使徒の働き7章 54ー60節
54. 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
55. しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
56. 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
57. 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
58. そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
59. こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60. そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
召天者記念・聖餐礼拝メッセージ
2022年11月6日
使徒の働き7章54―60節
「ステパノの殉教」
今朝は召天者記念として、この地上から主のみもとに召された私たちの大切な家族、教会の神の家族を思い起こします。大切な奥様を、大切なご主人を、父を母を、祖父母を、ご子息を、大切な友人たちを私たちは見送って来ました。
大切な方との別離は、あまりに悲しく、不条理で理不尽だと感じます。命が取られた瞬間から、その人と地上であらゆることを共有できなくなってしまうのです。喜びも、怒りも、悲しみも、楽しいことも、一緒にすることが出来なくなるのです。死という別れは、本当に理不尽です。つらいことです。思い出すと切なくなり、泣いてします。ずっと立ち上がれないほどの痛みです。恐いと感じますし、余りにも悲し過ぎる現実です。死は、私たちにとって避けて通れない事実ですが、出来るだけ、考えたり・見たりしないようにしている事柄かもしれません。
しかし天変地異が続き、疫病の世界的大拡大を目にした時、また自らの肉体的衰えや病を覚える時、自分自身の死も決してはるか遠くにあるのではなく、もしかしたら近いかもしれないと思います。
そういった地上からの人間の死に対する見方と同時に、それとは違う天からの神様の視点・イエス様の視点も、私たちは覚えていきましょう。ラザロの墓の前で涙を流されたイエス様は(ヨハネ11:35)、ラザロを墓の中からよみがえらせてくださいました。一人息子を失ったやもめの母親に「泣かなくてもよい」(ルカ7:13)と御声をかけ、その子をよみがえらせてくださいました。そして主イエスご自身も、死を打ち破り、よみがえらされ、墓から出られたのです。 私たちもこの復活のいのちにあずかっています。主と共に死に、主とともによみがえるのです。新しい世界、天の御国でよみがえり、栄光のからだを着せられ、主と共に永遠に歩むのです。
この朝、与えられたみことばから、私たちの死の瞬間にも、私たちと共にいてくださり、私たちを案じ、見守っていてくださる救い主キリストを覚えましょう。主イエス様のご愛を確認してまいりましょう。
与えられたみことばは、ステパノの死の場面、殉教の場面です。キリスト教会最初の殉教者は、十二使徒でも牧師でもありませんでした。一人の信徒リーダー、役員であったステパノでした。壮絶な死に方だったでしょうが、聖書はこの時、ステパノがどれほど痛めつけられたのか、ぼこぼこに傷付けられたのか、血を流して、うめき苦しんだのか…、そんな様子については、ほとんど触れません。それよりも壮絶な死に際にあっても、ステパノが見上げていたお方、信頼し切っていたお方に、私たちの目を向けさせるのです。ステパノをここまで命懸けにさせてくださったお方、ステパノに最高にすばらしい使命と真のいのちをお与えになったお方を、みことばは指し示しています。
ステパノを糾弾していたユダヤの宗教指導者たちは、ステパノの言葉を聞いて、怒り狂います。我らは「神に仕える聖職者」、我らこそ「神を敬い、神の律法を順守している義人だ」と自負していた彼らにとって、
「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」(7:51―53)
とのステパノの指摘は、余りに辛辣で、断じて受け入れらないメッセージでした。 「この正しい方=神の御子=救い主イエス・キリストを殺した張本人こそ、あなたがた宗教指導者なのだ!」この指摘は、イエスを神を冒涜する者として処刑した彼らにとって、 ― 法(神の律法)の番人として、正義を実行したと思っていた彼らにとって ー 心外で、誹謗中傷に聞こえました。 宗教家たちは、「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしり」(54節)します。この「はらわたが」の所には、注が付いている聖書では「心をのこぎりで引き切る」とも記されています。あまりの激しい怒りに、目は完全につり上がり、身体全体から怒りが蒸気のように沸き上がっていました。
そんな怒り狂う人々とは全く対照的にステパノは、おだやかです。平安に包み込まれています。
55,56節、 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
イエス様が見えていました。心の目、信仰の目、霊の目が開かれていたステパノが見つめていたのは、天の父なる神様のご栄光と、そこにおられる主イエス・キリストのお姿でした。 使徒信条で私たちは、主イエス様が、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」と告白します。聖書のヘブル人への手紙の中にも、
「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(1:3)
と記されています。権威と力に満ちている王様は、普通、玉座にどっしりと腰を下ろしているはずです。けれどもステパノがこの時、目にしたのは座っておられるお方ではなく、立ち上がっておられるイエス様だったのです!天から身を乗り出すようにして、危機迫るステパノを見つめ、心配してくださっている主イエス様を見たのです。これから天に引き上げるステパノを、両手を広げ待っていてくださる主イエス様を見たのです。
