「愛を表すささげもの」

使徒の働き5章 

  1.   ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、 
  2.   妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。 
  3.  すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。 
  4.   売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 
  5.   このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。 
  6.   若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。 
  7.   さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。 
  8.   ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。 
  9.   そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」 
  10.   すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。 
  11.   そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。


 

礼拝メッセージ 

2022年8月28日 

使徒の働き 5章1―11節 

「愛を表すささげもの」 

  おはようございます。小学生の夏休みは、今日が最後です。親である私にとっては40日間の修行のような日々でした。毎日三食用意し、「ちゃんと宿題をしなさい。終わらないよ!」と、だらけている子たちを叱ってばかりの日々でした。そんな夏、以前おりました教会の信徒の方々から、お便りや果物などが届き、本当に励まされました。 

  今朝は、神様への贈り物、兄弟姉妹への贈り物ということをみことばから見ていきます。反面教師としてのアナニアとサッピラ夫婦事件です。使徒の働き5章は「ところが、」という不穏な出だしで始まります。4章終わりには、初代教会がうるわしい交わりを築いていたことが記されてありました。なかでも「慰めの子」と呼ばれていたバルナバのように、土地や財産を売り払って、すべてを神様にささげる人たちがいました。最初のクリスチャンたちは、心と思いを一つにして、互いのために自らをささげ合っていたのです。 

 ところがアナニア・サッピラ夫婦は、良い行いを悪用し、名声を得ようと企んだのです。「あのバルナバのように教会で高く評価されたい、皆からほめられたい」と考えました。持っていた不動産を売却し、売上金を教会にささげようとするのですが、売上金の一部だけ持って来て、「全てをおささげします」とうそをついたのです。たくさんの不動産を持っていたのでしょう。売却したら、かなりの金額となりました。それをみすみす全部ささげるなんて、もったいない・・・教会に献金したって、結局は貧しい人たちの手に渡ってしまう。それなら代金の一部は、自分のもとにしまっておこう。でも、教会のみんなから賞賛を受けたい。だから「私たちは土地を売って、全てをささげました」と言おう。夫婦はそう企んで、ペテロのもとにやって来たのです。 

  ペテロは、アナニア夫婦のごまかしに気付きました。聖霊の力に満たされていたペテロは、主から彼らの罪を示されたのでしょう。2人のごまかしを厳しく糾弾します。5章の3,4節 

3. すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。 
4.売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 

  アナニアとサッピラは、それぞれ神様に打たれ、命を取られます。どうして、そのような厳しいさばきにあったのでしょうか? その答えが上のペテロの言葉に示されています。 アナニアたちが犯してしまった一番大きな罪は、神様を侮(あなど)ったことでした。サタンに心奪われ、聖霊を欺いたのです。教会にささげる献金。それは神様におささげする聖なるものであり、尊いものであることを、彼らはいい加減に考えました。アナニアたち、最初はすべてをささげようと考えていたはずです。善意から、信仰から始まった献金だったでしょう。けれども実際に土地を売り、現金の山を目の前にした時、彼らの心は激しく波打ったのです。「全部ささげるなんてもったいない、これは自分のものだ、自分たちのために取っておこう」という思いに支配されました。金銭に対する執着心・欲望に、サタンは巧妙に働きかけてきたのです。 アナニアとサッピラは、サタンの誘惑に簡単に乗ってしまい、教会員みなの前で、「全てをおささげします」とうそをついたのです。「このことは誰も知らない、隠し通せる」と考えたでしょう。けれども彼らの行為は、教会の主=イエス様を欺く行為だったのです。彼らは全知全能なるお方を軽んじ、侮ったのです。 

 この事件が起こったのは、初代教会がこれから主だけを信じ、主だけに従っていこうとしていた矢先でした。もしも、このままアナニアたちの企みが成功していたら、同じような偽善が、教会で横行していったでしょう。ずる賢い人や自己顕示欲の強い人が、教会で力(ちから)を持っていくことになるでしょう。教会にとって最初の危機に主ご自身が、直接介入してくださったのです。 

 アナニアたちの罪は、主イエス様を侮ることと同時にキリストの体なる教会を侮ることでした。初代教会は、主のために、兄弟姉妹のために必死でした。特に教会の中の貧しい仲間のために、弱さを抱えている仲間のために、困難な中を生きている仲間ために、教会は良い心と思いで一致していました。互いにささげ合い、支え合っていました。 それに対して、アナニアたちの行為は、キリストの愛にあふれたこの共同体を軽んじ、破壊するものでした。アナニア夫婦は、名誉欲と金銭欲で、悪い心と思いを一致させ、企み、実行したのです。神様を侮り、神の家族なる教会を侮った。この罪に対して、神様は激しくお怒りになったのです。 

