使徒の働き8章1―8節
1. サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
2. 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
3. サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
4. 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
5. ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
6. 群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。
7. 汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。
8. その町には、大きな喜びがあった
礼拝メッセージ
2022年11月13日
使徒の働き 8章1―8節
「マイナスからプラスに」
おはようございます。創世記の登場人物たちの中でも、ヨセフが好きという方がおられるのではないでしょうか? 山あり谷あり人生、いや試練続きに思われるヨセフの人生でしたが、主なる神様はいつもヨセフと共にいてくださり、ヨセフもそんな主を意識しながら、誠実に歩み続けます。
そして創世記終わりの章を先ほど交読しました。かつて自分のことを殺そうとした兄たち、井戸に放り込み、そして奴隷として自分のことを売り飛ばした兄たちとの対話です。父ヤコブが亡くなり、埋葬を終えた後、兄たちはヨセフがあの時の仕返しをしてくるのではないかという恐怖にとらわれます。ヨセフの前にひざまずいて、亡きお父さんの遺言を持ち出して、赦しを乞うたのです。 ヨセフは兄たちに優しく語りかけます。
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」
実の弟を殺害しようと企んだ…完全に悪としか思えないようなことを、主は大いなるご計画の中で、良いこととしてくださったのです。先にヨセフが奴隷としてエジプトで売られた。そのヨセフを通して、後に父たち・兄たち、全家族が飢きんを逃れ、エジプトで養われ生かされたのです。
人間の目にはマイナスとしか思えないようことも、主なる神様の大きな御手の中で、神様の大いなるご計画の中で、プラスに変えられる。私たちもそう信じています。
開きました使徒の働き8章の冒頭部分もまさにそうです。直前の7章では、ステパノが殉教しています。石打ちの刑で殺されたステパノ。その殺害が引き金となって、教会に対する大迫害が起こります。「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」 ステパノの死を悼む間もなく、悲しみにひたる余裕すらなく 、すぐにクリスチャンを攻撃する魔の手が伸びて来ます。(2節に「敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。」と記されている敬虔な人たちとは、まだクリスチャンになっていなかった敬虔なユダヤ教徒たちで、ステパノを尊敬し、慕っていた人たちではないかと考えられます。)
その迫害の中心にいたのが、「サウロ」という人物でした。彼は後の「パウロ」です。まだ、よみがえられたイエス様と出会う前の大のキリスト教嫌いであった頃のサウロです。サウロは、ステパノを殺すことに賛成し、3節で「サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」と、クリスチャンたちを捕らえ、男性も女性も関係なく、牢獄にぶち込んだのです。
しかし、イエス様がもたらしてくださった福音宣教は、聖霊が推し進めていた福音宣教は一歩も後退しませんでした。かえって前進したのです。迫害を避け、国を離れ、逃亡生活を余儀なくされた信徒たちが、逃げて行った先々で、主イエス様のみ救いの素晴らしさを証しし続けたのです! 4節、「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」。
この時、信徒たちの身の周りで起きたことは、否定的なことばかりでした。みんなが尊敬していた教会役員のステパノがむごたらしく殺されました・・・。仲間たちが次々に投獄されていました・・・。我が身に危険が迫るのをひしひしと感じながら、遠くへと落ち延びて行こうとしています。人間的に見るならマイナスとしか思えないような状況でした。 しかし、神様の大きな御手の内にあって、それらは一つもマイナスとならず、かえってプラスの出来事となっていくのです。エルサレムから遠くへ散らされていった信徒たちは、行った先々でみことばを宣べ伝えていきます。逃亡生活を「マイナス」としないで、福音宣教の拡大という「プラス」の出来事としていったのです。困難が挫折・後退・撤退につながらず、かえって前進していくのです。
もしも私たちが同じような立場に置かれたとしたら、どうでしょうか? この礼拝堂の後ろの扉が突然バーンと開き、敵対勢力が怒鳴り声をあげ、武器を持って侵入して来ます。何が起きているのか分からないうちに、ある人たちは捕らえられ、どこかへ連行され、拉致監禁されます。悲鳴が上がり、危険を察知した人たちは、一目散に前方の扉から出て逃げて行きます・・・。そんなことが実際に起きてしまったら、私たちはどのように考えるでしょうか? 主イエス様への信仰を守り抜けるでしょうか? 初代教会の信徒たちのように、生きることができるでしょうか?
