「神の家族のために」

使徒の働き4章 

32. さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。 

33. 使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。 

34. 彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、 

35. 使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。 

36. キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、

 37. 所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。


 礼拝メッセージ 

2022年8月21日 

使徒の働き 4章32―37節 

「神の家族のために」 


 おはようございます。スーパーなどで買い物するたびに「モノの値段」が急に上がっていることに驚かされます。パンも、トイレットペーパーも、どれもこれもです…。また先日、お米を作っておられる方から「米の販売価格が下がり続けていて、しかも肥料は値上がりしているので、大変苦しい…」との思いをうかがいました。消費者にも作り手にも本当に厳しい時代がやって来ました。そのような状況の中で、いや、そのような厳しい状況だからこそ、教会が最初から大事にして来た「互いに分け合う」、「互いに支え合う」というあり方を、今朝みことばから再確認したいと思います。 

 それは、キリスト教会が誕生する以前から、神様が私たち人間に求めておられることでした。交読しましたイザヤ書58章にも、10節に「飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。」とあります。 


  使徒の働きから、最初に生まれた教会の様子を教えられています。ペンテコステの日に誕生した初代教会は、それ以降も聖霊に満たされ導かれて大きく成長していきました。初代教会は教会の「基本のキ」を非常に大切にしました。それは、みことばを守ること、交わりをすること、聖餐式を大切に執り行うこと、そしてよく祈ることでした。  

 また初代教会は、福音のメッセージを大胆に宣べ伝えました。迫害が迫って来ても、恐れずに語り続けました。国家権力から「今後一切、イエスという名を語ってはならない」と禁じられても、クリスチャンたちはひるまずに、力強くイエス・キリストを証しし続けていきました。  

 そして4章32節にありますように、最初の教会は、心と思いを一つにしていました。教会員の心と思いが一つとされていたのです。「主イエス様のために!」、「主の教会のために!」、「神の家族である教会の兄弟姉妹のために!」と、クリスチャンたちは、いつも同じ思いでいました。  

 「教会って、本当にそうでなければいけないなぁ」、「いつも、そうあってほしいなぁ」と強く思います。教会は、自己主張をしあう交わりではないのです。私たちは、教会を「自己実現」の場としてはいけません。自分の主張を通すために、教会はあるのではないのです。 反対に、時に自分を抑えて、ただ主の御心だけが実現していくことを願い求めいくのが教会です。そして教会を通して、人々が救いに導かれ、兄弟姉妹の信仰と愛が互いに高められていくことを求めていくのが、教会です。  

 心と思いを一つにしていた初代教会の信徒たちは、自己主張から解放され、さらに、この世の欲からも解放されていきます。4章32節 「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。」

  「これは自分のものだ」と握り締めることから自由になっていました。自分の財産・自分のお金、それらを「自分のものだ」と握り締め、それに執着する生き方、いや実は、それらに縛られている生き方から解放されていたのです。  

 使徒ヨハネは、手紙の中でこう記します。ヨハネの手紙第一、2章15節から17節、 

15 あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。 

16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。 

17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。 


  初代教会の信徒たちの多くは、世のものを愛してしまう生き方から解放されていたのです。肉の欲、目の欲にとらわれた生き方、暮らし向きの自慢をすること、そんな価値観から自由になっていました。この世の富は、やがては消えて無くなってしまうものです。この地上限りのもので、肉体の死の瞬間、すべてはあなたの手から離れてしまいます。だからこそ、永遠に変わることのない神のみことば、神のみこころを第一に求めることをクリスチャンたちは最高の喜びとしていたのです。

 私たちは、どうでしょうか? 

  初代教会のクリスチャンは、兄弟姉妹のために自ら喜んでささげました。4章34、35節には、

 34彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、 

35使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。 


  教会内の貧しい人たち。生きていくのがやっとの人たち。毎日の生活必需品や食料品を買うこともままならない人たち。弱い立場に置かれている兄弟姉妹のために、教会は必死になりました。そういった方々のことを真剣に考え、行動に移したのです。彼らの必要に気付き、互いに支えあう交わりを築いていきました。 32節の終わりに「すべてを共有していた」と出てきます。「共有」という単語は、「コイノス」という単語です。「コイノーニア」という単語の語源です。「コイノーニア」は教会の「交わり」という意味です。 私たちの交わり=教会の交わりは、いったい、どのようなものなのでしょうか? 

 楽しくおしゃべりすること、近況を報告し合うこと、美味しい食べ物を一緒に楽しむことでしょうか? それもあって良いのでしょうが、それ以上に、私たち教会に与えられている交わりは、「共有すること」、「分け合うこと」です。お互いの欠けているところを補い合うことです。弱さや痛み、悩み・悲しさ・貧しさ、それらを互いに補い合うこと。互いに慰め合い、支え合うことが、教会の交わりの一番の特徴です。 

  前任地の教会で、私はそんな分かち合う交わりを体験して来ました。お一人暮らしをされていた教会員が、年末の雨降る夕方、原付バイク運転中に転倒し、救急搬送されました。その方は信頼する教会員に電話連絡しました。呼ばれた教会員は病院に駆け付け、寄り添ってくださいました。肩を骨折していて、入院生活が始まりました。その方は、ちょうどお仕事を変えるタイミングにあり、無職の状態でした。教会はその方の回復のために祈ると同時に、募金箱を設置して、退院後しばらく安心して過ごせるように、みなで思いをささげたのです。 

