「神がおられるところ」

使徒の働き7章 
44. 私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。 
45. 私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。 
46. ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。 
47. そして、ソロモンが神のために家を建てました。 
48. しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。 
49. 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのために どのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。 
50. これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』 
51. うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 
52. あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。 
53. あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」 



 礼拝メッセージ 

2022年10月23日 

使徒の働き 7章44―53節 

「神がおられるところ」  


 「神様ってどこにいるの?」 誰かにそんな質問をされたら、どうお答えになりますか。 「天の父なる神様だから、天国にいるんだよ」と答えるでしょうか? この朝、与えられたみことばから、その答えを探っていきましょう。 

  ここには、ステパノのメッセージ(裁判での弁明)の最後の部分が記されています。 最初の教会の7人選ばれた執事のひとりであったステパノ。彼は、外国からエルサレムに戻って来ていた厳格なユダヤ教徒たちの反発を買いました。厳格なユダヤ教徒たちは、田舎のナザレ村出身のイエスを神の子・救い主と信じるクリスチャンの信仰を認めることができませんでした。それなのに、ステパノたち七人が活躍した結果、困ったことが起きてしまいました。

使徒の働き6章7節、
「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」 

 「祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」というのは、日本で言えば、お坊さんや神主さんが次々にクリスチャンになるようなものだと、ある牧師が解説していました。祭司たちユダヤの宗教家は、イエス様を批判し、イエス様をねたみ、イエス様を十字架へ追いやった側の人たちでした。そんな祭司たちが、ステパノなど信徒伝道者が活躍したことによって、クリスチャンに変えられていったのです。 この事実に危機感を覚え、キリスト教の布教を妨害しようと、厳格なユダヤ教徒たちはステパノを逮捕します。そしてステパノが神聖な三つのものを汚している(冒涜している)と訴えたのです。① まことの神を、② モーセと律法を、③ エルサレム神殿をないがしろにしていると。 

  そのような不当な訴えにステパノは反論していきます。ユダヤ民族の歴史を丁寧にひも解きながらステパノは、「私のことを訴えているあなた方こそ、反対に訴えられるべき存在だ。あなた方こそ、まことの神に逆らい、律法に従わず、主を礼拝することをないがしろにしている張本人だ」と厳しく指摘するのです。 

  今朝は反論の三つ目のポイント、エルサレム神殿についてです。ユダヤ人たちは、エルサレム神殿だけが絶対的な礼拝場所だと考えていました。そこだけが聖なる所だと。事実、過越の祭りや特別な時期になると、国中からユダヤ人たちがエルサレムにやって来ていました。国外に住むユダヤ人たちも帰国し、神殿で熱心に礼拝をささげていました。 

  けれどもステパノは、主イエス様の到来によって、そのような礼拝=エルサレム神殿だけの、しかもユダヤ人だけの礼拝は終わりを迎えたと理解したのです。新しい時代が来たと知ったのです。そのことを明らかにするためにステパノは、神殿に関わる歴史をひも解いていきます。まず7章44節、

「私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりのものでした。」 

 ステパノは主張します。「イスラエル民族は、いつもエルサレムで礼拝をしていたのではない。神殿など姿も形も無かった時代。荒野にいたあの出エジプトの時代、神様は、モーセに幕屋を造りなさいと命じたではないか」と語るのです。 神様はモーセに神を礼拝するための場所、幕屋の造り方を事細かに教えます。横幅23メートル、奥行き46メートルの広さ(テニスコートを4つ横につなげた位の大きさ)。周囲に亜麻布で作った高さ2メートルほどの囲いを設けること。内側にいけにえを焼くための祭壇を築き、その前に祭司たちが身を清めるために使う水が入った洗盤を設置する。奥には聖所・至聖所と呼ばれる建物を建て、至聖所の中には十戒が刻まれた石板が入っている契約の箱を安置せよと。 

 幕屋は、組み立てたり、たたんだりできる移動式の礼拝所でした。人が移動するのに合わせて、幕屋も移動します。7章45節に、

「私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ」

と、契約の箱を先頭に、たたんだ幕屋も運びながら、約束の地カナンに入っていったのです。 

  それから神殿が建設されるまで、250年ほどの歳月を要しました。約束の地カナンに入っても、イスラエルの人たちは幕屋で主にいけにえをささげ、主を礼拝していました。サムエルの時代には、契約の箱が宿敵ペリシテ人に奪われてしまう非常事態も経験しました。 そしてダビデが王様になります。

7章46節、「ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。」  

 ダビデは、自分だけが「立派な王宮」に住んでいて、神様の臨在を現す「契約の箱」が、野ざらしになっているのを申し訳なく思いました。そして神殿を建てたいと願うのですが、神様から「してはいけない、あなたではなく、あなたの後継ぎが神殿を建てるのだ」と言われます。ダビデの願いは、神様によって却下されたのです。その理由は、

第Ⅰ歴代誌28章3節で、「しかし、神は私に仰せられた。『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦いの人であり、人の血を流してきたからである。』」

 戦いを繰り返し、敵の血を流してきたあなたは、神殿を造ってはならない、あなたの息子ソロモンがそれをするのだと言われます。 ソロモン王が建てた神殿は大変立派でした。高さ13メートル位。神殿の壁はきちんと削られ、磨き上げられた高価な石で出来ていました。内側には、高価な杉の材木が使われていました。けれどもソロモンは、どんなに人間が大きくて立派な建物を建てたとしても、そんなものでは神様は納まり切らない、神様は決してひとつ所に限定されるようなお方ではないことを、ちゃんとわきまえてい ました。神殿完成後、献堂式でソロモンはこんな祈りをささげます。 

