ヨハネの福音書14章1-7節
1. 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2. わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3. わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4. わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5. トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6. イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7. あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
礼拝メッセージ
使徒信条シリーズ⑱
2024年8月18日
ヨハネの福音書14章1-7節
「いのちの主キリスト」
これまで順番に学んで来ました使徒信条の信仰告白。今年4月7日に「私は信じます」という所から学びを始め、今日が最後の「永遠のいのちを信じます」との告白です。
古代中国、秦の始皇帝は死ぬことを恐れ、不老不死の薬を捜し求めさせたと記録されています。「死にたくない。ずっと生きていたい」。それは多くの人たちの願いであるでしょう。健康な体で一日でも長く生きていたいと考えます。
また、この地上から去っていくことになっても、自分の名前や業績を残しておきたい。私がこの地上に生きていたという証し・記憶を留めておきたい。そう考える人も、なかにはいるでしょう。『自分史』を出版したり、肖像画や銅像をすえる人も中にはいるでしょう。
しかし、イエス様が私たちに与えてくださる「永遠のいのち」は、この地上での不老不死の体ではなく、またあなたの名前や業績が後世まで残ることでもありません。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25)と、イエス様が約束してくださった「いのち」は、私たちが思い描く「命」とは、次元の違う新しい「いのち」です。
聖書が語る「死んでいる」とは、いのちの支配者なるまことの神様から離れている状態のことです。「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と警告されていたにも関わらず、最初の人=アダムとエバは、神様から与えられていた“たった一つの約束”を自ら破り、木の実を取って、食べてしまいます。
その瞬間に、彼らは突然死することはありませんでした。心臓が急停止することも、呼吸が止まることもありませんでした。けれども、人と神様との関係が死んでしまったのです。それまでは、そばにいて、語りかけ、語りかけられるのが、うれしくて・うれしくてたまらなかった神様との関係が終わってしまいました。人は神様を恐れて、身を隠したのです(創世記3:8)。
反対に、聖書が教える「生きている」状態は、その「死んでいた」神様との関係が回復されることです。神様と罪人である私たちのはざまに立って、自らのいのちを犠牲にささげてくださった主イエス様によって、罪赦され、神様との関係が回復されることです。安心と喜びと感謝をもって、心から神様を賛美し、祈りながら生きていくことです。いのちの主とつながっていること。それが今もうすでに、これからもずっと。この肉体の死の先にも、永遠に神様と愛のきずなでしっかりとつなげられているのです。永遠に神様の子どもとして、安心して生きていけるのです。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と語られました。イエス様は、まことのいのちを与えてくださるお方、いのちそのものであるお方です。「永遠のいのちを信じます」と告白する時、私たちは、「自分は、いつ死んでも天国に行けるからラッキー!永遠のいのちも与えられているから安心・安心」と、あぐらをかくのではありません。「いのちを与えてくださり、いのちそのものである主イエス様をずっと永遠に、どんな妨害や迫害があっても、主イエス様だけを私の主・救い主・神様とあがめ、信じ続けていきます」と告白していくのです。
このヨハネの福音書14章は、最後の晩餐の場面です。翌朝には、イエス様の十字架が迫っていました。ただならぬ雰囲気を弟子たちは感じ取っていたでしょう。14章の直前、13章後半では、裏切り者イスカリオテのユダが、イエス様の身柄を敵の手に渡すため、外に出て行っていました(13:30)。また。弟子のリーダーであったペテロに、イエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(13:38)と、「お前も裏切るぞ」と驚きの予告をなさったのです。
弟子たちの心は、ぐらぐらとかき乱されていました。「これから、どうなってしまうのだろう・・・?」不安でいっぱいでした。ものすごい緊張が走っていました。
その席で、イエス様は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(14:1)と、語りかけてくださったのです。
イエス様は、「大丈夫!父なる神を信じ、わたしを信じ続けていなさい」。「目の前の現実だけを見て恐れるな」。これから、あなたたちに与える素晴らしい約束があるから「心配するな」と語ってくださったのです。
それが14章2,3節の約束です。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」
安心していられる場所がない。住まいがない。今晩、寝る場所がない…。そんな経験をされたことがあるでしょうか? 学生の頃、私は東京の品川駅構内の冷たい廊下で一晩明かしたことがあります。翌朝早い時間に出発する飛行機に乗って、出かける予定がありました。夜のうちに羽田空港に行って、待合室のベンチかどこかで夜を明かし、飛行機に乗ろうと考えていました。しかし、乗った電車が品川止まりで終電でした。その先、羽田空港に行くためには、翌朝の始発電車を待たなければなりませんでした。
冷たい雨が降っていた記憶があります。品川駅の廊下で横になりましたが、照明がこうこうと照っていました。横を人が歩くたびに、びくっとし、一睡も出来ませんでした。不安な夜を過ごしたことを思い出します。
安心して横になれる場所が必要です。屋根と壁と床と布団のある場所が必要です。暑すぎず寒すぎず過ごせる場所が、おいしい水を飲める場所が私たちには必要です。
この地上のいのちの後、死んだ後、どこにいくのか分からない。自分がどうなってしまうのか分からない・・・。それは不安です。それから目を避けよう、見ないように、考えないようにしたくなります。
しかしクリスチャンは、心配しなくて良いのです。行くべき場所が、もう確保されていると、イエス様は約束してくださっています。「あなたの次の住みかは、もう予約済みだよ。ちゃんと確保されているよ。だから心配しなくて良い!大丈夫!!そこにわたしもいる」とイエス様は、私たちに語りかけてくださっています。
