使徒の働き6章
8. さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。
9. ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。
10. しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。
11. そこで、彼らはある人たちをそそのかして、「私たちは、彼がモーセと神を冒瀆することばを語るのを聞いた」と言わせた。
12. また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
13. そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。
14. 『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
15. 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
礼拝メッセージ
2022年10月2日
使徒の働き 6章8―15節
「キリストのように」
おはようございます。秋晴れのさわやかなお天気が続いています。そこかしこからキンモクセイの良い香りがただよって来ます。外を歩いていて、香りに気がつきますと、私は「木がどこにあるのかな?」とキョロキョロ、周りを探してしまいます。 「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳(かぐわ)しいキリストの香りなのです。」(Ⅱコリント 2:15)と、聖書は語っています。私たちは、「どう私を見て!」と、はっきり自己主張できるような「キリストの香り」には、なかなか、なれないかもしれません。けれども、キンモクセイの香りのように、周りの人がはっと気づいてくれて、何か良いものを感じ取ってくれるような、そんなキリストの香りとなれたらと思います。
さて先週は、使徒の働き6章前半を開きました。世界最初のキリスト教会:エルサレム教会の中に起きてしまった大問題に注目しました。ギリシア語を使うユダヤ人のやもめたちが、教会の中で、「私たちは差別されている・・・ひどい扱いを受けている」と苦情を申し出たことでした。― 教会の愛の交わりが、崩壊しそうでした… ― 最初の教会は、問題に直面させられた時、それとしっかり向き合いました。まず、12使徒たちが、「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」(6:4)と宣言し、福祉の働きにたずさわる別の奉仕者を立てることを決めたのです。 教会の福祉の働き:愛の業を行うために、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い七人が選ばれます。彼らは、やもめや貧しい人たちに食料品や生活物資を平等に分配するために選ばれた奉仕者でした。けれども、この七人は、そういった奉仕をただ淡々と、事務的にこなしてはいませんでした。心を込めて、忠実に行ったのです。貧しい人たちの物質的必要だけではなく、彼らの霊的必要、たましいの飢え渇き、心の中の寂しさ・悲しさ・つらさに寄り添い、そこに神様の慰めと励ましをもたらしていったのです。
6章7節にありますように、七人が選ばれた結果、
「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」
のです。これは、12使徒たちがみことばと祈りに専念した結果であると同時に、選ばれた七人が良き霊的リーダーだったからではないでしょうか。 七人は、人々のたましいに温かな配慮ができるリーダーでした。七人は、キリストの愛に満ちていました。人々にみことばを語り、イエス様の恵みと赦しのすばらしさを宣べ伝える、そんな霊的導き手だったのです。
私たちも教会の中で、また職場や学校、地域や家庭において、色々な奉仕・働きをさせて頂きます。それらはまず、主なる神様への奉仕です。私たちを救ってくださった神様の愛に応えて、主に感謝して、喜んでさせて頂く奉仕です。同時に、私たちの奉仕は、人々の救いのためのでもあるのです。礼拝での奉仕・お掃除・お食事作り(コロナで長い間お休みですが)の奉仕。私たちは、それらを事務的にこなそうと思えば、ささっと上手にこなせるでしょう。でも、そうではなくて、心を込めて・愛を込めて、隣人の救いのためにという思いで奉仕することができたら何と幸いでしょうか!そのような思いで、人々に仕えることができるならば、私たちの奉仕の姿勢は変わってくるでしょうし、私たちの生き方そのものが変わっていくのではないでしょうか。
使徒の働きの七人は、心から、人々のたましいの救いのために奉仕しました。七人の代表格がステパノでした。「ステパノ」という名前は、「冠」という意味です。キリスト教会最初の殉教者である彼は、天で神様から栄冠をかぶせて頂いたでしょうか。 聖書は、このステパノを大変、高く評価しています。5節には「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」と出てきます。8節にも、「さて、ステパノは恵みと力とに満ち」とありあます。共通するキーワードは、「満ちている」です。生まれつきの才能や性質が優れていたという意味ではありません。イエス様にとらえられ、神の子とされたために、神様から賜物を豊かに満たして頂いたということです。神様から信仰と聖霊、恵みと力を、豊かに与えられていた。満ちあふれるほど与えられていた。ステパノは、そんな人物だったのです。 彼は本当に主イエス様を愛していました。イエス様のためにだけに生きていました。主イエス様のように人々を愛し、人々に仕えていたのが、ステパノでした。
聖書を見ていきますと、ステパノと主イエス様には、驚くほどたくさんの共通点があることに気付かされます。ステパノは、イエス様のように生き、そして死んでいったのです。
① キリストのように、他者のために仕えて生きる
ステパノは、自分のためにではなく他者のために生きていました。貧しくつらい思いをしていたやもめたち、特に言葉が通じず、差別されていると訴えたギリシアを話すユダヤ人クリスチャンのために、自らをささげました。神様から与えられた賜物を用いて、人々の物質的・霊的必要に応えていこうと尽くしました。ステパノは、ヘブル語もギリシア語も使いこなせる人だったでしょう、通訳もしながら、両者をつなぐ働きをしたと思います。
イエス様は、
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(マタイ 20:28)
とおっしゃいましたが、ステパノも仕えるリーダーでした。イエス様が私たちに仕えてくださったように、ステパノも教会に仕え、人々に仕えたのです。さらにステパノは、「恵みに満ちて」いました。どのような人であっても、その人を受け入れ、愛し、仕えたのです。