二千年ほど前、大迫害に遭い、散らされた信徒たちは、行った先々で何を伝えたのでしょうか? 自分たちが、どんなにひどい目に遭わされたかという「苦労話」でしょうか? いいえ。彼らは自らの体験談でも、自分の感情でもなく、4節にあるように「みことばの福音」を伝えました。聖書のみことばです。当時、まだ新約聖書はできていませんでしたから、彼らは旧約聖書のみことばから、そこに預言され、約束されている救い主キリストがすでに来られたのだ! この方こそ十字架に死に、よみがえってくださった主イエス様なのだ。この方以外に救いはないと、みことばから主イエス様を証ししました。
初代教会の信徒たちには、迫害も逃亡生活も、決して「マイナス」とはなりませんでした。反対にイエス様が語ってくださったあの約束=「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)この約束に従うことができる「チャンス」ととらえ、その通り実行していったのです。「マイナス」ではなくて「プラス」、「ピンチ」ではなくて「チャンス」でした。
そんな信徒たちの具体例が挙げられています。5節から登場するピリポです。このピリポもステパノと同じように、最初に選ばれた七人の教会役員の一人でした。「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」(6:3)だったと記されています。そしてピリピもステパノ同様、信徒でした。信徒の立場でキリストを力強く証しする「信徒伝道者」でした。ピリポも今回の大迫害に遭い、エルサレムを脱出し、各地を転々と巡り歩きます。そしてやって来た場所は「サマリアの町」でした。
サマリア人は、ユダヤ人にとってお隣に住んでいる民族でありながら、憎き宿敵でした。対立の起源は、イスラエルが南北に分断していた紀元前700年頃にさかのぼります。サマリアを都とする北王国が、巨大なアッシリヤ帝国に滅ばされた時、アッシリヤは北イスラエルの人たちに異邦人(外国人)と結婚するようにと命じます。民族の誇りや純血を失わせ、アッシリヤに服従させようにと企んだのです。そんな歴史の経緯で混血となってしまったサマリア人を、ユダヤ人は軽蔑し、見下していました。彼らと会話をするなんてもっての他、サマリア人の土地を素通りすることさえ、忌み嫌っていました。
ユダヤ人とサマリア人お互いの感情は、マイナスとマイナスでした。相手を否定し、ののしり合っていました。けれども、ヨハネの福音書4章に記されているように、まず主イエス様が、民族の壁・対立する両者の関係を乗り越えてくださいました。イエス様ご自身が、サマリアの町に入って行かれ、一人のサマリアの女性に声をかけてくださいます。それがきっかけとなって、その町の多くの人たちが、イエス様を信じたのです。そして、イエス様は「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と、サマリアにも救われるべき人たちがたくさんいる。福音が語られることを待っている人たちがたくさんいると、語ってくださっていました。
ピリポはこの時、マイナスの感情ではなく、喜び勇んで、大きな希望を抱いて、サマリアの町に入って行ったと思います。ピリポが福音を語ると、みなそろってピリポのメッセージに熱心に耳を傾けたのです。その結果、8節に「その町には、大きな喜びがあった」と!大きな喜び。とてつもない喜びです。
ステパノの殉教から始まった大迫害・・・。人間的に見るならば、「マイナス」でしかありませんでした。クリスチャンたちが痛めつけられ、投獄され、逃亡生活を余儀なくされる・・・。ちっとも良いことなんて無いじゃないかと思われるでしょう・・・。けれども、神様のご計画のうちにあっては、このことも益であり必要なことだったのです。大迫害をきっかけに、キリストの福音がエルサレムを越えて、外へ外へと拡大していきました。特に、あのサマリアの人たちが福音を受け容れました。マイナスではなくプラス、完全にプラスでした。
