「神が私たちとともにおられる」

マタイの福音書 1章18―25節
18. イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19. 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。20. 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21. マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22. このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23. 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

24. ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、

25. 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

第Ⅲアドベント主日礼拝メッセージ

2023年12月17日

マタイの福音書 1章18―25節

「神が私たちとともにおられる」


先週は私たち家族の病気のために、礼拝をお休みしてしまい、皆さんにご迷惑をおかけしました。回復が与えられ、今日ともに礼拝をおささげできますこと、本当に感謝です。暖冬から一変し、急に寒くなってきました。体調を崩しておられる方もおられます。神様の守りの内に来週のクリスマス礼拝に向かってまいりましょう。

今から約2000年前、ダビデの子孫ヨセフは、イスラエル北部ガリラヤ地方のナザレと言う田舎の小さな村で、大工をしていました。特別な技術を持った職人さんです。木を削り、石を積み上げ、住民のために家を建築していたでしょうか。あるいは家の中のテーブルやいすなどを制作していたでしょうか。お父さんに仕事をならったであろうイエス様は後に、「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁(はり)には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と、ちり(木くず)や梁(屋根や上階の床の重さを支えるための横木、丸太)を例に挙げています。

尊い仕事ですが、それでも以前、一国の王であった人の子孫が、目立たない大工さんとなっていることに驚きと歴史の重みを感じます。日本でもあの織田信長の子孫が、フィギアスケートの一流選手となっていましたので、分からないものです。

ダビデ王の子孫は大工さんになっていましたが、神様のお約束・ご計画にくるいはありませんでした。ダビデの子孫として、まことの王、まことの救い主、イエス様がお生まれになったのです!

1章18節、 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。

ヨセフはこの時、マリアという若いおとめと婚約していました。当時のユダヤ人は男性が18歳から20歳ぐらい、女性は12歳から14歳ぐらいが結婚適齢期とされていました。私たちには信じられない若さですね!また当時の慣習では、親同士が決めた結婚でした。近い親せき同士の結婚が多かったようです。

息子と娘を結婚させ、結ばれる二つの家族は、

まず ① 結婚に合意し、

  ② 花婿(はなむこ)側から花嫁の父に花嫁料が支払われ、

  ③ 両家婚姻(こんいん)関係が公式に発表され、

  ④ 一年間、それぞれが両親のもとで別々に生活し、

  ⑤ 一年後、新婚夫婦として共に生活を始める。という5つの段階を通って行きました。

ヨセフとマリアはこの時、④番目の段階、婚約中の身で、正式に結婚式をあげて一緒に住むまでの一年間の準備期間をそれぞれの家で過ごしていました。その間に、マリアのお腹が大きくなり始めたのです。できちゃった婚(おめでた婚)や未婚の母などあり得なかった“純潔”が最重要視されていた当時のユダヤ社会で、マリアとヨセフが感じたであろう戸惑い・「なぜ!?」という思い、マリアへの信頼と疑いで揺れ動くヨセフの心中、そして恐れ、将来への不安などは、察するに余り有ります。

そんなヨセフに神様は寄り添い、教え、励まし、導いてくださいました。

19-21節、 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 マリアのもとにも遣わされた主の使い(天使)が、ヨセフの夢に遣わされ、イエス様誕生の神秘を伝えます。人の手による赤ちゃんではない。聖霊によって宿った神の子・救い主なのだと。それを聞いたヨセフは、「ああ、自分は孤独ではない。神様がともにおられる。私たちは大いなる神様のご計画の内にあるのだ」と実感し、疑問や恐れを取り除かれ、マリアを正式に妻として迎え入れ、イエス様の誕生にともに向かっていったのです。

2000年前のヨセフとマリアと同じように、みことばと聖霊によって、私たちはいつも、どんな状況でも、神様がともにいてくださることを体験していきます。

あなたにとって、神様はすぐかたわらにおられるお方ですか? それとも遠くに感じてしまったり、おられないように感じてしまいますか?

アメリカのカントリーミュージックに「FROM a DISTANCE」という題名の曲がありました。日本語にすると「遠くから」といった感じでしょう。少し距離を置いて、色んなものを見て行きましょうよ!といった内容でしたが、その中に「神様も、私たちのことを、はるかかなたから見守っているよ」といった歌詞がありました。

どうでしょうか? みなさんにとって神様はどのような存在でしょうか? 私たちのすぐ近くにおられて私たちを見守っていてくださると感じるでしょうか? それとも「宇宙のはるかかなたに。天高くに。遠くにおられる」というイメージでしょうか?