② キリストのように、苦しみを受ける
主イエス様にも、ステパノにも、敵対者が現れました。彼らのことを良く思ってくれない人、憎しみをたぎらせ、命を狙って来る恐ろしい存在が現れました。パリサイ人や律法学者たちは、主イエス様を憎み、殺そうと企てました。ステパノも命を狙われました。
6章9節
「ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。」
「リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々」は、もとはローマ帝国の奴隷とされて、外国に住んでいたユダヤ人たちです。そこから、奴隷の身分から解放されて、自由になったユダヤ人が、各地からエルサレムに集まっていました。彼らは「リベルテン」=「自由を得た者」という名前の会堂を設立し、礼拝をささげていました。
他にも外国から帰還したユダヤ教徒たちが、ステパノに対抗しました。以前、彼らが住んでいた場所、ある人はクレネから:北アフリカの現在のリビアという国にある海岸都市。別の人は、アレクサンドリアから:エジプトにあった古代都市。他にもキリキアから:現在のトルコの東南地域。最後のアジアは、トルコの西半分。クレネ、アレクサンドリア、キリキア、アジアと、地中海周辺の各地から帰還したユダヤ人たちが、エルサレムに帰って来ていました。 彼らはまじめなユダヤ教徒でした。大変まじめだったので、非常に熱心な信仰者だったので、神殿のある総本山エルサレムに帰って来たのです。旧約聖書を一生懸命覚え、律法を隅から隅まで調べ尽くし、それを厳格に守ろうとしていました。何よりもエルサレム神殿での礼拝に重きを置いていました。そんなユダヤ教徒でした。
ステパノは、そんな外国帰りのユダヤ人たちからねたみを買います。ギリシア語しか話せないユダヤ人クリスチャンと交わりを持ち、彼らに仕えていく中で、その周りにいた外国帰りのユダヤ人たちにも、福音を宣べ伝え、証しをする機会があったのでしょう。けれども、イエス様が当時の宗教家たちにねたまれ、憎まれたように、ステパノも厳格なユダヤ教徒たちから激しい反感を買ったのです。
表面上は律法を守っていても、律法の本当の意味や目的を見失っていた宗教家たちをイエス様はご覧になり、彼らの偽善や傲慢さを糾弾されました。ステパノもユダヤ人たちのそのような歩みに、厳しく切り込んでいったのです。 外国帰りのユダヤ教徒たちは、自分たちのことを非難するステパノを論破しようとしますが、議論では勝てないと分かると、偽りの証人、うその証言をする証人を立てて、ステパノの立場をおとしめようとします。11節です。そこで、彼らはある人たちをそそのかして、「私たちは、彼がモーセと神を冒瀆することばを語るのを聞いた」と言わせた。 これもイエス様の時と同じですね。裁判において、「多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである」(マルコ14:56)と記されています。「お前は、律法に逆らっている!お前は、神殿を汚している!お前は、神を汚している」と言って、人々はイエス様を告発し、そしてステパノを告発するのです。
怒りに燃えたぎっているユダヤ人たちは、民衆と長老、律法学者を扇動し、ステパノを襲って捕らえて、最高法院(議会)に連行します(12節)。そしてステパノを告発するのです。13節の「この人」、また14節の「あのナザレ人イエス」、13節の「この」と14節の「あの」という単語は、原語では、どちらも同じ単語が使われています。軽蔑・侮蔑の意味が含まれた「こいつは」、「あいつは」、といった意味です。 ユダヤの指導者は、ステパノを見たときに、すでに葬り去ったはずのイエス様をそこに見たのです。ステパノのメッセージを聴いた時、すでに十字架に付けて殺したはずのイエス様の言葉が聞こえてきたのです。
これはステパノにとって、本当に光栄なこと・素晴らしいことだったでしょう。キリストに似た者とされているのです。キリストと同じように生かされている自らを発見し、喜んだのではないでしょうか。15節「最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。」ステパノは、イエス様の輝き、神様に輝きに包まれていました。
③ キリストのように、自分を殺そうとする敵対者たちの赦しを乞い求める
そして何よりも、ステパノとイエス様の最大の共通点は、その最期の場面、死の場面です。使徒の働き7章の終わりの部分、57節から
57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
イエス・キリストが十字架の上から祈られた祈り「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが、分かっていないのです」(ルカ23:34)。殉教の際、ステパノも同じように祈りました。イエス・キリストの最期の言葉、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)。ステパノも死を前にして同じように祈りました。 ステパノは、愛する主イエス様と同じように生き、そして死んでいったのです。
もちろん主イエス様の死は、全ての人の罪のための身代わりの特別な死です。それに対して、ステパノの死は主イエス様への信仰を貫き通す殉教の死です。意味するものは違いますが、それでもステパノほど、主イエス様に似せられ、主イエス様のように生きた信仰者は、いないのではないでしょうか?
初代教会のクリスチャンたちは、ステパノの殉教の死を悼み悲しみながら(使徒8:2)も、そこに十字架で死なれた主イエス様を見たのではないでしょうか。ステパノの死を通して、イエス様の十字架をしっかりと思い起こし、信仰を強められたのではないかと思います。ルカの福音書とこの使徒の働きの二つを書き記したルカも、イエス様の死とステパノの死を重ね合わせて見ていたと思います。
私たちが、日々キリストに似せられていく、キリストのように生きていく。そして、私たちの姿を見て、周りの人たちがイエス様を見出していく。キリストの香りを放って歩んでいく。これこそ私たちの一番の願いであり、一番の目標です。 「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)
私たちは、私たちを愛し、私たちを救ってくださった主イエス様のように変わっていきます。主イエス様のように、人の本当の幸せために考え、仕える者に変えられます。この約束を信じて、主イエス様を心の中に覚えながら、聖餐式に臨んで参りましょう。 祈ります。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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