使徒の働き6章
- そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。
- そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。
- そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、
- 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」
- この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、
- この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。
- こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。
礼拝メッセージ
2022年9月25日
使徒の働き 6章1―7節
「問題を通して」
おはようございます。台風が通り過ぎ、朝晩の気温がぐっと下がりました。ようやく秋が訪れたように感じます。日本各地で、強風・大雨・土砂崩れによる大変な傷みが生じています。
今から約2,000年前、最初のキリスト教会も嵐のような出来事を経験しました。 当時、都エルサレムには、先祖代々イスラエルに住み続けているユダヤ人と、長年外国に住んでいて、しばらくぶりに母国に帰ってきたユダヤ人がいました。 ダビデ王のもとで一つになったイスラエル国家ですが、息子ソロモン王の死後、国は南北に分断し、アッシリアやバビロンなど中東に出来た巨大な帝国に襲われ続けます。侵略され、故郷を奪われ、周辺諸国に散り散りバラバラにされたり、捕囚の民とされて(捕虜のように)、その国に連れて行かれたりするつらい経験をして来ました。そんな経緯で各地に離散させられていたユダヤ人たちが、戻って来ていました。
ずっとイスラエルに住んでいたユダヤ人にとっては、母国語のヘブル語を話すことは当たり前のことでした。けれども長年、外国に住んでいて、ようやく母国に帰ってきたユダヤ人にとっては、ヘブル語は外国語のようでした。当時、国際的に共通語として使われていたギリシア語の方がしっくり来ました。
現代の日本で言えば、日系ブラジル人の方たちが、「ギリシア語を使うユダヤ人」に当たるように思います。100年近く前、先祖が海を渡って、ブラジルの地で生活を始めます。その孫たち・ひ孫たちは、日本語をしゃべることができず、ポルトガル語を使っています。仕事を求めて、日本に渡って来ますが、言葉が通じないために、大変な思いをしている。聖書の時代も現代も同じような課題を抱えていると思います。 エルサレム教会の中には、そんな二種類のユダヤ人がいました。
しかし私は、この事実を知って、大きな感動を覚えます。イエス・キリストによる救いは、言葉の違い、文化や出身地の違いなど、あらゆる違いを乗り越えて有効なのです。どんな背景を持った人でも、福音を信じることができ、救われるのです。これがキリスト教信仰の素晴らしさではないでしょうか!
教会は、最初から多様な人たちが集まる群れでした。様々な背景を持った人たちが、共に集うことができていました。多様性は豊かさであり、力でした。けれども多様であるがために、ときに問題やいざこざも生じます。使徒の働き6章1節、「そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。」 ― 「ギリシア語を使うユダヤ人」のやもめたちが、教会の中で差別されていると訴え出たのです。毎日の配給を受けることができないと苦情を申し出ました。
言葉が通じないことによる行き違い、コミュニケーションが取れないなど、様々な原因が考えられますが、この時、初代教会の中に見られていた麗しい交わりが、揺さぶられました。富を持っている人は、持っていない人のために、喜んでささげ、互いに支え合って歩んでいるという教会の愛の業が、この時、崩壊しそうになっていました。一致していたはずの教会が、分裂の危機を迎えたのです。
教会のリーダーたち=12使徒は立ち上がり、問題の解決のために動き出します。まず、教会員全員を呼び集めます。今の私たちの教会の言葉で言えば、臨時教会総会を招集したのです。使徒たちは語り始めます、
2節。そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。
教会が行っていた愛の業、それは貧しくて日々の糧もままならないやもめたち(未亡人やシングルマザー)を支える愛の業でした。キリストの愛によって生かされている教会が、ないがしろにしてはいけない大切な奉仕でした。けれども使徒たちは、この問題を解決するためには、自分たちがそこに直接、入り込んではいけないと考えたのです。 どうしてでしょう? トラブルに巻き込まれたくなかったからでしょうか? そうではないでしょう。使徒たちは、自分たちがイエス様に選び出され、教会に仕えている一番の使命は、食卓に仕えることではない。神のみことばと祈りに励むことなのだと自覚していたのです。教会のために祈る、教会員のために真剣に祈る、みことばに真剣に向き合い、みことばをまっすぐに語る。そして、人々をキリストのもとに導いていく。これが使徒たちの一番大切な使命でした。
12人の使徒たちだけでは、教会のすべての必要に目を行き届かせることは不可能でした。この時点で、エルサレム教会には男性の信徒だけで5,000人以上(4章4節)。女性や子どもも合わせたら、1万から2万人の信徒がいたでしょう。一つの町ができるほどの大群衆です。使徒たちだけで、教会の業すべてを行おうとしたら、あまりの仕事量ゆえにつぶれてしまうでしょう。そして何よりも、みことばと祈りという第一の使命をないがしろにしてしまうでしょう。使徒たちは、それだけは避けたいと考えたのです。
私が学生だった頃、大学で「旧約聖書の世界」という授業がありました。一般大学の人文学の授業の一つでした。そこで先生から「座力」という言葉を教わりました。イスラエルでは、学者や宗教家に求められているのは座力なのだと。走り回り、動き回ることよりも、じっくり座って聖書や文献にあたり、思索を深めることをしてくださいと。先生は私たち学生に語りかけてくださいました。 牧師も「座力」が大事だなあと思わされています。座って、みことばを深く思い巡らし、祈ること。これを大切にしていきたいなあと思わされます。私自身、座ることよりも動くこと、何かをすることを求めがちです。使徒たちの「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」(4節)の宣言を、自らへの戒めとしていきたいと思います。
