「弱さをも用いてくださる神様」

使徒の働き 15章36節―41節
36. それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」37. バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。38. しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。39. こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、40. パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。41. そしてシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。

礼拝メッセージ

2023年6月11日

使徒の働き 15章36節―41節

「弱さをも用いてくださる神様」


日本昔話の「桃太郎」は、おばあさんが作ってくれた日本一美味しいきびだんごをあげることを交換条件に、犬・きじ・猿を仲間に加え、鬼ヶ島へと出かけて行きます。「旅は道連れ世は情け」と、ことわざが言うように、同行者のいない旅は心細いものです。(一人旅の方が気楽で良いという場合もあるでしょうが)

しかし今日の聖書個所は、再び伝道旅行へと立ち上がるにあたって、大切な道連れとけんか別れしてしまったという出来事です。

使徒の働きは、パウロが遣わされた第2回目の伝道旅行に入って行きます。「もう一度、伝道旅行へ出て行こう!」そう決めた理由は、15章36節「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか」とのパウロからバルナバへの提案に示されています。前回、訪問した各地にイエス様を信じる新しいクリスチャンが生み出されていました。各地に教会ができていました。パウロは、なつかしい彼らの顔を思い出して、もう一度、会いたいと願います。一人ひとりが、主イエス・キリストへの信仰に堅く立ち続けていられるように励ましに行こうと決めました。

けれども、この第2回伝道旅行は出だしからつまずいてしまいます。トラブル・問題が発生します。これまでずっと主のためにと力を合わせて働いて来た同労者パウロとバルナバが仲たがいしてしまうのです。けんかの原因は、「マルコを仲間として連れて行くか否か」ということでした。

マルコは、後に『マルコの福音書』を書いた人物です。ギリシャ語の名前がマルコ、ヘブル語ではヨハネでした。「主は恵み深い」という意味です。十二弟子ではありませんでしたが、イエス様のそばにいて、イエス様を信じていました。実家はかなり裕福だったようで、マルコの家は最後の晩餐の場所として、またペンテコステの日、皆が集まり祈っていた場所として用いられていました。

マルコは、バルナバのいとこでもありました。第1回伝道旅行の際、マルコはバルナバとパウロの助手として同行していました。しかし途中、一人先にエルサレムに帰ってしまったのです。なぜそうしたのか? 理由は分かりませんが、何かあったのでしょう。マルコは前回、途中棄権していました。

パウロは、福音宣教という神様の大切なお働きを途中で放り出して、逃げ出してしまうようなマルコは、もう連れて行けないと主張しました。献身者・伝道者としてふさわしくないという厳しい考え方でした。それに対しバルナバは、「慰めの子」というあだ名の通り、優しい人でした。「マルコはまだ若い、やり直す機会を与えてほしい」と、パウロにお願いしました。

パウロとバルナバは、このことで大げんかをしてしまいます。激しく議論を戦わせ、どちらも妥協することなく、対立したまま、それぞれ別々の行動を取ったのです。

皆さんは、そんなもう後戻りできないけんかをしてしまったことがありますか? 夫婦げんか、兄弟げんか、親子げんかなど、ささいなことがきっかけとなって言い争ってしまいます。夫婦でともに教会に仕えていた頃、妻が「教会の〇〇さんのために、こんなことをしてあげたいな!」と提案してくれた時、私は「あまり色々やり過ぎると、相手にとって重荷になっちゃうよ…やめておきなよ」と否定的な言葉を投げ返していました。そして言い争いになり、なかなか収拾がつかなかったことがありました。

意地と意地の張り合いというのでしょうか、それぞれに主張があり、こだわりがあり、それを押し通そうとすると、人間関係に亀裂が生じることがあります。プイっと互いに背を向けたまま、なかなか和解できないとこともあるのではないでしょうか?

我が強く、どうしようもない私たちです。しかし幸いなことに、そんな人間的な弱さ、人間的な欠点をも神様は用いてくださり、益(えき)と変えてくださるのです。

今回、パウロとバルナバは対立し合ったまま、それぞれ宣教地に出かけてしまいました。それぞれ心の中にもやもやした思いがあったかもしれません。けれども宣教の主なる聖霊は、2人の対立を通して、2つの宣教地への道を開いてくださったのです!バルナバはマルコと共に地中海に浮かぶ島=キプロス島へと船出して行きます。パウロはシラスとともに陸路、シリア、キリキアへと旅立って行きます。

人間同士のつまらない争いをも、聖霊なる神様は用いてくださいました。一つだった宣教チームが二つになり、それぞれが自分の故郷(ふるさと)へとまず帰って行って伝道するという宣教の拡大につなげてくださったのです!

その後のパウロとバルナバ、またパウロとマルコの関係は、どうなったと思いますか。そのまま対立したままだったでしょうか?