  私は、アナニアたちの罪を見ながら、同じような出来事が旧約聖書のヨシュア記にも記されていることに気付かされました。ヨシュア記7章に出てきます「アカンの罪」です。よく「アカンがあかんことをした・・・」と言われたりする人物です。出エジプトを果たし、これからヨシュアに率いられ、約束の地を獲得しようとしていたイスラエル人の中にアカンがいました。大勝利のうちにエリコの町を獲得し、次はアイという町の番でした。この戦いにおいて神様はイスラエルの兵士たちに、その土地のあらゆるものを滅ぼし尽くしなさいと命じられます。聖書には「聖絶」という言葉で表現されています。それは、イスラエルの民が、獲得した土地で異性や金銀、家畜などに心奪われ、主なる神様を軽んじることのないようにするためでした。またその土地ではびこっていた偶像礼拝に心奪われないためでもあったと思います。 

 アイを攻略する際、主から「全部聖絶せよ」と命令があったのです。けれどもアカンは、アイの町にあったきれいなコートや、金の延べ棒や銀を見て欲しくなり、それらをこっそりと盗んで、隠し持っていたのです(ヨシュア記7:1,21)。そして、この一人の男の罪ゆえに、イスラエルは、この時の戦いで大敗北をきっするのです(7:4,5)。 

  インマヌエル高津教会の藤本満先生が、『祈る人びと』という著書の中で、アカンの罪を次のように説明しておられます。

  三千人の兵士の中で、アカン一人が欲に駆られてこれらのものをテントに隠し持っていたのです。ここで大切なことを心に留めなければなりません。神を侮って罪を犯したのは、アカン一人でした。しかしヨシュア記7章11節を見ますと、「イスラエルは罪ある者となった」と非難されています。イスラエル全体が一つの身体のようにみなされているわけです。一つの身体であるときに、手が罪を犯したとき、足はそれを知らないとは言えないのです。この手が悪い、私には関係ないとは言えません。アカンの罪は、身体全体に影響しました。 
 これは、キリストの身体である教会にも当てはまるでしょう。アカンの罪は身体全体に影響を及ぼすのです。もちろん、後を見れば分かりますように、この罪の裁きを受けるのはアカンです。しかし彼の罪は、身体全体に大きくひびきました。私たち一人一人が集まってキリストの身体を形成するとき、この記事ほど身の引き締まる思いがする聖書箇所はありません。私一人の罪は、私一人のものではなく、身体全体に影響を及ぼします 。 
藤本満『祈る人びと』(いのちのことば社、2005年)pp.172,173。


  アカンの罪・アナニアとサッピラの罪、それは群れ全体に大きな悪影響を及ぼすのです。この事実は、私たち教会にとっても同じです。私たち一人ひとりの歩み、私たち一人ひとりの信仰が、教会の歩みを決める大事な要石(かなめいし)です。そういった霊的緊張感を保っていきたいと思います。 

  今朝は、アナニアとサッピラの出来事を通して、神様に喜ばれないささげもの、主を悲しませるささげものの姿勢を見ました。 最後に、では「神様に喜ばれるささげもの」って、いったいどのようなものだろうかを確認したいと思います。 私たちは毎週、礼拝の中で献金をささげます。教会員の方たちは、月ごとに月定献金をささげています。この礼拝自体も、自らを神様におささげする「ささげもの」であると言えるでしょう。私たちは神様から与えられている身体・時間・お金・力・賜物・思い・声など、あらゆるものをもって、神様にささげることが許されています。 私たちのささげものは、強いられて、強制されてするものではありません。したいから・ささげたいから、おささげするのです。私たちのささげものは、神様の計り知れない愛に対する私たちの側からの応答です。私たちの感謝であり、喜びの表れです。主なるイエス様に「どこまでも従いっていきたいです」という献身の表明でもあるのです。 

 神様は、私たちに本当に豊かな恵みと祝福を与えてくださっています。太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。私たちに命を与え、私たちを養っていてくださいます。食べる物・飲む物・着る物のことまで気を配っていてくださり、それらを備えていてくださいます。また家族を与えてくださっています。住む家・勉強できる場所・働くことができる場所も備えてくださっています。 

