元旦礼拝「イエス様が真ん中に」

ヨハネの福音書20章19-26節19. その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20. こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21. イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22. こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23. あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」24. 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25. そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26. 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

元旦礼拝メッセージ

2023年1月1日

ヨハネの福音書20章19-26節

「イエス様が真ん中に」


 新しい年を迎えました。祈りましょう。


 天の父なる神様、あなたは太陽と月を創造され、宇宙も地球もすべてを創造された偉大な神様です。あなたが、私たち人間のために暦を作られ、1年という節目を与えてくださいました。

 新しい年、2023年が今日から始まったことを心から感謝します。新しい歩みが始まります。今年、新たに挑戦すること、今年、大きく変わっていくこと、今年、実現いくこと、そんな新しさに期待が膨らみます。

 また新しさと同時に私たちの地上での人生は継続しています。新しい年になっても、昨年からのものを、これまでのものを私たちは引き継いでいかなければなりません。それが、うれしいことだけなら良いのですが、つらいことも、大変なことも、痛みも継続して担っていかなければなりません。

 主なる神様、もう一度、私たちはあなたの御前にひざまずきます。私たちは無力です。あなたが支えてくださり、守り導いてくださらなければ、生きていけません。神様、あなたの全能の力と知恵に頼らなければ、私たちは自分の人生を、家族を、仕事を、学びを、人との関係を、担っていくことができません。

 どうか今年も、私たちの歩みを、この福井中央キリスト教会の歩みを、教会につながるお一人お一人とそのご家族の歩みを、完全に守り導き、神様の祝福で満たしてください。

 今朝、元旦礼拝に集いたいと願いながらも、職場やご家庭で仕えておられる方のことも覚えます。どうか神様、お一人お一人をお支えください。必要な助けをお与えください。

 新しい年が始まるこの朝、あなたからの御言葉を待ち望みます。救い主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りします。アーメン


 2023年の教会主題聖句は少し長いのですが、ヨハネの福音書20章19節が与えられました。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 

 今年は元日も大みそかも日曜日:主の日です。礼拝で始まり礼拝で終わる一年です。そんなことから日曜日:週の初めの日に関わるみことばを探しました。日曜日は創世記1章3節で、神様が「光、あれ。」と仰せになり、天地創造を開始された第一日目です。そして、私たちの主イエス様が墓の中からよみがえられた喜びの日、希望の日です。

 しかし、その日曜日におびえ、かぎをかけた家に身を隠していた弟子たちがいました。窓という窓はかたく閉じられていたでしょう。イエス様を十字架に追いやったユダヤ当局(宗教指導者や政治指導者たち)が、今度は弟子たちを逮捕しようと手を伸ばして来てもおかしくない状況でした。

 当時の家の造りは、入り口に外開きの戸が付いていました。中からかんぬきをかければ、外部からの侵入を防ぐことが出来ました。日本のお城の門をイメージすると分かりやすいでしょうか。厳重に施錠した室内で弟子たちは息を殺していました。多くの弟子たちは、気が動転して、うろたえていました。

 その日の朝、マグダラのマリアや女性たちが、イエス様が埋葬されたお墓を訪ねていました。「墓石が動いていた。天使がそこにいて、『ここにはおられません。よみがえられたのです』と告げてくれた。そして、本当によみがえられた主イエス様とお会いしたの!」と興奮して駆けてきました。ペテロとヨハネが確認しに走っていったところ、本当に墓の中はもぬけの殻だったのです。さらにエマオの村から走って帰って来た二人の弟子たちも、「復活されたイエス様と再会した!」と言うのです。

 多くの弟子たちは、何が起きているのかわけが分かりませんでした。イエス様が復活したと聞かされても、すぐには信じられませんでした。十字架で壮絶な亡くなられ方をし、埋葬されたばかりでしたから、半信半疑でした。そして恐れに捕らわれていました。

 あの金曜の晩からずっと、前の道を歩く人の足音が近付くたびにおびえていました。玄関のかんぬきがきしむたびに、弟子たちはびくびくしました。日曜日の夕方になり、道行く人が少なくなっても、その恐れは変わりませんでした。

 この時の弟子たちの姿は、まるでここ数年の私たちのようです。私たちも恐れています。目には見えないコロナウイルスの存在に。それに感染することのリスクにおびえています。それは病気にかかって命の危険にさらされるのではないかという恐れ以上に、感染することで周りから冷たい目で見られるのではないか、批難されるのではないかという人の目・世間の目を恐れて来ました。様々な専門家の声、メディアの声、世の中の声にも脅かされ続けています。

 ヨーロッパでは戦争が激化し、その影響でエネルギー危機や物価高騰の中にいます。隣国から日々ミサイルが発射されたとのニュース速報を目にしています(当たり前に感じるようになって、緊張感が薄れつつあるのですが…)。異常気象、天変地異もずっと続いています。

 そして私たちが住んでいる地域では、人口減少、少子高齢化、働き手不足、さらに資材不足ということを切実な状況として日々感じることがあります。うちの子たちが通うようになった病院のすぐ隣の薬局が、ある日突然、「薬剤師さんの人手を確保できませんので」という理由で閉じられていました。サービスを求める人に対して、それを提供できる働き手が足りていないように感じることがあります。