 Ⅰ列王記8章27節 「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」 

 ソロモンはこの神殿が祈りの宮=人々が祈るための場所として、いつまでも用いられることを神様に願い求めます。 時代を経て、ソロモンの建てた神殿は、バビロン帝国軍によって徹底的に破壊されてしまいますが、神様の導きの中でその後、帰還したユダヤ人たちによって、再建されて行きます。 

  そしてイエス様が誕生する10数年前、あのヘロデ大王によって神殿はさらに立派なものに建て替えられます。ヘロデ大王は46年もかけて神殿を建て直します。豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な建物でした。 主イエス様はこの地上に来られ、ヘロデが建てた神殿をご覧になられます。人々が神殿の大きさや立派さに目を奪われ、それを誇っている中、イエス様は神殿に入られ何をされたでしょうか? 「宮清め」でした。神殿が商売の場と化していました。いけにえとしてささげる動物がそこかしこで売られ、献金としてささげるために沢山のお金が両替され、手数料が取られていました。あたり一面、金儲けの香りむんむん、商売人の声がこだまし、祈りの声がかき消されている神殿を見て、イエス様は嘆き、激しく怒りました。 

  幕屋も神殿も、どちらも主を礼拝するための場所でした。そこで罪を悔い改め、いけにえの動物をささげ、祈りをささげる場所でした。罪を自覚した人が、子羊や子牛を連れて来て、いけにえとしてささげていました。自らの身代わりに、いけにえをささげました。それは毎年、毎月、その人が罪を自覚するたびごとに繰り返されました。 

 けれども、主イエス様の到来によって、主イエス様が十字架で死んでくださったことによって、そのような神殿での礼拝は終わったのです。動物をいけにえとしてささげる必要は無くなったのです。イエス様の一度限りの身代わりの死によって、罪の赦しは完成したのです。 私たちは今この時代、「エルサレムに行かなければ、神様を礼拝できない」、そんなことは決してないのです。神殿でいけにえをささげなければ救われない…そのような時代はもう過ぎ去りました。私たちは救い主イエス様を通して、父なる神様に近づき、神様を礼拝できるのです。どこにいても、どんな状況にあっても。私たちはイエス様を信じる信仰によって、神様に近付くことができ、神様に祈ることができるのです。 

 先ほど交読したみことば、イエス様とサマリアの女性の会話(ヨハネの福音書4章19-26節)が、この真理を明らかにしています。当時のユダヤ人にとって、エルサレムこそ礼拝をささげるべき場所でした。サマリア人とってはゲリジム山(ざん)という山が礼拝の場所でした。イエス様は「もうそのような時代は終わった」と語られたのです。これからは、主イエス様を信じる者たちが世界中至る所で、聖霊に導かれ、道・真理・いのちなる主イエス様を通して、神様を礼拝する時代が来ると約束なさったのです。「今がその時です」と。 

  まさに今私たちは、エルサレムでもゲリジム山でもなく、イスラエルからはるか東の果て=ここ日本で、この福井の地で神様を礼拝しています。今日・主の日、世界中至る所で、神様に賛美がささげられ、祈りがささげられ、感謝と喜びの声が沸き起こっているのです。 すごいことが今、実現しているのです。イエス・キリストの十字架の死と復活、そしてペンテコステを通して、すごいことがこの世界に起こったのです。ものすごいことの真っ只中に今、私たちは招き入れられているのです。 

  ステパノは、預言者イザヤの言葉を引用しながら語ります。

「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのために どのような家を建てようとするのか。─主のことば─わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』 

  私たちの神様は、特別な聖地にまで苦労して巡礼して行かなけば、お会い出来ないお方ではありません。今日ここに、あなたがいる所に、どこででも、いつも、ともにいてくださる神様です。  

  私たちを造られた神様は、人間がこしらえた神のように、「○○村の守り神」といった狭い担当地域しかカバーできないような小さな神ではありません。全世界・全宇宙を造られ、そのすべてを御手の中に置いていてくださる大いなる神様です。霊なる神様は、一つ所に限定されることなく、世界中隅々にまで目を配り、すべての人・すべての動植物の必要に目を注ぎ、思いを向けてくださっている神様です。 

  私たちを生かしてくださっている神様は、人間がこしらえた神のように、「商売繁盛の神」、「学業成就の神」、「縁結びの神」、「安産の神」といった、わずかな専門分野しかカバーできないような限定された神ではありません。全知全能なる神様を私たちは信じ、礼拝しています。まことの神様に祈りをささげ、何でも願い求めて良いのです。 

  毎週主日ごとに、まことの神様におささげするこの礼拝を、私たちはもっと感激し、もっと感動し、もっと感謝し、もっと喜びながら、特別なものとしておささげしていきたいと思います。 

  主イエス様は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)。また「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と教えてくださっています。私たちの毎日、その歩みのすべてに神様がともにいてくださいます。今、私たちがいる神の家族・教会の兄弟姉妹の交わりのただ中に主イエス様がいてくださいます。今、私たちの内に御霊なる神様が住んでいてくださいます。この事実をしっかりと受け止めていきましょう。この事実を喜び、感謝して、主に喜ばれる礼拝、真心からの礼拝を、これからもおささげしていきたいと思います。 

 祈ります。 


 みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。 


 ① 神様は、いつでも、どこででも、とこしえに、あなたとともにいてくださいます。この約束は、あなたにどのような慰め・励まし・希望をもたらします? 



 ② いつでも、どこででも、とこしえに、ともにいてくださる神様を見失わないように、日々、何を大事し、どのような心がけ生きていけば良いでしょうか? 


 お祈りの課題など 

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