「この上もなく喜んだ」

マタイの福音書 2章 1-12節
1. イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2. 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
3. これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。

4. 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

5. 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。

6. 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」

7. そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。

8. そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。

9. 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。

10. その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

11. それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

12. 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

クリスマス礼拝メッセージ

2023年12月24日

マタイの福音書2章1-12節

「この上もなく喜んだ」


 2023年のクリスマスおめでとうございます!この時期、スーパーで買い物をしていると、様々なクリスマスの賛美歌がBGMとして流れてきます。「この歌詞、知っているぞ」と、牧師は小さな自慢をしたくなり、小声で歌ってみたりします。

今日の午後、駅近くの百貨店前でも行われるようですが、クリスチャンたちが外で♪キャロリングということをしたりします。クリスマスの賛美歌を合唱し、街行く人たちに、聞いてもらうのです。

以前、私が住んでいた長野市でも地域の教会で協力し、キャロリングをしていました。長野駅へ歩いて行く人たちが信号待ちをしている場所で、賛美歌をたくさん歌いました。不思議な体験でした。ふり返って見ていく人、物珍しげに見ていく人、立ち止まって小さな赤ちゃんに賛美歌を聴かせていくお母さん、そして外国の方たちは私たちの姿をスマートフォンで動画撮影しながら、聞いていました。

クリスマス前の土曜日でした。おしゃれな格好で出かける若者たちも大勢いました。パーティかどこかへ遊びに行くのでしょうか? 家族連れで歩く人たちも多く見かけました。お買い物や食事を楽しむのでしょうか? 仕事モードのおじさんたち、お店の従業員さんたち、コンタクトレンズのチラシを配っているお姉さん。私は歌いながら、駅前の様々な人たちの姿や動きを興味深く観察しました。

そしてこちら側を見ました。クリスチャンとしてイエス様の誕生を喜び歌う仲間たち。わずか30名弱でしたが、その姿を対照的に見つめました。クリスマスが何の日か、何のためのクリスマスかを正しく知っている仲間たちでした。イエス・キリストを喜び、その誕生に感謝し、歌っている仲間たちでした。その数は、目の前を通り過ぎる何百人、何千人という大多数に比べれば、ほんのわずかでした。

今日クリスマス・イヴの日曜日に、この教会のクリスマス礼拝に導かれた人たちも福井市全体・福井県や日本の国全体でみれば、ほんのわずかです。しかし、ここには神様からの安らぎと祝福があります。この上もない喜びがあるのです。聖書のみことばから、クリスマスの本当の喜びを確認していきましょう。

約2,000年前、最初のクリスマス礼拝をささげたのも、ベツレヘムの町全体・ユダヤの国全体で見れば、ほんのわずかな人たちでした。夜、眠らずに羊のお世話をしていた羊飼いたち。さらに遠い東の国、ユダヤから2千キロ近く離れた今のイラン・イラク辺りからはるばるやって来た博士たちでした。

博士たちは、東の国から長く大変な旅をして来ました。今とは違って、旅の準備も大変だったでしょう。大荷物だったでしょう。道中には盗賊や獣や様々な危険が待ち構えていました。それでも彼らは、どうしてもお会いしたかったのです。遠く西の国ユダヤで王としてお生まれになったお方を。博士たちは、そのお方が来たるべき救い主だと知っていました。

イエス様がお生まれになる600年ほど前、ユダヤの国は、東から攻めて来た巨大な帝国バビロンに侵略されました。ユダヤの人々は東の国に強制移住させられます。バビロン捕囚という歴史的出来事です。その時、ユダヤの書物、旧約聖書も東の地にもたらされたのでしょう。バビロンとその後のペルシャ帝国の知識人たちは、旧約聖書を学んだだろうと思います。

先ほど交読した旧約聖書の民数記24章は、紀元前1400年頃、東の国にいたバラムという占い師が、パレスチナの南の国モアブのバラク王に呼ばれて、告げた内容です。イスラエル人たちを前にして、軍事力では太刀打ちできないと恐れたバラク王は、名のある霊能力者バラムにイスラエルを呪ってもらって、弱体化させようと考えたのです。しかし呼ばれたバラムは、イスラエルの神にとらえられ、呪いの言葉ではなく、反対にイスラエルの繁栄や勝利を約束する祝福の言葉を語ったのです。

その中の1節、民数記24章17節に、「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」

この言葉が旧約聖書に記されてから約1400年後、他の旧約聖書のメシヤ(救い主)預言も研究していたであろう東の国の博士たちは、「ヤコブから一つの星」が出現したと気づいたのです。西の夜空にまたたく強烈な明るさだったのでしょうか。あるいはメッセージ性のある見たこともないような星だったのでしょうか。「ああ、これこそ我らが待ち焦がれていたユダヤの王誕生を知らせるしるしの星。ユダヤの王は、旧約聖書に約束された全世界の王、救い主じゃ」と、彼らは確信し、そのお方に一目お会いしたいと、居ても立っても居られず、旅支度をしたのです。

ただ学問的興味関心から見たかったのというではありません。マタイの福音書2章1節、イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

今も昔も、争いの絶えないエルサレムですが、そこにたどり着いた博士たちは聞いて回ります。2節、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