怒り心頭で周りでわめき立てている宗教家には、たわ言としか聞こえませんでした。ステパノから「見なさい」と言われて、上を見ても、そこには最高法院(議会)の豪華な天井しか見えませんでした。普通では見えないもの(天上の主イエス)を、見ることが出来たステパノと、それが見えなかった宗教家(議会の天井しか見えなかった)たちでした。
もしかしたら、ステパノはイエス様の裁判の場面と十字架で死なれる場面に、立ち会っていたのかもしれません。それはステパノの最期の言葉が、イエス様のそれと瓜二つだからです。キリストを信じ、キリストをいつも思っていたステパノだからこそ、キリストに似せられていたとも考えられます。 「人の子が神の右に立っておられる」(使徒7:56)、この言葉は、イエス様ご自身が裁判の被告人席で、ご自身のこととして語っておられました。「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」(ルカ 22:69)。 数か月前、まさに同じ場所(最高法院)で、同じ立場の者(神を冒涜した宗教的大罪を犯した者として捕え、糾弾し、裁判にかけた被告人、最初からこいつを亡き者にしようと企てていた)から、同じ人たち(議員たち:祭司・宗教指導者・権力者)に向かって、同じような発言がなされたのです。
聞かされた議員たちは激情し「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた」(57,58節)。これを読みますと、ステパノの処刑は突発的に起こった不幸な出来事のように感じられます。カッーと怒った指導者が、「やっちまえ!」と怒りに任せて犯してしまったことだと。しかし、どうもそうではないようです。イエスを亡き者にし、その弟子たち=クリスチャンたちを迫害しようと企んでいた指導者たちは、巧妙に策を練っていたようです。 ステパノを町の外に追い出し、先ほど聖書交読した申命記17章の文言にならうように処刑したのです。「彼は、先に十字架で死刑となったイエスと言うペテン師を、よみがえった神の子だと吹聴し、このイエスを礼拝するようにと教えている。真の神以外の別の神を教える不届き者だ、こんな重罪人は石打ちにせよと、律法で命じられている。ステパノのその証言を聞いた何十人もの証人がいる。死刑に処さなければならない」と。
そしてステパノ殺害から、すぐに用意してあったかのように、8章1節で「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」 その日=ステパノが殉教したその日に、教会を一網打尽(いちもうだじん)にしようと迫害が激化したのです。ステパノ殺害をきっかけに、それから教会殲滅(せんめつ)作戦を実行することが、前もって仕組まれていたようです。
恐ろしいことですが、石打ちという処刑方法が当時ありました。現代でもそれが実行されている国や地域があると報道されることがあり、恐ろしくなり、つらくなります。当時のイスラエルの石打ちには、一定の手続きが定められていました。
① 死刑宣告(石打ち)が出た者は、町の外に連れ出されます。
② 着ていた衣服を引きはがされます。
③ 激しくむち打たれます。
④ 高いがけから突き落とされます。
⑤ 上から大きな石が次々に投げ込まれ、命を取られるのです。
想像するだけでも恐ろしい処刑方法です。ステパノはそんなさ中、開いた天上におられる主イエス様を見ることが出来ました。主イエス様が、そのお姿をステパノに見せてくださったのでしょう。次から次へと、恐ろしい怒りと殺意に満ちた石が、自分に向けて投げつけられる中、ステパノは祈ります。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(59節) 両手をひろげ、天で待っていてくださるイエス様に、私の霊・たましいをおゆだねします。どうぞあなたのおられる天に私のたましいを引き上げてくださいと。 十字架上でイエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46)主イエス様が、天の父に祈られたのと、同じようにステパノはイエス様に祈ったのです。
ステパノの最後の叫び・祈りは、もっと衝撃的です。60節、 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
自分をおとしめ、痛めつけ、殺そうとする人に向かって、いったい誰がこんな祈り・願いをささげられるでしょうか!? しかも大声で叫んでいます。敵としか思えないような相手です。ねたまれ、のろわれ、ひどいことをいっぱいする相手に向かってです。怒りの言葉や呪いの言葉や、うらみつらみを吐いて当然のように思えます。けれども主イエス様を見つめていたステパノは。あの十字架上でのイエス様の祈りにならったのです。 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) ステパノはイエス様のように祈りました。
あの人たち=自分を殺そうと石をぶつけてくるあの人にも、主イエス様の愛が、赦しが、恵みが、救いが必要だ。それが届いてほしい。あの人にも主イエスの救いが届くのだ。イエス様はあの人のためにも十字架で身代わりに死んでくださった。イエス様を見つめ、イエス様の御声を聞いていたステパノはイエス様の愛で満たされていました。
その場に居合わせたサウロ(後の大伝道者パウロ)にとって、このステパノの祈り、最期はあまりに衝撃的だったでしょう。事実、彼は主イエス様にとらえられ、救われ、主のために生きるひとに180度変えられていくのです。
ステパノの殉教、この出来事で素晴らしいのはステパノの勇敢さや信仰深さというよりも、ステパノをこのような愛の人に造り変え、生かし、用いてくださった主イエス様の素晴らしさでしょう! 天の王座に座ってなどいられなくなり、立ち上がって、身を乗り出してくださっている主イエス様です。あなたのためにも、私のためにも、主イエス様はそうしてくださっています。 この主を信じ、感謝しつつ、これから11月の聖餐式にあずかりましょう。
祈ります。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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