「思いがけない所から」

使徒の働き5章 
 12. さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。 
13. ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。 
14. そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。 
15. そしてついには、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときには、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。 
16. また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。 
17. そこで、大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たちはみな、ねたみに燃えて立ち上がり、 
18. 使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた。 
19. ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し、 
20. 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」と言った。 
21. 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって、最高法院、すなわちイスラエルの子らの全長老会を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を牢獄に遣わした。 
22. ところが、下役たちが行ってみると、牢の中に彼らはいなかった。それで引き返して、こう報告した。 
23. 「牢獄は完全に鍵がかかっていて、番人たちが戸口に立っていました。しかし、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 
24. 宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞くと、いったいどうなることかと、使徒たちのことで当惑した。 


 礼拝メッセージ 

2022年9月11日 

使徒の働き 5章12―24節 

「思いがけない所から」 


  おはようございます。先週、私たちは今日と同じ聖書箇所から、神様の力によって三つの解放が与えられることを確認しました。 ① 肉体的病や精神的苦しみからの解放、 ② 私たちのことをねたみ、敵対し、苦しめる者たちからの解放、 ③ イエス様を信じることによって、罪の束縛と死の恐れと永遠のほろびから解放され、私たちは赦され、生かされ、永遠のいのちにあずかることです。 

 特に三番目の解放、罪と死とほろびから解放されることが、私たちにとって何よりも大切であると教えられました。 初代教会では、主イエス・キリストを信じ、本当の解放を与えられる人たちが増し加えられていました。新しい兄弟姉妹が仲間に加わりました。

 私たちも、この教会を通して、救いに導かれる方が増し加えられてほしいと願っています。愛する家族・友人たちが救われてほしいと、祈り続けています。 そのために主が、私たち一人ひとりに託してくださっていることは何なのでしょうか? 私たちに任されている務めは何なのでしょうか? みことばから教えられていきましょう。 

  私たちの務めの一番目は、主の力により頼むことです。 使徒の働き5章13節と14節を読み比べてみますと、不思議なことが書かれていることに気付かれるでしょうか? 13節には「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、」とあるのに、14節では「そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」と記されています。矛盾しているようですが、これはどういうことなのでしょうか?  

 エルサレムの町のクリスチャンたちの集まりを遠くから眺めていた、教会の外にいる人たちの耳に、あの「アナニアとサッピラ事件」が伝わります。主へのささげものをごまかしたために、厳しいさばきを受け、いのちを奪われたアナニアとサッピラ夫婦のことです。5章11節には、「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた」とあります。教会の外にいた人たちも、非常に恐れたのです。 「キリスト教信仰は、軽々しいものではない。ちょっとした思いつきでこの信仰に入ってはいけない。生半可な気持ちではなく、人生すべてをかけるような真剣で重大な決心で飛び込んでいかなくてはいけない」と、周りの人たちは感じたのではないでしょうか。それが13節の「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかった」ことにつながったのです。けれども、彼らは同時に、そのようなひたむきな信仰を与えられ、心を一つにしているクリスチャンたちを大変尊敬していました。 では、ほかの人々は教会に加わろうとしなかったはずなのに、14節で記されている「ますます増えていった、主を信じる人たち」とは、いったい誰のことでしょうか?

 私は、この新しいクリスチャンたちは、それまで教会が予想もしていなかった所から呼び集められた「神の民」ではないだろうかと考えました。それは、14節の「増え」という単語。この単語は、原語の聖書を調べてみますと、受身形になっていたました。「増やされた 」と。 新しい信徒たちが「増やされていった」。 ― どなたによってでしょうか? 主によって、父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神の三位一体の神のお働きによって、主を信じる者たちが増やされていったのです。

  新しい信徒たちは、それまで教会が想定していなかった所からやって来た人たちでした。16節に「エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た」とあります。 「エルサレム付近の町々から」という表現に触れた時、私はわくわくしてきました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(1:8)。とのイエス様の約束が実現しています。エルサレムから周辺の町々へ、そして全世界へと宣教は拡大していくのです。 アナニアとサッピラ事件のせいで、教会は停滞し、新しい人など誰も来ないだろうと否定的な思いになるかもしれません。けれども主は、教会に新しい人たちを、思いがけない所から送ってくださったのです。

 私たちがなすべき務めは、まず主を信頼することです。主だけを信じ抜くことです。 先ほど交読した預言書イザヤ書55章にも、私たちが全く知らなかった人たちが、私たちのことを知らなかった人たちが、主のもとに走り寄って来ると約束されています。この主の約束を信じていきましょう! 