 別の教会員はある日突然、住まいを出ざるを得なくなり、持ち物もほとんど失いました。着の身着のままで出て来られ、しばらく教会で寝泊まりされました。その方は、新しい住まいに移るにあたり、生活必需品として「次のようなものがご自宅で眠っていましたら、頂けないでしょうか?」と、リストアップしたメモを教会の掲示板に貼り出されました。瞬く間に、そのリストにあった以上のものが満たされました。 

  この世のつながり、この世の人間関係にはない、特別な「交わり」を、私たち教会は与えられています。この事実を、まず私たちは感謝しましょう。神の家族の交わりが、主のみこころにかなうものとされ、さらに深められていきますように、祈り続けていきましょう。 

  使徒の働き4章36、37節にはバルナバという人物が登場します。やがてアンテオケ教会の牧師として、パウロとともに世界宣教に遣わされていく人物です(使徒13章1節~)。「バルナバ」とは、「慰めの子・励ましの子」という意味のあだ名でした。バルナバは、人と人との関係をやわらげ、人と人を結び合わせる、そんな慰めをもたらす人物でした。 

 私たち福井中央キリスト教会が、互いにバルナバさんとなっていく、そのような交わりとなっていけたら、なんと幸いでしょうか! 互いに主の慰めを祈り合う、互いに励まし合う。相手のために自らをささげていく交わりです。時間や気持ちを相手のために用いていく交わりです。私たち一人ひとりがバルナバさん、慰めの子・励ましの子となっていけたらと思います。 


 聖歌316番に「祝福あれ」という賛美があります。その歌詞を見ますと、 

  1.  祝福あれ  このつなぎに  我らは主にある  兄弟なり 
  2.  同じ神の  前にありて  交わり得るとは  何たる幸ぞ 
  3.  喜びをも  悲しみをも  共に分かちつつ  神に祈らん 
  4.  神にありて  一つなれば  身は離るるとも  涙はなし

 この聖歌の歌詞は、今日のみことばにぴったりだなあと思いながら、この聖歌は、どのような背景で作られたのかと調べてみました。すると、大変感動的なエピソードがありました。 


 ― この聖歌の歌詞を書いたのは、ジョン・フォーセットという名の人物であった。ジョン・フォーセットは、1739年、イギリスの貧しい家に生まれた。現代の少年ならまだ遊ぶことばかり考えている13歳の時に、仕立て屋として身を立てるためにロンドンに行き、6年間の長い見習い生活を送った。 この時に、情熱的な大伝道者ホイットフィールドの集会に導かれた。フォーセットは、ホイットフィールドの説教を聞いて回心し、献身の道を志す。しかし、その時はまだ見習い期間中であり、生計も立てていかねばならなかったので、彼が牧師として任命されたのは、26歳になってからであった。それから間もなく、彼はウェインスゲート村の小さな教会の牧師となり、そこで数年間務めた。報酬は年俸200ドル以下のわずかな額で、だんだん増えていく家族のために、もっと収入の多いところを捜さねばならぬと考えていたが、たまたま1772年に、彼はロンドンのある大きな教会から、著名な牧師ジル博士の後任になるように求められた。この招きに応じることは賢明なことのように思われた。 いよいよ別れの日が来た。フォーセットは別離の説教をした。家財道具が車に積まれている間、村人たちは愛する牧師一家の周りに集まって、悲しみに耐えていた。村人たちの献身的な愛情に、去り行く一家の心は強く動かされた。ついに夫人が涙をこらえきれずに言った。「できないわ。この人たちと分かれるなんて。」彼も同じ気持ちだった。「全くだ。ロンドン行きは中止だ。」そして車から荷物が下ろされた。 こうして彼は、彼を最も必要とする村にとどまることになった。その日の情景が、まだ記憶に生々しいうちにこの「祝福あれ」は作られた。そして人々がこの聖歌を愛唱することによって、彼が払った犠牲は、豊かに報われたのである。人と人との愛が、きずなを生むが、この場合には、そのきずなは50年以上も続いたのである。フォーセットは生涯、ウェインス・ゲート村で、少ない報酬にも関わらず、村人を愛し続けた。しかし、他のところで求めなくても、神からの名誉は豊かに与えられたのだ 。 -  

C・M・ルーディン著、安部赳夫訳『賛美歌物語』(いのちのことば社、1985年), pp.22,23。


 こんなエピソードでした。フォーセット牧師家族は、心から村の教会を愛し、教会の兄弟姉妹のために一生をささげたのです。村の教会員たちも、牧師を愛し、牧師家族のために精一杯ささげたのだと思います。 

  神の家族の「交わり」は、互いに分かち合うこと、互いにささげあうことです。しかも喜んで、見返り(お返し)を期待しないで、ささげ合うのです。この交わりの源は何でしょうか? この交わりを生み出すものは何なのでしょうか? 

  最後にヨハネの手紙 第一、3章16から18節の御言葉に耳を傾けましょう。 

16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 

17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。 

18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。 お祈りします。 


 みことばへの応答

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。

 1. これまで、教会の「互いに分け合い、互いに支え合う」交わりを通して、どれほど助けられ、励まされて来たことでしょうか? 感謝しながら、過ぎし日の恵みを思い起こしましょう。 




 2. キリストの大きな愛を頂いている者として、それを具体的に行動に移していきたい。今、あなたに示されていることは何ですか? 示されている人はいますか? 



 お祈りの課題など     




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