2000年前に起こったクリスマスの事実は、神の御子=イエス・キリストが人となられて来られたことです。しかも、小さくて弱くて、自分では何も出来ない赤ちゃんとなってお生まれなったことです。この出来事を通して、私たち人間が知ったことは、インマヌエルでした。インマヌエル=神様がいつも私たちと共におられるという事実です。

1章23節、「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 旧約の預言者イザヤに与えられた神様の約束、

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)

が、その通りに、目の前で起こったと、マタイは証言しました。

神様は、はるかかなた=天上からいつも私たちを見下ろし、見張っているお方ではないのです。そうではなくて、いつも共にいて、私たちと共に歩んでくださるのが、私たちの神様なのです! イエス・キリストの誕生は、この事実を私たちに、はっきりと知らせるためだったのです。

これからのクリスマス・お正月の時期は、誰かとともにいること。大切な人とつながっていることを求める時期でしょう。しかし、そうではない自分を見つけ、寂しさを覚えることもあります。「自分は一人ぼっちだ」、「誰からも理解してもらえない」、「誰からも愛してもらえない」と、否定的な感情に支配されることもあるでしょう。

周りに誰も人がいないから、寂しさを感じるのでありません。そうであれば、寂しさを紛らわせるために人混みの中に出かけて行けばいいでしょう。しかし私たちは、たとえ周りに家族や友人、彼氏・彼女がいても、それだけでは決して満たされない孤独を抱えているのです。

この世のもの・この世の人では埋めることのできない「根本的孤独」を私たちは抱えています。私たちは、その「根本的孤独」を解決してくれる「絶対的」なものを心のどこかで探し求めているのです。

聖書は、そういった「根本的」事柄、「絶対的」事柄について、私たちに教えている書物です。聖書は、まず主なる神様ご自身が、私たち一人ひとりを何よりも大切な存在として愛してくださっていることを伝えています。

例えば、旧約聖書の申命記32章10節には、

「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。」

と、神様は、私たち一人ひとりを大事なご自身の瞳のように、大切に守っていてくださることが語られています。

またイザヤ書41章9、10節には、 

わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

どんなものよりもはるかに力強い神様が、私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださっているのです。

イエス様もマタイの福音書10章30節で、

「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」

と語ってくださいました。自分でも決して分からない髪の毛の本数、そこまで私たちのことすべてを神様は知っていてくださり、私たちを守っていてくださるのです。本当にすごいことです。

この神様の愛、この神様に愛されていることを、私たちが心底実感し、神様の愛を信頼して生きていく時、私たちは寂しさからの解放=「本当の解放」を与えられるのです。

けれども、そうは言っても、「私たちの現実は厳しい…現実は辛くてたまらない…」そう思う方もいるかもしれません。「本当に神様はこの私を愛しているの?」と疑いたくなるかもしれません。悲しみや寂しさで心が覆われる時、神様が自分を愛してくださっていることを信じられなくなってしまうのです。

ではどうしたら、神様がいつも私と共にいてくださり、いつも私のことを愛してくださっていることを知ることができるのでしょうか?

クリスマスを前に私たちは、イエス・キリストの誕生の意味、その瞬間に起こった出来事のすごさ、素晴らしさを深くさらに深く、しっかりと噛みしめていくことが大事なのでないかと思います。

キルケゴールという哲学者が、こんなお話を書き残しています。

身分の低い娘を愛した王がいたとしよう」、「身分の低い娘を愛した王がいたとしよう」。その王は、他の王とは違っていた。どんな政治家も、この王の前では震えた。誰一人、たてつく者はいない。彼には敵対者を踏みつぶせる力があったからである。それなのに、この偉大なる王の心は、身分の低い娘に恋していた。
どうすれば王は、彼女に愛を打ち明けることができるだろうか。奇妙なことであるが、彼は王であるために、自由な行動ができなかった。もしも娘を宮殿に連れて来て、宝石をちりばめた冠をかぶらせ、女王にふさわしい服を着せてやれば、もちろん彼女は彼を拒むことはできないだろう。だが、彼女は彼を愛するだろうか。
 

彼女は当然、「彼を愛している」と□では言うだろうが、それは本心だろうか? おそらく、置き去りにしてきた家族との生活を思って、一人悲しみながら、恐れながら彼と暮らすのではないだろうか? 彼のそばにいて幸せだろうか?

