使徒の働き5章25‐32節
25. そこへ、ある人がやって来て、「ご覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、宮の中に立って人々を教えています」と告げた。
26. そこで、宮の守衛長は下役たちと一緒に出て行き、使徒たちを連れて来たが、手荒なことはしなかった。人々に石で打たれるのを恐れたのである。
27. 彼らが使徒たちを連れて来て最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。
28. 「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている。」
29. しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。
30. 私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。
31. 神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。
32. 私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。」
宗教改革記念礼拝メッセージ
2022年10月30日
使徒の働き 5章25―32節
「我ここに立つ」
朝起きると、「寒いな」と感じるようになりました。ときには寒くて、早くに目覚めてしまうこともあります。今年も残すところ、あと2ヶ月です。私たち家族が福井に引っ越して来てから、7カ月が経ちました。あっという間に感じます。
時間のある時、この町を知ろうと、自転車で中心部を巡りました。プロテスタントの教会、聖公会の教会と、多くの教会堂に出くわし、うれしくなりました。NHK福井放送局の近くにカトリック福井教会があります。会堂の扉が開いていまして、「お祈りをしたい方は、静かにお入りください」といった案内がありましたので、中に入って、しばらく会衆席に座っていました。しばらくすると、外国人の方がひとり入って来られ、礼拝堂の最前列に座りました。その後、外国人の司祭が来られ、控室でミサ(プロテスタントの教会の聖餐式)の準備をされている音が聞こえてきました。私は中座し、帰路についたのですが、「平日の午前中、たった一人の信徒のために、聖餐式の準備をなさっているのだな。この教会が外国から日本に渡って来られ方たちの心の拠り所また祈りの場となっているのだな!」と感動しました。
カトリック教会が、日本でまた世界でなさっているお働きに敬意を覚えつつ、私たちは今日、宗教改革記念の礼拝を主におささげしたく願っています。500年前、私たちプロテスタント教会は、当時の教会(カトリック)が、「主の前に不健全な状態だ」とプロテスト(抗議)し、カトリック教会を飛び出し誕生した群れです。福井中央キリスト教会、また私たちが所属する日本同盟基督教団は、そんなプロテスタント教会です。
今朝のメッセージタイトル「我ここに立つ」は宗教改革者のマルチン・ルターの言葉です。ローマ教皇(法王)を頂点とする当時の教会が世俗化し、腐敗していく中で、ルターはその誤りを正そうと立ち上がります。その始まりが1517年の10月31日。今から約500年前の出来事です。この朝、私たちは与えられた使徒の働きのみことばから、また宗教改革の出来事から、私たちの信仰について、ともに確認していきましょう。
ルターが生きていた頃、ドイツの各地でとあるお札(ふだ)が販売されていました。「免罪符」またの名を「贖宥状(しょくゆうじょう)」というお札(ふだ)です。当時教会では、「私たち人間が救われ、天国に入(はい)るためには、神様の恵みだけでは不十分で、それに加えて人間の側の善い行い=善行が必要だ」と誤った教えが語られていました。少なくとも一年に一回は教会に行って、犯した罪を司祭(神父)に懺悔(ざんげ)し、告白しなければならない。そして人間の側も一定の罰を受けることによって、罪の責任を償(つぐな)わなければならないと教えられていたのです。その罰とは、徹夜の祈りとか、断食の祈りという厳しい修行のようなものでした。
そんな中、当時のローマ教皇は、聖ペテロ大聖堂という立派な教会堂を建設する資金を集めるため、免罪符の販売を積極的に勧めます。一生に一度、このお札(ふだ)を買えば、その人もまた先に死んだ家族も、すべての罪が赦されるといういわく付きのお札(ふだ)です。大変、弁の立つ説教者がローマから送られてきて、ドイツでもそのお札(ふだ)の効果をまことしやかに説教して、販売網を拡大していました。教会は金儲けに夢中になっていました。一番大切なイエス様の福音をないがしろにしていたのです。
ルターがいたヴィッテンベルクの町の人々も、免罪符を買い求めていました。ある時、ルターが町を歩いていますと、道端にぐてんぐてんに酔っ払った男がいました。ルターは、その男に「そんな酔いつぶれるほどお酒を飲むのは良くない」と諭(さと)しますと、その酔っ払いは懐(ふところ)の中から一枚の丸めた紙(免罪符)を取り出して、「ご心配なく。あっしにはこれがあります」と言ったそうです。修道院で真剣に学び、人々にみことばを語っていたルターにとって、これは由々しき事態でした。