  イエス様も、天国とはどんなところかを教えるために、こんなたとえ話をしてくださいました。ある王様が王子のために結婚の披露宴を開きます。けれども招待しておいたはずの人たちは、様々な理由をつけて、招待を断ります。そこで王様は、通りにいるあらゆる人たちをその宴会に招いたのです。神様の招きは、私たちの小さな想像力をはるかに超えています。私たちが思いもしなかった所から、思いもしなかったような人たちが、主のみもとに呼び集められるのです。 


  私たちに任されている第二の務めは、私たちの存在を通してイエス様を証ししていくことです。 留置場から解放された使徒たちは、夜が明けるやいなや、すぐに神殿に入って行って福音を語り始めます(5:21)。すぐに伝道したのです。私たちも、自分の口で、自分なりの言葉で、福音を語れるようになっていたいと思います。第Ⅰペテロの3章15節には、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」と語られています。ご自分の救いの証しをだれにでも、いつでも語れるように用意しておきましょう。イエス様の福音をいつでも語れるように用意しておきましょう。 

  さらに私たちは、この使徒の働き5章から、言葉だけではなく、私たちの存在そのものをもって証しできることを教えられます。5章15節に出てきます「ペテロの影」です。大勢の病人が連れて来られた時、ペテロの影に触れた病人たちもみな癒されたのです。ペテロの影に何か神秘的力があったわけではないでしょう。影にでも触れれば癒されると信じた、その信仰に主が応えてくださったのです。 

  福音書に出てきます「12年間、長血で苦しんでいた女性の癒し」(マタイ9:20―22、マルコ5:25―34、ルカ8:43-48)もそうでした。「イエス様の衣にでも触れれば、私は救われる」と信じていた女性。彼女がイエス様の着物の房に触れた時に、その病は完全に癒して頂けたのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語りかけてくださいます。イエス様のお着物に神秘的力があったのではありません。触れれば癒されると信じた彼女の信仰に、主が応えてくださったのです。 

 そのことも覚えながら、私はペテロの「影」までも用いてくださる神様の御業に感動します。その人の存在すべてを主は用いてくださるのです。主は、私たちの存在を通して、人々に本当の癒し、本当の救いをもたらそうとしておられるのです。 私たちの存在を通して、イエス様が現れているでしょうか? 私たちの存在を通して、イエス様の力・イエス様の愛・イエス様の赦しが現れているでしょうか? 

  「病人や、汚れた霊に苦しめられている人々」が教会に集まって来ました。今日の教会にも、心病む方々・心傷ついた方々が集って来ます。悩み・苦しんでいる方たちが、教会の玄関から入って来られます。その時、私たちの存在を通して、イエス様の救いの御業がなされるのです! 私たちの献身が求められています。時間やエネルギー、心身をその方のためにささげていく愛が必要です。忍耐力も必要です。ときに長い時間をかけて、その方のお話しを聞かせて頂き、その方とじっくりと向き合うことも求められるでしょう。すぐには、解決はもたらされないでしょう。私たちの忍耐力が試されます。それでも、その方を、主が私に出会わせてくださったかけがえのない存在だと信じて、その方と共に生きていく。心悩む方々と共に生きていくことが大切です。その方と共に、救いを求めて、共にイエス様のもとに進んで行く。神様は、そのような使命を私たちに与えておられるのではないでしょうか。 

  初代教会には、そんなうるわしい愛の交わりが与えられていました。5章13節に、「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかった」という表現が出てきますが、調べてみますと、大変面白い表現でした。ギリシャ語の聖書では、「あえて、危険を冒して、親しい交わりに入ろうとしない」といった意味がありました。さらに「仲間に加わる(以前の翻訳だと、交わりに加わる)」というギリシャ語の単語には、「膠(にかわ)」という意味があると辞書には説明されていました。 「にかわ」は、動物の皮や骨などを煮詰めて作る接着剤なのだそうです。ゼラチンと同じコラーゲンで、わずか5秒で物と物をくっ付けてしまい、くっ付くと、4,50年は離れないそうです。古くから漆塗りの器や家具を作る際に、にかわが使われているそうです。 

 つまり聖書が教えている神様に喜ばれる「教会の交わり」とは、にかわでぴったりと継ぎ合わされたような交わりだというのです。イエス様につなぎ合わされた私たち神の家族は、苦しみや試練があったとしても、はがされない交わりなのです。私たち教会の交わりを通して、人々がイエス様に出会っていく。教会の交わりを見て、人々がイエス様の愛を知っていく。そんな交わりを目指していきましょう。 


  最後に私たちに託されている三つ目の務めは、祈ることです。使徒たちを通して、多くの奇跡が行われたこと。逮捕・投獄の迫害に直面しても、使徒たちが大胆に福音を語ることができたこと、それは教会員たちの祈りの結果だったのです。4章29,30節で、教会員たちはこう祈っていました。 

「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」

 心を一つにして真剣に祈り続けた教会の祈りに、主が応えてくださったのです。 使徒たちに、どんなに強烈な使命とやる気があったとしても、背後の祈りがなければ、彼らは立てなかったのです。人々が救いに導かれていく、その背後で本当に多くの祈りがささげられていたのです。

  私たちにとっても、この事実は変わりません。全能の主が、思いがけない所から人々を送ってくださることを信じます。そして、私たちの存在を通して、主イエス様が表されることを期待します。さらに、そこに祈りが積まれていくのです。 

 人を救いに導くのは、私たちの熱心さでも能力によってでもありません。ただ主の御手によってなされる御業です。けれども、その救いの御業のために、主は私たちと共に働きたいと願っておられ、私たちになすべき務めを任せてくださっているのです。

  あなたに託された務めは何でしょうか? 

 示された務め、与えられた務めに忠実に歩ませて頂きましょう。


 お祈りします。   


 みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。 

 1. 思ってもみなかった所から、あなたが知らなかった所から、どなたかが教会に導かれ、救われた。そんな体験があったでしょうか? 



 2. イエス様の御救いを知らせるために、あなたに託されている使命は何でしょうか? 



 お祈りの課題など   

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