで、「しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。」

このみことばを理解するために、私たちは当時の教会の聖餐式のあり方を知らなければなりません。当時の聖餐式は、家庭集会のような集まりの中で(まだ教会堂という専用の建物は無かったので)、みんなで夕食を取り、そのあとすぐに行なわれていました。クリスチャンたちは、毎週日曜日集まる時、食べ物を持ち寄り、みんなで食べました。この食事は愛餐会と呼ばれたり、アガペーと呼ばれていました。その名の通り、裕福な人たちが、たくさんのおかずやパン、飲み物などを持参し、貧しい人たちと分け合う愛の業でした。イエス様からはかり知れない大きな愛を受けた人が、今度は、その愛を他者に分かち合う。自発的で喜んでささげる愛が初代教会にはあったのです。そして愛餐会からパンを裂く聖餐式へと導かれていったのです。

 けれども、時が経つにつれ、また場所がエルサレムからコリントへと移っていく中で、初代教会のうるわしい精神は、すたれていきました。コリントの教会では、愛餐会が、めいめい我先にと自分の食事を済ませる場となっていました。みんなが満腹して楽しむどころか、空腹な者もおれば、酔っている者もいるという始末でした。

 貧しい人たち、特に当時の奴隷たちは、夜遅くまで労働を強いられ、教会の集まりに遅れて来ざるをえませんでした。まだ社会がキリスト教化されておらず、日曜日も休日とはなっていない時代です。そんな貧しい人たちを待たずに、裕福な人たちは、自分たちが持ってきたごちそうを完食していたのです。ぶどう酒でもう酔っ払っている者までいました。そんな中に、一日の過酷な労働を終え、お腹をすかせた貧しい人たちが何も持たずにやって来ます。愛餐会の恵みにあずかれると期待して、教会に来た彼らの前には、何と、食べつくされたお皿と、飲み干されたぶどう酒の入れ物が置かれてあったのです。「食べ物の恨みは恐い」と言いますが、このような状況では、貧しい人たちと裕福な人たちの間に一致が見られるはずがありません。この世の力関係がそのまま教会内に反映していたのです。弱い者が無視されている教会の現状でした。

 イエス様が与えてくださった尊い儀式が、不適切に、おざなりにされていたのです。そして、聖餐式を大事にしないことが、教会に分裂をもたらしていたのです。

 使徒パウロは、主の晩餐=聖餐式は、コリント教会が行っているような「ただの飲み食い・宴会」ではないと語ります。聖餐式は、もっと尊いもの、もっと神聖なもの、もっと畏れ多いものなのです。そしてパウロは、コリントの教会員に向けて戒めの言葉を発します。27節です。「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」

 これまでの文脈を踏まえながら考えますと、ここで言われている「ふさわしくない仕方で」とは、貧しい人たち、弱い人たちのことをかえりみない、愛のない態度や、その態度がもたらすあり方ではないでしょうか? イエス様の愛を無視した歩みと言っても良いかも知れません。自分は、食べることができる。でも他の人のことなんて知ったこっちゃない。そんな態度、そんなあり方です。

それは、ご自身の尊いいのちを犠牲にして、私たちを救い出し、そしてご自身のからだなる教会に人々を呼び集め、一つにしようとされているイエス様の心を完全に無視することなのです。

こんな状況では、皆で一つ心になって共に教会を建て上げていくことなど不可能でしょう。ひどい有様を耳にし、パウロは22節で、「あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか」と怒りをあらわにします。教会の集まりが、キリストの愛から離れ、自己主張をしあう場となっていました。教会の聖餐式がイエス様の愛の正反対のような状況に置かれていました。聖餐式を大事にしないことが、教会に分裂をもたらしていました。

パウロは、コリント教会に「本来の聖餐式の姿に立ち返ってほしい」と、まず主イエス様が聖餐式を与えてくださった時のことを語ります。原点に戻りなさいと奨めます。23から26節です。私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

イエス様はパンを裂き、弟子たちに与えてくださいました ― 私たちは、聖餐式でパンを見るたびごとに、そのパンを口にいれ、味わうごとに、このパンのように、十字架上で引き裂かれたイエス様のみ苦しみを思い出すのです。そして、そのみ苦しみが私の罪のためであったこと、私の身代わりにイエス様が苦しまれたことを覚えます。

続いてイエス様は、杯を弟子たちに与えてくださいました ― 私たちは、聖餐式でぶどう液が入った杯を見るたびごとに、それを「ごくん」と飲み干し、味わうたびごとに、イエス様が十字架上で流された尊い血潮を思い起こします。罪深い私をきよめてくださるために、私の罪を赦すために、イエス様が血を流してくださったことを、確認するのです。

パウロは主の晩餐=聖餐式は、あなた方が今行っているような「ただの飲み食い・宴会」のようなものではないと言います。聖餐式は、もっともっと尊いもの、もっと神聖なもの、もっと恐れ多いものなのです。