彼は1517年10月31日、「95ヵ条の提題」なる文章をしたためます。免罪符の誤り、教会の過ちを指摘する95の質問状を書いて、ヴィッテンベルク教会の扉に貼り付けたのです。 中学生・高校生の頃、「以後(15)、否(17)と言う宗教改革」と世界史のテストのため、その年号を覚えました。以後それまでの教会のあり方に否、No! と言った宗教改革でした。
ある日曜日の朝、私が教会の扉を開けたら、扉に何かが貼り付けてある。よく見ると、なんと95個も質問や激しい意見が書かれた文章が貼り出されていたとしたら、正直、困っちゃうなあ…と思います。
ルターが書き記し、その後、大反響を呼び起こし、宗教改革の火種となった「95ヵ条の提題」。ルターは、その第一条をこう書き始めます。
「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい』と言われた時、彼は 信じるものの全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」
当時の民衆が、教会で聞かされていたことは、「イエス様が『あなたがたは悔い改めなさい』とおっしゃったその言葉は、少なくとも一年に一回は教会に行って懺悔しなさいという意味だ」という解釈でした。ルターは、「それは違う!イエス様が『悔い改めなさい』とおっしゃったのは『心の方向転換をしなさい』ということだ。信じる者の生涯が絶えず悔い改めであることを、神様は望んでおられるのだ」と語ったのです。 高額な金貨を支払って免罪符を買ったからといって、罪が赦されることも、救われることもない。どんな難行苦行を積んだからといって救われることはない。生涯ずっと悔い改めていく、自らの罪を神様の御前に告白していく。そして心を主に向ける方向転換をし続けていくことこそ大事なのだ。ルターはそう訴えたのです。
今日開きました、使徒の働きの5章のみことばには、悔い改める思い、その心をも神様は私たちのために与えてくださっているとあります。31節には「神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました」と。父なる神様は、私たちに悔い改めと罪の赦しを与えるために、御子イエス様を私たちに与えてくださいました。イエス様は、私たちの身代わりに、木(十字架)にかけられ、殺されましたが、よみがえって(30節)、天の神の右の座に上げられました。さらに32節で「聖霊も証人です」と、聖霊も私たちの救いのために働きかけてくださっています。私たちに自らの罪を悟らせ、私たちに十字架を示し、私たちを悔い改めに導くのは、聖霊のお働きなのです。
父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神様 = 三位一体の神様が、私たち一人ひとりの救いのためにご計画を立て、実行し、それを完成させ、その救いを受け取ってほしいと私たちに働きかけてくださっているのです。三位一体の神様の壮大な救いのご計画があり、三位一体の神様の絶妙なチームワーク・コンビプレーによって、今、私たちは救いを頂いているのです。
私たちは自分の努力で、また自分の思いで、悔い改めることができ、罪を赦されていると、勘違いしてはいないでしょうか? 反対に、自分はいつまでたっても罪を犯すことを止めることができない、正しい人間になどなれないから、私は救われていない・・・と思い違いをしてはいないでしょうか? 不完全な人間がどんなに努力しても、義なる神様の要求には達することなどできないのです。罪深い人間がどんなに頑張っても、神様の義を満たすことはできないのです。
先ほど、交読したエペソ人への手紙のみことば、2章8,9節には、こうあります。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
私たちの救いは、神様から一方的に与えられる恵みです。本来は、受けるにふさわしくない者=罪深い私に、無条件で与えてくださる恵みです。ひとり子イエス様の身代わりの死によって、もうあなたの罪の償(つぐな)いは済んでいる。だから悔い改めて、福音を信じなさい。そしてキリストのよみがえりのいのちを受け取りなさいと、神様は私たちを招いていてくださっています。この招きに応じること=「私もその救いが欲しいです」と告白することが信仰なのです。
宗教改革はこのこと=神様の恵みによってのみ人間は救わること。またこの恵みによる救いを信じることによってのみ、人間は神様から「義なる者」と見て頂ける「信仰義認」ということ再発見したのです。