 もしも、それらのものが無くなってしまうような試練・苦しみがあったとしても、その試練・苦しみをも、神様は私たちに与えてくださるのです。喜びだけでなく悲しみも。健康だけでなく病や痛みも。順調だけでなく逆境や試練の時も与えてくださるのが神様です。私たちを整え、成長させてくださるために、神様は、私たちに本当に必要なもの・最善のものを、いつも与えくださるお方なのです。 

 さらに何よりも大切な宝物を、神様は私たちに与えてくださいました。主イエス様による救いと永遠のいのちです。イエス様の十字架の犠牲によって、今、私たちの全ての罪は赦されていること。そして天国の約束が確かであること。これが一番の恵みであり祝福です。 

 恵みと祝福を豊かに与えてくださる神様は、それを頂いている私たちの側からの感謝と喜びを受けたいと願っておられるお方です。神様への「愛をあらわすささげもの」を待っていてくださいます。 私たちの主は、人格をもったお方です。感情豊かで、私たちと人格的な交わりを持ちたいと願っておられます。血が通った交わりを求めておられます。私たちと語り合い、ともに喜び合い、ともに歩んで生きたいと願っておられるお方なのです。 

 人格的なお方に感謝をささげるとは、どういうことでしょうか? その逆を考えたると、分かりやすいかなと思います。 たとえば、私たちは銀行や郵便局、またコンビニに行き、ATM(現金自動支払機)でお金をおろすことがありますよね。その時、私たちはATMに向かって感謝をするでしょうか? 「ああ、今日もお金を出してくれてありがとう!お礼にいくらか置いておくよ」…そんなことをする人は誰もいないでしょう。反対に、少しでもATMの手数料を安くしようとするのが、私たちではないでしょうか? それはATMが機械であり、人格をもっていないからです。 

  アナニアとサッピラが神様へのささげものを欺いたこと、それは神様のことを人格をもって生きて働いておられるお方とは考えなかったからではないでしょうか。私たちのことをすべて知っていてくださり、私たちを見守っていてくださるお方、そのように神様を人格あるお方だと理解していたなら、アナニアたちは神様を恐れ、神様に対して誠実に臨むことができたと思うのです。 

  神様は、私たちと深い交わりを求めておられます。それは人間の例でたとえるならば、一人暮らしを始めた子どもに、食料品をつめて送るお父さん・お母さんの気持ちに似ているのかもしれません。私も親元を離れた時、実家から送られてくる食料品に本当に助けられました。博多ラーメンやレトルト食品、たくさんのお菓子。母は、面倒くさがりな私のために、簡単に調理できる食材をダンボールにたくさん詰め、手紙を添えて送ってくれました。私は、それに対してお礼の電話をするしかしませんでしたが、それでもやはり母の思いに感謝を表したいと自然に思ったのです。人格的なつながりです。 

  私たちは、神様とそのような人格的つながりを持っているでしょうか? 祝福と恵みを豊かに与えてくださる神様にちゃんと感謝を表しているでしょうか? 真心込めて誠実に、神様に応答していきたいと思います。 

  初代教会のクリスチャンたちは、神様に応答することを喜びました。みことばを聴き、祈り、賛美することが何よりの喜びでした。この喜びを、周りの多くの人たちに大胆に宣べ伝えていました。教会の交わりを大切にしました。イエス様から頂いた豊かな愛に押し出されて、教会の兄弟姉妹のために自らをささげていったのです。貧しさ・弱さを覚えている方々のために、進んでささげていました。私たちも、最初のクリスチャンたちの姿にならっていきたいと思います。

   最後に、神様にささげるとはどのようなことなのか、イエス様が語ってくださったみことばを確認します。交読したマタイの福音書25章31節から40節までです。 ここでイエス様は、神様にささげるとは、兄弟姉妹のために自分を捨て、仕えることだと教えてくださいます。イエス様のためにささげるとは、イエス様の愛をたずさえて、最も小さい者たちの一人に仕えることなのです。イエス様は、そのような私たちの小さな奉仕、目立たない小さなささげものをしっかりと見ていてくださり、それを喜んでいてくださるのです。ささげた本人が、「いつそんなことしましたっけ?」と忘れているような小さきささげものを、イエス様は、「それは、わたしにささげてくれたんだよ」と、我がことのように喜んでいてくださるのです。このような愛に満ちたお方に、私たちは応答していくのです。 

 お祈りします。 


 みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。 


 1. 良いことをしたいと思う時に、サタンの誘惑にさらされたことがあるでしょうか? 



 2. 神様と日々、血の通った交わりをさせて頂くために、私たちに求められていることは何でしょうか? 


 お祈りの課題など  



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