天の御国の新しい住まい。そこに、私たちはまだチェックインしていません。入居していません。でも、もうすでに予約済みなのです。
使徒信条を学ぶ中で、「ハイデルベルク信仰問答」から何度も教えられてきました。「永遠のいのち」という告白について、次のように説明しています。
問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、
この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、
神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。
主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと共に生きてゆくということは、今、この地上にあっても、私たちが「永遠の喜びの始まりを心に感じている」ことなのです。
どこか素敵な場所へ旅行に出かけることを想像してみてください。事前に、その場所のガイドブックを食い入るように見つめながら、うきうきワクワクしてきます。まるで行った気分になって、うれしくなります。
天の住まい=天国。そこは、地上の大豪邸、最高級ホテル、老舗旅館などでは、及びも付かない最高の住まいです。最高の幸せを感じ、神様からの完全な愛と祝福を頂き、私たちも神様に感謝と賛美をずっとささげていく住まいです。そこに私たちは入れていただくのです。
「そこにあなたを招くために、わたしは来た」と、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と宣言してくださいます。
道 : 私たちはどう生きたら良いのか正しい道を探し求めます。どうしたら神様のもとに行けるのか? どうしたら正しい生き方ができるのか?と。
そんな私たちには、イエス様は「わたし自身が道だ。神様のもとへ行ける唯一の正しい救いの道だ」と言われるのです、
以前、インドネシアで宣教師をなさっていた先生が教えてくださいました。「ジャングルの奥地に宣教に行った時、目の前はうっそうと茂ったやぶや草木だらけだった。でもそこを切り開いて、道を作り、目的の村に導いてくれた人がいた。その人は目的の村からやって来た人だった。向こうから迎えに来てくれた人が、正しい道を知っている。イエス様も向こうから、天国から地に降って来てくださった。人はあれやこれや道を模索し、自分なりの道を見出そうとする。しかし確実なのは、正しい道を知っておられるお方に導いて頂くことだ」と。
そして、イエス様ご自身が道だとおっしゃるのです。ご自分を通して、ご自分が道のように踏まれることを通して=十字架の死を通して、父なる神様と私たちの橋渡しをしてくださったのです。
真理:人は真理・本物を探し求めて来ました。今も探し求めています。多くの発見・発明をして来ました。けれども、それらは神様が創造されたこの世界の仕組み・ルールを見つけたに過ぎません。また人は真理を求めて、「これが真理だと」提示しようと哲学・思想・宗教などを生み出してきました。しかし、唯一の真理は神様のものです。永遠に変わらないお方は神様だけです。イエス様は、「私だけが本物だ。本当の救い主だ」と言われるのです。
いのち: 私たちを生かしてくださるお方が主イエス様です。死んでいた=途絶えさせてしまった私たちと神様との関係を修復し、血の通った愛のつながり、いのちのつながりを回復させてくださるイエス様です。このお方は死に勝利し、よみがって、今も、永遠に生きておられます。イエス様が「あなたを生かす、あなたを永遠に生かす」と約束してくださっています。
先ほど交読した旧約聖書のエゼキエル書37章にあったように、骨と骨=身体だけつながっていても、それは本当の意味で「生きている」ことにはなりません。神様からいのちの息(聖霊)を吹き込んでいただいて初めて、人は本当の意味で「生きていける」のです。
聖霊に満たされ、私たちは救い主イエス様を知ることができます。
救い主イエス様だけが、まことの道・真理・いのちであり、
イエス様を通して、私たちは父なる神様との関係を回復していただきます。
そして、いのちの創造者・支配者なる父なる神様としっかりつなげられ、
主とともに永遠に、主を喜び生きるのです!
「私は永遠のいのちを信じます」 この告白は、永遠のいのちの源であり、永遠のいのちを確かに与えてくださる「主イエス・キリストを私は信じます」という信仰の告白です。
私たちはやがていつの日か、死を迎えます。そこからよみがえらされ、次に行く場所へと引き上げていただきます。そこでも、またこの地上でもすでにあなたのための永遠のいのちが、イエス様によって保証されているのです。
予約していたホテルに行ったときに、フロントで「高橋宣広様、お待ちしていました。お部屋を用意してあります。」と言ってもらえるように、私たちもやがて天の御国で、イエス様から「あなたのためにちゃんと場所を用意してあるよ、良く来たね。さあ喜びと平安を私と分かち合おう、永遠に共に生きよう」と言っていただけるのです。
天の御国の住まいが約束されている。それは人間のがんばりではなく、また私が支払った犠牲によるのでもありません。主イエス様の大きな犠牲、命がけの十字架の犠牲によって、私たちの次の住まい、新しいいのちが備えられたのです。
最後にこの使徒信条の学びを準備している中で出会い、大きな感動を覚えた文章を紹介して終わります。
安井聖(きよし)牧師(日本ホーリネス教団 西落合教会)が書かれたものです。
私は以前、礼拝説教の中で、ヨハネの福音書5章24節の主イエスのみことば「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」を説き明かして、こう語りかけた。「主イエスが語っておられる永遠のいのちとは、死んで初めて与えられるものではありません。洗礼を受けた者は、すでに永遠のいのちを与えていただいています。今、死に打ち勝ついのちが与えられているから、そのいのちの力に支えられて、私たちは肉体の死を迎える戦いを戦い抜くことができます」。
ガンの手術をして以来、肉体の弱さを覚えていた年長の教会員の男性が、その説教を聴いていた。普段はほとんど説教への感想を語ることのない人だったが、その時は珍しく、礼拝後に興奮しながら話してくれた。「そうだったんですね。今すでに私は、永遠のいのちを生きる者としていただいている。なんと感謝なことでしょう」
安井聖 他、『三要文 深読 使徒信条 (説教黙想アレテイア叢書) 』、(日本キリスト教団出版局、2023年)141ページ。
祈ります。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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