 

かりに武装した護衛宮に守られて、王宮の馬車を走らせ、森にある彼女の小屋を訪れたところで、彼女を圧倒させてしまうだけだろう。彼は萎縮した家来など欲しくはない。欲しかったのは恋人、自分と対等な人間だった。彼が王であり、彼女は身分の低い娘であることを忘れて欲しかった。そして二人の間の隔たりに、互いに対する「愛」という橋をかけたいと願った。

この王は、娘の自由を粉砕せずに、彼女の地位を引き上げることはできないと確信し、自分が下に降りようと決意した。物乞いの格好で自分が王であることを隠し、すりきれたコートを揺らしながら小屋へ近づいた。変装どころではなく、新しい自分をまとったのである。彼女から結婚の承諾を得るため、王位を捨てたのである。

フィリップ・ヤンシー著、山下章子訳、『神に失望したとき』、(いのちのことば社、1996年)、92,93ページ。


 これこそ神様が私たちに示してくださった愛ではないでしょうか。クリスマスの出来事の内に示された神の愛です。神様ご自身が=絶対者なるお方が、私たちと同じ立場=人間になってくださったのです。私たちと共に住み、泣き、笑い、苦しみ、そうすることで、ご自身の愛を表してくださったのです。さらに十字架にかかって、いのちを犠牲にするまでして、ご自身の愛を表してくださったのです。

 このイエス様がおられる。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束され、事実、最後の瞬間まで、私たちと共にいてくださるのです。先ほど交読したヨハネの福音書のイエス様のみことばに約束されているように、今、私たちと共にイエス様のことばがあります。聖書です。何かあれば(何もない時も)イエス様の声に聴けば良いのです。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

そして今、私たちの心の内にイエス様が与えてくださった助け主=聖霊が、いつもかたわらにいてくださいます。イエス様のことばを思い起こさせ、理解させ、神様がいつも共にいてくださることを気付かせ、平安を与えてくださる聖霊です。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14:26,27)


以前、ある方からこんな質問を投げかけられました。「イエス様は今、天国におられるのですよね? だとしたら、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ28:20)というのは、どうなるのですか? 私とともにいるのではないのですか?」

私は、こんなふうにお答えしました。「もしもイエス様が2000年前と同じように、この地上で一つの体の中だけにとどまっていたとしたら、今この瞬間、ある一人の人の所にしか存在できないですよね。でも、よみがえられたイエス様は天に昇られ、王座について、全世界のすべての人たちを見てくださっています。そして聖書を通してみ言葉を語り、ご自身の霊とも呼ばれる聖霊を一人ひとりに注がれることを通して、私たちといつも、永遠に共にいてくださるのです」。 

インマヌエル「神が私たちとともにおられる」 この神様の約束は2000年前のクリスマスの日も、そして現在の私たちにも、永遠に変わることがありません。キリストの愛に、どこまでも、いつまでもとどまり続けていきましょう!

お祈りします。

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人気作品が待望のリニューアル 神は不公平なのか、沈黙しておられるのか、隠れておられるのか。答えられなかった祈り、起こらなかった奇跡―多くの人々が感じてきた「裏切られた痛み」を取り上げ、そもそれ「信仰」とは何かを問う。 神に裏切られたと信仰を捨てた友に語りかける。熱心なクリスチャンの青年が信仰を捨てた。その苦悩に共感しつつも、著者は聖書全巻を読み直し、見出した神に対しての感動的な発見を語りかける。訳文に手を加え、文字も大きく読みやすくし、お求めやすくなった。 「神は、この世界に介入することがおできになる。それなら、なぜ神はもっと頻繁に介入してくださらないのか。奇跡(しるし)を見さえすれば信じるまじめな懐疑論者たちがいるのに、なぜ神はご自分を不利な立場に置かれるのか。なぜ地上に不正や苦しみがはびこるのを許されるのか。なぜ神の介入は、「奇跡」でなく「日常」とならないのか。」(本文より) 著者・訳者など:フィリップ・ヤンシー 訳:山下 章子 ページ数:360頁 判型:四六判 ISBN:978-4-264-02973-1 フィリップ・ヤンシー クリスチャン・ジャーナリスト。フィリップ・ヤンシー(1949年~)は、キリスト教信仰書作者の中で最も有名な人物のひとりである。その著作書は、世界で1400万部の売上部数を誇る。ホィートン・カレッジ大学院でコミュニケーション学と英語学の学位を取得。『クリスチャニティ・トゥデイ』誌の編集顧問を務め、同誌に記事やコラムを書いている。クリスチャニティ・トゥデイ社の出版物「ブックス・アンド・カルチャー」の共同編集議長でもある。著者として、『見えない神を捜し求めて』『思いがけないところにおられる神』『イエスが読んだ聖書』『新装版 教会』『痛むキリスト者とともに』『だれも書かなかったイエス』『この驚くべき恵み』『新装版 いのちが傷つくとき』『「もう一つの世界」からのささやき』『祈り』『神を信じて何になるのか』(以上、いのちのことば社)、『深夜の教会』(あめんどう)などがある。

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