ですが、使徒たちは、問題を放っておいたのではありません。解決を別の手に委ねます。3節です。
「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして」
と。 使徒たちだけでは担いきれない重荷を、代わりに担ってくれる奉仕者を立てようと決めたのです。今の私たちの教会で考えるならば、牧師と共に教会の運営にあたる役員さん、長老・執事を選ぶということです。 大切なことは、その七人を選ぶ判断規準です。―「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人」を捜し求めました。 ― 神様を本当に愛していて、御霊に満たされている信徒です。かつ神様を知る知恵に満ちている信徒。しかも教会内外から良い評価を得ている人でした。 先ほど交読した申命記1章のみことばにも、出エジプトのリーダー:モーセが、自分一人では、もうこの重責・仕事量は負いきれないとギブアップし、自分の下につくリーダーたちを選んだことが記録されています。あの時のリーダーも、「知恵があり判断力があり経験に富む人たち」が選び出されました。
エルサレム教会は、5,000人もいる男性信徒の中から、7人の奉仕者を選び出します。私たちが所属しています日本同盟基督教団、昨年の統計を見ますと、5,971人の女性現住陪餐会員(定期的に礼拝に出席している教会員)がいます。北海道から沖縄まで(カナダのバンクーバーの教会も含めて)、同盟教団全教会の女性信徒のうちから7人を選び出す。数としては、そんな感じです。
7人の選び出された奉仕者の名前を順番に見ていきますと、みんなギリシア語の名前を持っている人たちでした。彼らは、ギリシア語を自由に使いこなせる人物だったと思います。7人のうち最初の6人はユダヤ人ですが、最後に出てきます「アンティオキアの改宗者ニコラオ」は、もとは外国人でした。どこかで旧約聖書に触れ、まことの神様と出会い、ユダヤ教に改宗していた。そしてイエス様を信じて、クリスチャンとなった人でした。 教会はこの時、ギリシア語しか話せないやもめたちの立場や思いをよく理解できる奉仕者を選んだのです。やもめたちの悲しみ・痛みに共感できる、そしてやもめたちのために最善を尽くすことができる7名を選んだのです。すごいことを、すごい選択を、すごい決断を初代教会はしたのです。
初代教会に問題が起こりました。教会を分裂させかねない大問題でした。けれども教会全体で、この問題に真剣に向き合い、主の御心を尋ね求めながら解決を探っていった時、神様はそこに計り知れない恵みと祝福を注いでくださったのです。7節には、こうあります。
「こうして、神のことばは、ますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」
問題を通して、教会が成長し、宣教が前進したのです! 信徒数が激増したこともすごいことですが、これまで教会に敵対していた祭司たち(その多くがサドカイ派であった)までもが、大勢、イエス様を信じ、クリスチャンとなったのです!
私たちは何か問題があると、「それはいけないことだ・・・良くないことだ・・・」と決め付けてしまいます。問題がなくて、順調に事が進むことを望みます。けれども、いのちがあって、血の通った組織は、時にぶつかり合いや葛藤が生じ、そういったことを通して、神様はそこに成熟や成長をもたらしてくださるのではないでしょうか?
私たち教会はキリストのからだです。いのちのある、生きているからだです。私たち自身の肉体を見ても分かりますように、もしも体が死んでいるなら、そこには痛みも苦しみもないでしょう。命があるから、生きているからこそ、そこには時に、傷や痛み、問題が生じるのです。問題がある(私たちの愚かさ・弱さ・罪が原因で生じることがほとんどでしょうが…)、それは決してマイナスのことだけではないのです。神様はマイナスと思えることもプラスに変えてくださるお方です。
私たちは人生に降りかかってくる様々な「問題」から目を背けたくなります。問題が深刻であればあるほど、それから逃げ出したくなります。けれども、初代教会の歩みから教えられることは、問題とどのように向き合うかです。どのように問題の解決を導き出すかです。 人間的な思いや知恵で解決しようとするでしょうか? この世のものやお金で解決しようとするでしょうか? それとも、主に寄り頼み、みことばを握り締めて、問題としっかりと向き合って、「神様、どうかふさわしい解決をお与えください」と、祈り求めるのでしょうか?
私たちは問題と直面させられることを通して、自分の本当の姿を見るのではないでしょうか? 本当のところ、自分は何を頼りにしているのか? それが明らかにされるのではないでしょうか? 日常生活の様々な場面で問題は起こります。家庭で、職場で、学校で、人間関係の中で、望まなくても問題はやって来ます。けれども、そこに神様の深いご計画があるのだ。神様の私たちに対する愛のご計画があるのだ。今、直面させられている試練・困難・問題の中にも、神様の目的と意味があるのだと、気付かせて頂きたいと思います。
みことばは、こう言っています。
詩篇119:71 「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」
苦しみや問題を通して、私たちは神様に取り扱われるのです。主のみことばを本当の意味で知ることできるのです。全てのことが決して無駄ではないのです。問題を通して、より神様に近づくことができるのです。問題を通して、神様の温かなご配慮を知ることができるようになるのです。
私たちにとって大切なことは問題と向き合うことです。主を信頼して問題と向き合うことです。そこに主の温かな御手が注がれていることを信じ、待ち望んでいきましょう。
祈ります。
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
1. これまで悩まされてきた問題を通して、神様から教えられたこと・示されたことがあったでしょうか?
問題を通して気付かされた神様のご愛、恵み、みことばの確かさはありましたか?
2. これからの人生、たとえ大きな問題・試練・苦しみに直面しても、神様とともに良き解決に導かれたいと願います。どうしたら、そのような歩みができるでしょうか?
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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