ルターは、聖書をしっかり学び、聖書のみことばから教会の過ちを正そうとしました。けれども既存の教会を厳しく批判したルターは、教会から破門されてしまいます。当時、教会から破門されるということは、完全に「村八分」にされることを意味しました。いのちの保障すらありません。その者の命を奪うものがあっても、その責任は問わないというほどでした。今まで、一生懸命仕え、奉仕してきた教会から破門されます。仲間と思っていた教師たちから呪いの言葉をかけられます…。耐えがたい苦しみを味あわされます。
そして1521年、「95ヵ条の提題」を発表してから4年後、ルターは当時ドイツ全体を支配していた神聖ローマ帝国の帝国議会に呼び出されます。ヴォルムスという都市にその議会はありました。ルターは、皇帝から喚問をされます。今の日本で言えば、国会の証人喚問に呼ばれ、議員たちから厳しい糾弾を受けるようなものです。 議会の机の上には、これまでルターが書き記してきた教会の誤りを指摘する出版物が置かれていました。皇帝を始め権力者たちは、ルターに向かって、「この本を書いたのはお前か!?」、「この本に書かれていることを撤回するか!?」とルターに迫ったのです。 その議会でルターは、こう答えたそうです。
「皇帝陛下ならびに諸侯方、聖書の証言によって、私が誤っていると判断されたり、あるいは私が訴えている聖書から明らかな理由により、私が有罪を宣告されたりしない限り、私は何事も取り消すことはできませんし、またいたしません。なぜなら、私の良心は神のみ言葉に捕らえられているからです。良心に反して、行動することは我々にとって安全でもなく、なすべきことでもないからです。 私はここに立ちます。それ以外のことはできません。神が私を助けてくださいますように。アーメン」
「私はここに立ちます。我ここに立つ」 これは帝国議会で皇帝を前に語った言葉でした。私は聖書のみことばだけに立ちます。私は神のことばだけに立ちます。私は福音だけに立ちます。ルターから始まり、その後の宗教改革者、ツヴィングリ、カルヴァンなども、同じように戦い、涙し、痛めつけられました。けれども「私はこの福音だけに立つ」との信仰を与えられ、教会を改革していったのです。
私たちプロテスタント教会は、この宗教改革の精神にそのルーツがあるのです。私たちの教会も、元をたどれば、このルターの抗議・抵抗につながるのです。
もっと元をたどれば、私たち教会の信仰は、使徒の働きの初代教会の信仰につながっています。ペテロたちが、議会で大祭司から厳しく問い詰められた時、「イエス」という名を宣伝してはいけないと言ったではないかと問い詰められた時、ペテロは反論します。5章29節「人に従うより、神に従うべきです。」
「白いものを黒だと言え」と命じるようなこの世の権威には、私たちは従えません。人間の権威ではなく、私たちはキリストの権威・神の権威に従います。人の言葉ではなく、神の言葉に聞き従います。これが私たち教会の姿であり、また私たちクリスチャンの姿なのです。
ルターは、ヴォルムスの帝国議会で「お前は異端だ!」と断罪され、そこを追い出された後、彼を保護してくれる一人の王様のもとに身を寄せます。そのお城の中で、身を隠しながらルターがしたことは、聖書をドイツ語に翻訳することでした。この時代まで、聖書はラテン語でしか読めませんでした。一部のエリート、一部の知識階級しか聖書を読むことができませんでした。ルターは、民衆の分かる言葉で、民衆のもとに聖書が届けられることが必要だと考えました。教会員が、正しい福音理解を持つために、信徒一人一人がみことばを自分の言葉で読めるようになることが大事だと考えたのです。
今、私たちの手元に日本語の聖書が置かれています。このことは、決して当たり前ではありません。歴史的に見たら、すごいことです。三浦綾子さんが書かれた『海嶺』を読むと、聖書翻訳、日本語に聖書を翻訳した際の苦労がよく分かります。多くの先人たちの祈り、努力、奉仕、ささげものによって、今、この聖書が与えられていることを感謝しましょう。もっと感謝して、この聖書を読ませて頂きたいと思います。 みことばを私たちの歩みの光としていきましょう。「我ここに立つ」の信仰を与えられていきたいと願います。
お祈りしましょう。
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
① これまでの信仰生活で、「人に従うより、神に従うべきです」と告白し、決断し、行動できたことがありましたか? また、そのことに失敗してしまったこともありましたか?
② プロテスタント宗教改革の精神は、五つの「○○のみ」に要約されると言われています。 「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」、「キリストのみ」、「神に栄光のみ」
余分なものを付け加えやすい私たちです。 主のみことばのみ、御救いのみに心を集中できるように祈りましょう。
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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