先ほど触れましたように、博士たちは最初から自覚していました。ユダヤ人の王、それは旧約聖書に約束された私たちの救い主・全世界の救い主なのだ! 全世界の王であり神であるお方なのだ! このお方を礼拝するために、多くの犠牲を払い、危険を顧みずにやって来たのです。信仰の旅であり、期待でいっぱいのわくわくする旅でした。実際にイエス様とお会いした時、「家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した」(11節)のです。そして自らの最高級の宝物(黄金・乳香・没薬)をイエス様におささげしたのです。

ユダヤ人ではない異邦人(外国人)の博士たちが。当時、「神様からほど遠い、救いからほど遠い」と見下されていた異邦人が、イエス様を礼拝したのです。当時、地理的に最も遠い地=地の果てと思われていた国から、イエス様を礼拝するためにやって来たのです。

博士たちの姿勢を鏡のように見つめながら、私自身のイエス様の前での姿勢を問われます。私たちは、どのように礼拝に向かっているでしょうか。礼拝は私たちにとって最優先事項です。私たちを造られ、いのちを与えてくださり、日々守っていてくださる神様に感謝し、賛美する礼拝です。神様を礼拝することでしか得られない、たましいの安らぎ、励ましや慰めがあります。神様のことば=聖書を通して、心満たされ、気付かされ、力を回復させて頂く礼拝です。それを最優先にして生きているでしょうか? 

今朝、雪も残っていて、せまくなって、ガタガタしている危険な道を必死に運転しながら、皆さんはここにたどり着きました。博士たちも危険な砂漠の旅をしました。犠牲が伴いました。しかし、そんな犠牲など簡単に吹き飛ばす最高の喜びが待っているのです。

エルサレムの王宮で教えられた救い主誕生の地ベツレヘムへ、再び星に導かれて、博士たちは一軒の家にたどり着きます。まだ、家の中におられるイエス様のお姿を見てはいませんが、その家の前で「彼らはこの上もなく喜んだ」(10節)のです

この10節は、原文の聖書では「その星を見て、彼らは非常にこの上もなく喜びを喜んだ」。直訳するとそんなふうになります。

口語訳聖書は、「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」と訳し、

新共同訳聖書は、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」

リビングバイブルは、「それを見た彼らは、躍り上がって喜びました」

最高の喜びに博士たちは包まれたのです。

この家の中に救い主がおられる!ああここまでたどり着けた。神様が私たちをここまで導いてくださった。その感謝・喜びで胸がいっぱいになって感極まったのです。

私たちは日曜日、この教会にたどり着いた時に、しるしの星はありませんが、教会の建物を見、十字架を仰ぎ見、ともに礼拝をささげる仲間たちの顔を見た瞬間、そしてこの礼拝堂に入って来た時に、この上もない喜び、安らぎを感じているでしょうか?

日曜日だけではないでしょう!神様を思う時、日毎に聖書を開こうとするとき、祈り始める時、賛美を歌おうとするとき、そんな最高の喜びを感じているでしょうか?

礼拝は、私たちが永遠に神様にささげていく務めであり、喜びそのものです。地上で終わりではなく、天国でもずっと永遠にささげていくものです。

ユダヤ人の王としてお生まれになったお方を礼拝するため、やって来たのは,ユダヤ人ではなく異邦人でした。キリスト誕生の場所を知りながら、何も行動しないユダヤ教の宗教指導者たち、またキリストに殺意を抱いたヘロデ大王とは対照的でした。

宗教指導者たちは、旧約聖書の預言から「救い主はベツレヘムでお生まれになる」と知ってはいましたが、ベツレヘムに行かなかった、いや行けませんでした。自分にとって代わるユダヤの王出現を異常に恐れた残忍なヘロデ大王の目を恐れたのです。エルサレム中の人たちもそうでした。

 私たちは、イエス・キリストというお方を知り、このお方を前にした時、どんな態度で、どんな姿勢で、イエス様と向き合うべきでしょうか? 他人の目を恐れて、周りの人に合わせて行動してしまうでしょうか。

イエス様を偉大な宗教家のひとり、いにしえの聖人のひとり、でも自分とは無関係な存在ととらえているでしょうか?

それとも博士たちのように、イエス様を真剣に探し求め、このお方のもとにたどり着き、イエス様の素晴らしさに触れて、感動し、喜び、イエス・キリストを信じて、ひれふし拝む。最高のものをおささげしたいと思って生きていくでしょうか?

ぜひ博士たちのように、イエス様を真剣に探し求めてほしいと思います。どんなに素晴らしいお方なのか。 ― 私のために天国の超快適な生活、神としての立場を捨てて、この地上に人となられて降って来てくださった救い主です。しかも何もできない赤ん坊になるまでして、私たちに寄り添ってくださるお方です。そして、私のために十字架に架かって、いのちまでささげてくださったお方。イエス様はそのようなお方なのです

私にはイエスなどいらない、関係ない、救い主など必要ないと言える人は、世界に一人もいないのです。ぜひ、この素晴らしいお方イエス様をもっと知って頂きたい、 心の中にイエス様をお迎えして頂きたいと願ってやみません。

祈りましょう。

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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

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