「私の生き方を通して」

使徒の働き 26章19―32節


19. こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、
20. ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。
21. そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。
22. このようにして、私は今日に至るまで神の助けを受けながら、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証しをしています。そして、話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません。

23. すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。」

24. パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」

25. パウロは言った。「フェストゥス閣下、私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています。

26. 王様はこれらのことをよくご存じですので、その王様に対して私は率直に申し上げているのです。このことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも、王様がお気づきにならなかったことはない、と確信しています。

27. アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」

28. するとアグリッパはパウロに、「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言った。

29. しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」

30. 王と総督とベルニケ、および同席の人々は立ち上がった。

31. 彼らは退場してから話し合った。「あの人は、死や投獄に値することは何もしていない。」

32. また、アグリッパはフェストゥスに、「あの人は、もしカエサルに上訴していなかったら、釈放してもらえたであろうに」と言った。

礼拝メッセージ

2024年1月21日

使徒の働き 26章19―32節

「私の生き方を通して」 


おはようございます。一週間前の1月14日に被災地の輪島聖書教会でささげられた礼拝が、YouTubeで動画配信されているのを見ました。牧師の荒川康司先生が終わりの報告の中で、元日の地震発生からその日までの状況と深刻さ、これからの展望を語っておられました。

「これまでも大きな地震があった。本棚が倒れる経験はあったが、今回は本棚ごとジャンプするのを初めて見た。私は椅子に座っていたが、椅子ごと飛び跳ねるような揺れだった」と語っておられました。

「教会員全員の安否を確認した。自宅に戻れず被害状況を確認できない教会員もいる。
牧師館は断水中なので、沢の水を飲み、雪や雨水も貯めて使っている。風呂に入れず、ストーブで沸かしたお湯で、石けんを使わず髪と身体を洗い、足湯につかっている。トイレは使えず、ビニール袋を使い、休耕地に埋めている。ウォシュレットが本当に懐かしい。上水が来ても、下水管が破壊されているので、流せば逆流する。
今一番必要なのはガソリンと灯油。輪島は1月末から3月にかけて一番寒くなる。灯油がなければ生きていけない。買うのに半日並ぶ。2千円分しか買うことができない。次の入荷がいつかわからない。なくなったら終わり。
スーパーは営業再開したが、商品が十分でない。現金はがれきの下にあり手元になく、金融機関も動いていない。ATMもない。電気は来たので我が家はクレジットカードを使っている。
避難所を中心にコロナ、インフルエンザ、ノロウイルスがはやりだした。基礎疾患のある方や高齢者は危険と隣り合わせ。倒壊による死よりも関連死の方が多くなるだろう。隔離は難しく、病院は満杯。自宅で救急車を呼んでも来ない。医師と看護師がいる避難所が一番安心。

火葬場のボイラー3基のうち2基が壊れ、火葬が一日に2回しかできない。積雪で屋根に重さがかかり、半壊でも住めない。道路の陥没が見えない。傾いた電柱や木がいつ倒れてくるかわかわない。

安全な場所は輪島にはございません。サバイバルのただなかであります 」

「クリスチャン新聞」1月19日号のインターネット記事より

一週間たって状況は変わっているでしょう。少しでも安心安全が増えていてくれればと心から願います。集落ごと安全な地に移動できた方々もおられるでしょうが、過酷なサバイバルの状況下、とどまって礼拝をささげておられる輪島の牧師の姿に頭が下がりました。

今朝のメッセージのタイトルは、「私の生き方を通して」です。使徒の働き26章29節のパウロの語った言葉「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」

「私のようになってほしい、私のような人間になってください!」皆さんは、このような大胆なことを言えるでしょうか?

クリスチャンとして新しい人生を生きること。それは頭の中、心の中のことだけではないのです。具体的なこと、私たちの生き方に直結することです。

パウロはこの時、主イエス様を宣べ伝えたせいで逮捕されて囚人となり、鎖につながれたまま裁判にかけられていました。裁判官役の総督フェストゥスとアグリッパ王など権力者たちの前に立たされ、「さあ、何か話しをしなさい」と求められています。

先週、みことばから学びましたように、その場でパウロが語ったことは、自分の無実を証明するための弁明ではありませんでした。ただただパウロ自らの救いの証しと伝道メッセージを、ここで語ったのです。

まず自分の過去を正直に告白しました。「以前この私が、イエス様を大迫害していました。クリスチャンたちを苦しめ、痛めつけました・・・。イエス様と出会う以前、そうすることが神様の前に正しいと思い込んでいました」と。

そんな私が、あのダマスコ途上で主イエス様と出会ったのです。死んでいてもう存在しないと思いこんでいたイエス様が目の前に現れたのです。パウロの人生は180度変えられます。

そこで新しい人生を与えられました。26章16節「起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。」イエス様はパウロに「これからは見たこと・聞いたこと、わたしが示す真理を伝えてなさい。そのためだけに生きなさい」と新しい使命を与えたのです。

パウロはこれまで、その使命=19節の「天からの幻に」従って、まっしぐらに生きて来ました。20節で「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました」と言っている通りです。文字通り、世界中に福音を宣べ伝えてきました。伝えて来たメッセージは、自分で考え出したものではなく、すべて神様に示されたことでした。聖書のみことばに示されていることでした。22,23節でそう証言しています。