 コロナ禍になって、私たちは様々な扉を閉ざすようになりました。感染防止のため致し方無いのでしょうが、外部の人と直接会うこと、顔と顔を合わせて話すこと、一緒にご飯を食べること、素顔を見せることが難しくなりしました。物理的扉を閉ざしたのと同時に、心の扉も閉ざしました。「県外から観光に来るなんて、このご時世に、あの人は何を考えているのかしら」と、県外ナンバーを付けた車に冷たい視線が注がれたこともありました。

 加えて、私たちは一番大事なお方に対して心の扉を閉ざしてしまう時がありますね。神様のことを思うことなく一日を過ごしてしまうのです。みことばに心を開かず、祈りを忘れてしまう私たちです。 

 私たちのこの社会も、2000年前の弟子たちも恐れに捕らわれて、心の扉を閉ざしています。しかし、そこに主イエス様が来てくださるのです。そんな閉ざされた扉などいとも簡単にすり抜けて、イエス様が入って来てくださり、私たちの真ん中に立ってくださるのです。

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 復活されたイエス様は幽霊ではありません。身体をもっておられるお方です。魚をむしゃむしゃと頬張ってくださいます。それでも十字架前の人間の普通の身体とは違うよみがえりの身体でした。自由に出たり入ったりできる身体。突然現れたり消えたりもする身体だったと、聖書は記しています。

 そんな復活されたイエス様が、まだ復活を信じ切れない弟子たちにお姿を見せてくださったのです。弟子たちの真ん中に立ってくださるのです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、マリアと一人ひとりの顔を見て、目を合わせてくださるのです。驚きと恐れでいっぱいの彼らの表情を見て、安心させるように、イエス様はほほ笑んでくださったのではないかなあと、私は感じました。そして語りかけてくださいます。「平安があなたがたにあるように。」19節でも、21節でも、一週間後の日曜日にも繰り返して26節「平安があなたがたにあるように。」と。

 「シャローム、アレーケン」というヘブル語のあいさつだったでしょう。イスラエルの人たちは、朝も昼も夜も「シャローム」とあいさつを交わします。「平安がありますように」という、素晴らしいあいさつです!

 「シャローム」は、「平和」・「平安」と訳されます。「平和」・「平安」と聞くと、「戦争や争いが無いこと」、「平穏無事な生活」、「心おだやかに暮らすこと」といったイメージが浮かびますが、もちろん私たちはそのような平和を願います。しかし、それ以上にヘブル語の「シャローム」には、もっとエネルギッシュでダイナミックな意味があるのだそうです。

 人間の命に関わる言葉で、私たちの体の中に血液が巡っていて、どこか切れば血が吹き出てくるような「内側に満ちている、満ち足りている」状況を「シャローム」は表しているそうです。心も体も満たされている、そんな良い状態のことです。ですから「シャローム」には、「いのちが満ち溢れている」、「生き生きと生かされている」、「生きていてうれしい!」、そんな意味があります。

 南国のビーチで一日中寝転がっているような、または温泉につかって身体を伸ばすようなそんな時に感じるのが「シャローム」でしょうか?

 そんな非日常の「シャローム」も時々、私たちは必要としていますが、それ以上に、日々の生活の中で「シャローム」を、心満たされて、活き活きと生きることこそ私たちの本当の幸せではないでしょうか。

 そのために主イエス様は、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と、私たちに主のお働きを託してくださり、その使命に生きるようにと、今日も、今週も、今年も私たちを世に遣わしてくださるのです。

 そして主のお働きを実践できるように、私たちのために助け主=聖霊なる神様を与えてくださるのです。こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 恐れてしまう状況の中でもシャロームを

  問題だらけの中でもシャロームを

   イエス様は私たちに本物のシャロームを与え続けてくださいます。

 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

 復活されたイエス様と出会った弟子たちは喜びました。そしてイエス様から再び弟子としての派遣命令を頂いたのです。キリストの御救いと復活を宣べ伝える証人としての使命を託されます。一度は裏切った弟子たちでした。「もうお前たちなんか失格だ。信頼できない」とはイエス様はおっしゃらなかったのです。もう一度チャンスを与えくださったのです。


 それなのに一週間たっても、次の日曜日も弟子たちは、同じように恐れて、ずっと家に閉じこもっているのです。聖書ではその日も日数としてカウントしますので、「八日後」とは、私たちの感覚ですと「七日後」ちょうど一週間後のことです。

20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

 これは、まるで私たちのようです。ときに恐れや重い気持ちを抱えて日曜日、教会にやって来ます。主の日の礼拝で神様から励まされ、みことばに力付けられて、世に遣わされていきます。それでもまた落ち込むことがあって、疑ってしまうことや見失うこともあって、次の日曜日、心の扉が閉ざされたような状態で再び教会に戻って来ます。そんな心の中に、私たちの真ん中に主イエス様が立っていてくださるのです。そして「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださるのです。

 意気消沈し、希望もやる気も失っている弟子たちのために、私たちのために。へなへなと座り込んでいる弟子たちの、私たちの真ん中に主イエス様は立っていてくださるのです。そして「さあ一緒にここから!」と手を取り、立ち上がらせてくださるのです。

 平安があるように。それは、神様のとの関係、主イエス様との関係が回復し、生き生きと生かされていくことです。今日この日から一週間後、毎週日曜日ごとに、私たちを呼んでくださる主の招きに応えて、この年も集まり続けていきましょう。「平安が、シャロームがあるように」と慰め、励まし、導いてくださる主を求めて、ともに礼拝に集ってまいりましょう。

祈ります。

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