使徒の働きには、これ以降バルナバの名前は出てきません。この後、どのような歩みをしたのかは分かりませんが、パウロが書いた手紙の中に、「バルナバ」の名前が登場します。第Ⅰコリント9章6節、「あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。」 これは、牧師・伝道者といった主の働き人に対して教会からちゃんと感謝を渡すべきではないですかと記している手紙の一節です。パウロは、宣教や伝道に全身全霊を傾けていた人でしたが、同時にこの世での仕事もしながら生活の糧を得ていました。天幕作り、テントを作るという技術を持っていて、それを生かして働いていました。しかし本来、牧師はこの世の仕事はしないで、教会からの感謝だけで生活できるようにしてほしいと訴えています。

パウロは、そんな自分とバルナバを同じ立場において、ここで語っています。第2回伝道旅行の開始された年はA.D.49年頃、そして、この第一コリントが書かれたのは55年頃とされています。けんかをしてしまい、仲たがいをしてしまった二人ですが、6年後には、同労者としての信頼関係、また友情が回復したと考えられます。

私たちは同じ主イエス様を礼拝する神の家族です。血のつながった家族がそうであるように、小さなことからいさかいが生じることもあります。争いの火種が大きくなって、おおごとになってしまうこともあるかもしれません。けれども、必ずそこに回復の道、和解の道があると信じていきましょう。先ほど交読したⅡコリント5章にあるように「和解の務め」が委ねられています。キリストがいのちをかけて、私たちと父なる神様との関係を和解させてくださった。とんでもない犠牲と愛を頂いている私たちです。この赦し・和解に私たちも応えていきたいのです。

もう一人、マルコとの関係はどうなったでしょうか? パウロが記したコロサイ人への手紙4章10節に、マルコの名前が出てきます。「私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています」 A.D.61年頃、パウロはこのコロサイ書簡を書きました。この時パウロは、福音を語ったがために迫害を受け、ローマの牢獄に投獄されていました。囚人となっていたパウロにアリスタルコという人物が付き添っていました。さらにもう一人、あのバルナバのいとこマルコも一緒にいたのです。そしてコロサイ教会の皆さん、マルコが訪問したら、ちゃんと受け入れてください。そうもう前もって伝えておきましたよね、と確認しています。

以前は、途中で逃げ出してしまったマルコでしたが、ここでは別人のようです。例え牢獄の中であっても、付き添うほどになっていました。パウロに仕え、パウロとともに歩む同労者になっていました。神様の導きの中で、パウロとマルコの関係は修復していました。

もう一箇所、見てみましょう。これもパウロが書き送ったテモテへの手紙第二、4章11節、「ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」 以前は、あんな男は一緒に連れて行きたくない・役に立たない伝道者だと言っていたパウロでした。けれども紀元67年頃、殉教の死が差し迫っている今、獄中にいるパウロは、マルコに来てほしい、そばにいてほしい。彼は本当に役に立つ、信頼の置ける男だと語っています。大きな変化です。

一連の流れを年表にしてみました。年代は前後の幅があることをご了解ください。

マルコ自身も神様に導かれて変えられていたのでしょう。パウロもそんなマルコを見て、心が変えられていったのでしょう。

マルコもパウロもバルナバも、みな神様から選ばれた器でした。立派な伝道者、宣教師でした。けれども同時に人間的な弱さ、罪を抱えた人でした。途中棄権してしまって信頼を失ったり、自分の主張をがんと掲げて、相手を打ち負かそうしたり、大げんかをしてしまったり、みな弱さを抱えた人間でした。そんな彼らを宣教の主、聖霊は用いてくださり、土の器である彼らにイエス様の福音という尊い宝を託してくださったのです。

私たちも、自分自身を見つめていきますと、様々な弱さがあることに気付かされます。やっちゃいけないと分かっていてもしてしまう過ち。言わなきゃ良いのに言ってしまう”仲間の心を傷つける言葉”、また肉体的な弱さや精神的な弱さも持っています。

自らの歩みを振り返る時、ああ私は「マルコ」であり、「パウロ」であり、「バルナバ」でした。偉大な3人には失礼な例えでしょうが、こんな風に自分と関連付けました。

「マルコ」のように、軽い気持ちで仕事を引き受けてみたものの、余りにも難しかったり、面倒くさくて、途中で投げ出したり、逃げ出して、迷惑をかけたこともありました。

「パウロ」のように、自分の真剣さ・一生懸命さに付いて来てくれない人を、「なぜ熱心にちゃんとやってくれないのか」と心の中で非難していたことがありました。

「バルナバ」のように、人と人のバランスを取って、みんなに良い顔をしたくて、その場を何とかやり過ごせればと、正しいことを主張できず、妥協を重ねて来ました。


罪は、神様に赦していただき、罪から離れて行かなければなりません。それでも、私たちは人間的な弱さを今も抱えていることを正直に認めましょう。様々な弱さを抱えながら、私たちは地上の生涯を歩んでいます。不完全な者ですが、神様に赦され・生かされて、主に仕え・人々に仕えて歩んでいくのです。

ヘブル人への手紙4章14~16節にはこうあります。

「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

私たちの強さも弱さもすべてを知っていてくださるお方がおられます。私たちの弱さに同情してくださるお方がおられます。このお方は、人となって来てくださり、人としての限界、弱さも経験された上で、人のすべての罪、人のすべての弱さ、痛み、悲しみを背負って、十字架へと進んでくださいました。このお方のゆえに、私たちは弱さを抱えたまま、大胆に神様のふところに=恵みの御座に近付くことができるのです。

十字架の死に勝利し、よみがえり、昔も今も永遠に生きておられ、弱さだらけの私たちに寄り添ってくださる主イエス様。弱さだらけの私たちを思いやり、生かしてくださる主イエス様をともに見つめながら、委ねられている和解の務めに進んでまいりましょう。

祈ります。


みことばへの応答


Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。


1. ささいなことがきっかけで関係がこじれてしまい、今も和解できていないことがあるでしょうか?






2. 時間が経つ内に、過去の怒りやわだかまりが消えてゆき、修復できた関係があったでしょうか? 




 

3. キリストの大いなる赦し・愛に押し出されて、和解に向けて一歩踏み出していきたいことがありますか?





お祈りの課題など

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