そんな態度で集まっても意味がない。益になるどころかかえって害だと、パウロは強い口調で訴えます。教会が聖餐式を粗末にすることは、聖餐式が表しているイエス様のみからだと血潮を冒涜することです。これが罪でなくて何でしょうか? 十字架に架かって、命を捨ててまで、私たちを救おうとしてくださったイエス様を悲しませることではないでしょうか? パウロはだからこそ28節で、「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」と勧めるのです。自分の心の中に愛とは正反対の思いが無いだろうか? 私は、キリストの愛によって生かされているだろうか? そのように自分自身を深く見つめ、聖餐式に臨んで欲しいと、みことばは迫って来ます。

続けて、この「ふさわしくない」ということに関して、宗教改革者のカルヴァンが記している言葉に耳を傾けてみましょう。『キリスト教綱要』という本の中で、カルヴァンは、こう語っています。

「我々が己(おの)れ自身から己れの『ふさわしさ』を求めねばならぬということになるならば、我々はもう駄目」である。「結局、『ふさわしく』あることを求めて、極限までの努力がなされたすえ、我々が最も『ふさわしくない』ものとなるのが落ち着く先である。」

人間の努力によっては、神様の前に「ふさわしく」あることはできない。反対に、自分自身の罪深さ、惨めさを知るだけだというのです。そしてカルヴァンは、こう続けます。

真の意味の「ふさわしさ」とは、人間が自分自身で作り出す功績ではなく、神ご自身がその憐れみによって、我々をふさわしい者としたもうことである。したがって、もし何らかの意味で強いて「ふさわしさ」を言うとすれば、我々自身の「ふさわしくなさ」自体を神に差し出すこと以外に無い

カルヴァンのこの主張を読みながら、本当にその通りだなあと思いました。神様の御前における「ふさわしさ」とは、自分が神様の御前で「ふさわしくない者であること」を認めることなのです。具体的には、自分自身に絶望すること、主の御前に徹底的にへりくだることです。

先ほど交読したみことば、イエス様の「取税人とパリサイ人の祈り」のたとえ話を思い出してみましょう。自分こそ義人だ、神様の前に「ふさわしい者だ」と自負していた宗教家=パリサイ人がいました。彼は祈りの中で、自らの正しさを主張し、「私はあの取税人のようではないことを感謝します」と言い放ちます。

それに対して取税人。当時、取税人は、ユダヤを植民地支配していたローマ帝国のために税金を徴収していました。ユダヤ人たちからは、「売国奴」だと嫌われていました。取税人は、ローマ帝国の権威を振りかざし、決められた税額以上を奪い取り、私腹を肥やしていました。多くの人たちの人生を踏みにじり、苦しめて来ました。

この取税人は、神殿の中央まで進むことができず、入口付近で、うつむいて自分の胸をたたいて言います。「神様、罪人の私をあわれんでください」

自分の「ふわしくなさ」を徹底的に知らされていた取税人でした。このどうしようもない自分は、自力では決して救われ得ないことを知っていました。ただただ神様の憐れみにすがる他ないことを、嫌というほど知っていた人物でした。

イエス様は、このたとえ話を締めくくるにあたり、「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人(取税人)です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と語ってくださいました。つまり神様の目には逆なのです。人間の物差しとは逆なのです。「自分こそ、聖餐式を受けのるにふさわしい」と傲慢な思いを持っている人は、「ふさわしくない」のです。反対に、「自分なんて、聖餐式にあずかれない、本当にふさわしくない人間だ・・・」。そう自覚している人こそ、神様の目にはふさわしいのです。

 私はこのことを知ってから、聖餐式にあずかることが喜びとなりました。こんな「ふさわしくない」自分を救ってくださるために、イエス様は十字架に架かって死んでくださった。その事実を、深く感動をもって受け止める時に変わりました。

今朝、皆さんの中で自分は聖餐式を受けるのに、ふさわしくないと感じている方はいらっしゃいませんか。そのような方こそ、ぜひこの朝、勇気をもって聖餐式にあずかってください。イエス様はそんな私たち、信仰の弱い私たちのために目に見える聖餐式を用意してくださったのです。私たちは聖餐式のたびごとに、ふさわしくない自らを、正直に神様の御前に差し出します。そして、そこからイエス様の十字架を見上げていくのです。そこから、主イエス様にすがって歩んでいくのです。自らの「ふさわしくなさ」を自覚しながら、イエス様の赦しにより頼む私たちでありたいと願いします。

お祈りします。

みことばへの応答

Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。

1. これまで聖餐式の際に、牧師から「ふさわしくないままで」と告げられた時、どのような思いになりましたか?

2. 神様の前での本当の「ふさわしさ」とは、自らの「ふさわしくなさ」を正直に認めることだ。そのように理解する時、聖餐式に臨む思いがどのように変わっていくでしょうか?

お祈りの課題など

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