よく「ど根性○○」という植物の写真が、メディアで取り上げられたりします。コンクリートとコンクリートの本当にわずかな隙間から、水仙やタンポポや、ときに大根のような野菜が芽生え、大きく成長しているというニュースです。やわらかい土の中から伸びてくる水仙もきれいなのですが、私はなぜか「ど根性水仙」の方に目がいってしまいます。厳しい環境・・・マイナスとしか思えないような状況から、必死に芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせている姿に感動します。
もしかしたら、神様が私たち人間を見ておられる視点もそれと似ているのかなあ・・・と考えます。マイナスとしか思えない状況の中で、私たちが「ああ、もう駄目だ。無理だ・・・なんでこんなひどい目に遭わなきゃいけないんだ・・・」と不平不満をぶつけ、否定的になって、あきらめてしまうのか・・・。それとも、厳しい現実をしっかりと見詰めながらも、その中で愛の神様のご支配を信頼し、神様の恵みと祝福は変わらないことを信じて、マイナスをプラスとしていけるかどうか。私たちが前向きに、積極的に生きていけるかどうかを神様は見守っておられるのではないかと感じました。
8章1節と3節に出てくる「サウロ」、後のパウロにとって、以前、教会を荒らし、多くのクリスチャンたちを痛めつけた「過去」は、消そうと思っても決して消せない過去でした。思い出すのも辛くなる過去だったでしょう・・・。けれども、後にパウロは、「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です」(ローマ1:14)と語っています。あんなにひどい罪を犯してしまった自分が、キリストによって救われた。罪を赦して頂いた。だからこそ今度は、このキリストの福音を命がけで、世界中の人たちに伝えていきたい。いや伝えなくてはいけない「負い目」を私は負っていると自覚していました。過去のあの罪が、あの罪を赦して頂いた経験が、後のパウロの宣教の原動力となっていました。クリスチャンを迫害してしまったというマイナスの経験、神様はそれを、命がけでキリストを伝えなさいという宣教へのプラスの力に変えてくださったのです。
私たちも一人ひとり様々な「過去」を背負っています。あの「過去」に自分が縛られてしまっているように感じているかもしれません。「あの時の、あの出来事がなかったら、今の私はもっと明るく、もっと幸せに生きていられるんじゃないか」と考えたりします。私たちは過去に味あわされた「心の傷」や「マイナスと思える経験」に縛られてしまいやすい存在です。 けれども私たちは、自らの過去を「人間的な視点」ではなく、「神様の恵みの視点・神様の愛の視点」で見詰めなおしていきたいと思います。マイナスとしか思えなかった「あのこと」、「このこと」が、実は、神様が私のために備えてくださっていた必要な試練だったのだと気付かされる。「不幸」としか感じられなかった「過去」が、あの「過去」があったから、今の私がいるのだと感謝できるようになる。神様は、そのように私たちの心を癒し、傷ついた私たちに回復を与えてくださると信じます。 すぐには、それが見えて来ないかもしれません。回復には長い時間がかかるかもしれません。しかし、マイナスをプラスに変えてくださる全知全能の神様を信じて、神様の温かな御手を信じて、これからも歩んで行きたいと願います。 お祈りしましょう。
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
① マイナスとしか思えなかった出来事が、神様の御手の中で、プラスに変えられた。そんな経験があったでしょうか?
② 遣わされた場所で、意図せずに行ったところで、また思いがけず出会った人に、福音を分かち合うことが出来た。教会の集会におさそいできた。そんな経験があったでしょうか?
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
0コメント