22.このようにして、私は今日に至るまで神の助けを受けながら、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証しをしています。そして、話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません。

23.すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。」

 旧約聖書に約束された救い主=イエス様のことだけをひたすから語って来ました。イエス様の十字架と復活の事実。それによって私たちの暗闇の人生が、イエス様の光の中に入れて頂けることを、パウロは実体験も証ししながら、語って来たのです。

23節でイエス様の十字架の御苦しみと復活の喜びを語り出したあたりから、パウロの伝道メッセージはさらに熱を帯びて来たと思います。声のトーンも上がってきたかもしれません。聞いている人たちに「さあ、今すぐ罪を告白し、イエス様を信じてください」と信仰の決断を迫るような迫力があったと思います。

聞いていた総督フェストゥスは、ユダヤ人ではない異邦人でした。聖書のこと、まことの神様のことがよく分からなかったせいもあるでしょう。このまま囚人パウロの話を聞いていると、自分もそれに染まってしまうんじゃないかと心配になってきて、「もう、そんな話をしてくれるな」とパウロの話をさえぎって、横やりを入れるのです。24節、パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」 

「頭がおかしくなっている」とは、かなり馬鹿にした言葉です。パウロは25節で、すぐにそれを否定します。しかし元々の言葉を見てみますと、「頭がおかしくなっている」という評価もあながち悪いものではないではないと思わされました。ここで使われている単語は、「マニア」という単語でした。「鉄道マニア」とか「ポケモンマニア」というふうに私たちも使いますよね。興味あるそのことに異常に熱中している。好きで好きでたまらないといった意味でしょうか。

ここでパウロは「あなたはキリスト・マニアだ、聖書マニアだ」そんなにも夢中になっておかしいんじゃないの・・・と言われたのです。それは光栄な呼び名だったでしょう。イエス様に夢中になっている。イエス様の福音を伝えることに夢中なってしまっているのです。私たちもそうなりたいなあと思います。

パウロは、ここでアグリッパ王一人に目標を定め、王に救いの決断を迫ります。27節、「アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」

 ユダヤの宗教や聖書に詳しいアグリッパ王でした。「聖書の預言者たち:イゼヤ、エレミヤ、ダニエルといった預言者たちを信じているということは、預言者たちが指し示したお方、やがて来られると預言し、実際にもうすでに来られた救い主イエス様をあなたは信じますよね」

 けれどもアグリッパ王は、福音を受け容れることをここでは拒絶するのです。28節で「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」

これは、「おまえの誘いには乗らないよ。おれは信じないよ」という返答でしょう。福音を語り、拒絶される。パウロだけでなく、旧約聖書の預言者たちも、そしてイエス様も体験されたことでした。イエス様はマタイの福音書13章14節で、イザヤの言葉を引用し語られます。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。」

すべての人が、イエス様の福音に耳を傾け、心打たれて罪を認め、悔い改め、イエス様を救い主として信じることは、残念ながらないのでしょう。ある人は受け入れ、ある人は馬鹿にしたり、無視したり、断固としてそれを拒絶したりしてしまうのです。それでも、私たちは証しし続けていきます。

パウロは福音を聞き入れず、それを拒絶する総督フェストゥスやアグリッパ王に、最後に呼びかけます。29節の「この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」と。これは「私のような聖人君主になりなさい」という意味ではないでしょう。 ― 罪人であった私、神様を見失い自分勝手に生きていた私だった。クリスチャンとなった今も罪との戦いがある。けれども、こんな私を見捨てず、愛し、救い出してくださるイエス様がおられる。イエス様と出会って私の人生は変えられた。私の心は、今も喜びと感動、感謝、伝えたいという情熱でいっぱいだ。今、最高権力者であるあなたたちの前に立たされても、こんなにも大胆に語ることができている。それは神様がともにいてくださるからだ。「イエス様と共にあるこの私、この私のようになってほしい。」 ― パウロは、そう語るのです。

 私たちも、そのような証しができたらと思います。

× 「私のような人間にならないでね」

× 「いい加減な信仰だから、私のようなクリスチャンにならないでね」

そうではなくて、 〇「私のように生きてほしい」、〇「私のようなクリスチャンになって」と言葉で、また生き方で、証しできる者になりたいと思います。

先ほど交読したみことばは、パウロがピリピの教会に宛てた手紙です。ピリピ3章21節で「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」と宣言します。卑しい体、老いていき、病み、弱る体。そして心・たましい、そんないやしい私を主キリストは救ってくださる。いつの日か天国でイエス様と同じ栄光のからだ、復活の肉体を与えられていると堅く信じ、期待し、歩んでいます。主の愛と赦しを信じ、それにすがって生きていました。

 そんな私を見倣ってください、目を留めていてくださいと、17節で勧めるのです。「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」

立派なクリスチャンだから、大きなことを成し遂げてきたから、知識が豊富だからとか人間的なことを誇って、私を見倣えと言ったのではありません。

 こんな弱さだらけの私、罪人の頭のような私を神様は赦し、生かし、用いようとされている。この私の生き様、信仰、神様の私への愛を見てくれ!皆さんも私と同じように歩めたら本当に幸せだよ!それこそ確かな人生だよ!と、私たちにも「ぜひ!」と勧めてくるのです。それは、神様からあなたへの招きでもあります。

コリント人への手紙 第一 11章1節 
私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

祈りましょう。


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