エペソ人への手紙4章25―32節
25. ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。
26. 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであっては いけません。27. 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
28. 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け 与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
29. 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、 人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
30. 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31. 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
32. 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなた がたを赦してくださったのです。
礼拝メッセージ
十戒シリーズ ⑨
2024年11月10日
エペソ人への手紙4章25―32節
「分け与えるために」
十戒の八番目の大切な戒め「盗んではならない。」(出エジプト記 20:15、申命記 5:19)を、みことばからともに考えていきます。この戒めは、万人共通の当たり前のこと。自明のことのように思われます。「盗みはいけない。犯罪だ。人のものを横取りするなんて良くない」、「自分もおどされて財布を取られたり、だまされてお金を取られたりするようなひどい目には絶対にあいたくない」と、私たちは考えます。
しかしながら、世界全体から見れば「裕福な国」であるはずのこの日本で、連日のように恐ろしい強盗事件や詐欺事件が起きています。闇バイトに応募してしまった 若者たちによる強盗殺人事件、強盗傷害事件が首都圏一帯で次々に発生しています。空き巣ではなく、人が家の中にいる状態で強盗に押し入り、住人を縛り上げ、殴り付け、脅し、お金のありかかキャッシュカードの暗証番号を聞き出して、盗んでいくのです。それも指示役に言われるがまま恐ろしい犯罪を実行してしまうのです。彼らの心の中にあるはずの「情」や「良心」、「正義感」などは、どこに行ってしまったのでしょうか…? 若者たちの間に貧富の格差、特に貧困が広がっているのも、闇バイトに引き込まれる一因と言われています。
首都圏から遠く離れた所に住んでいる私たちですが、もしも同じような強盗事件が近くで起こったら(いや起こる前に)、防犯意識、警戒のレベルを高め、何か対策を取らなければならないでしょう。
そんな恐ろしい犯罪とは性質が違いますが、私たちのすぐそばでも小さな盗みは日々、起こっています。公共の場所や店舗のお手洗いからトイレットペーパーが盗まれています。「トイレットペーパーを持ち帰るのは犯罪です。発見確認後に警察に通報します。」と警告文が貼り出されていたり、盗難対策としてペーパーの側面にお店の名前がマジックで書かれていたりします。「誰も見ていないから」、「ちっちゃなものだから」という誘惑が人を盗みに駆り立てるのでしょうか?
そして、私たちがついついやってしまう盗みは、会社のもの・勤め先のものを自分のものにしてしまうことかもしれません。会社のお金に手を付けるような横領は絶対にしないとしても、ボールペン1本を拝借したまま自分の筆箱に。借りた本1冊・傘1本・お皿1枚がいつの間にか、自分の家のものになってはいないでしょうか? どうせ廃棄されるものだから、余分にたくさんあるから、一個ぐらい拝借しても構わないだろう…という誘惑に負けてしまうことはありませんか? 公私の区別がいい加減になってしまうことはないでしょうか?
さらに、あの戦後すぐのような極限状態:「食べ物が全く手に入らない」。「それを買うためのお金も全くない」といった生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたとしたら、私は「おむすび1個、盗みません」、「ひと様の柿の木からむしり取って食べるようなことはしません」、「みんなで商店を襲って略奪したりなんてしません」と言える自信はありません。「生き伸びるためには仕方ない」と、とんでもないことをしでかしてしまうかもしれません。
また、お金や物のような手にすることができるものとは違うものを、目には見えないものを、私たちは盗んでしまっています。他の人の「考え」や「説」を、「アイデア」や「デザイン」などを、自分で生み出したもののように発表してしまい、奪ってしまうことがあります。「違法にコピーされたもの」と知りながら、それを見たり聞いたり、利用してしまっている。著作権を侵害し、結果として作家さんや作り手が本来、受け取るべき報酬を盗んでいます。ルーズな自分自身への反省も込めてですが、約束の時間に遅刻し、人の大切な「時間や自由」を奪ってしまうこともあります。
けれども悲しいかな、世界どこでもそうかもしれませんが、日本でも大泥棒がときに「英雄」のようにまつり上げられてしまいます。石川五右衛門、鼠小僧治郎吉などは、武家屋敷に忍び込み、たくさんの富を略奪した。しかし、それを貧しい人々にばらまいたんだという伝説が生まれ、彼らは、この世の権力者・強きに抗い、弱きを助けた「義賊」と呼ばれたりします。五右衛門を主人公にしたTVゲームを、今もうちの子どもたちは楽しそうに遊んでいますし、怪盗ルパン3世のアニメも楽しそうに見ています。「盗人にも三分の理」なんていうことわざもあったりします。けれども、よくよく考えれば、彼らは人の財産や宝物を略奪した犯罪者なのです。
「盗み」ということを様々な視点で見つめ直し、そしてみことばの「盗んではならない」を思い巡らしていくとき、私は正直、胸が締め付けられ、苦しくなって来ました。「自分は盗人だ。罪人だ。」と示されました。あの時のあの罪が思い出されます。
「盗んではならない」だけではないでしょう。十戒の一つひとつの戒めを真剣に受け止め、その意味を思い巡らすとき、私たちは「自分は背いている。罪人だ。」ということに気付かされるのです。
約2,000年前、聖なる神の御子、イエス様を目の前にしたあのザアカイも同じでした。先ほど交読したルカの福音書19章に登場します。ザアカイは金持ちでした。彼は不正に、人々をあざむいて財産を蓄えてきました。その財産を誰か他の人のために使おうとしたことはありませんでした。彼は孤独でした。
そんなザアカイのもとに、イエス様が客人としてやって来てくださいます。聖なる神の子、愛に満ちた救い主を目の前にした時、ザアカイはうれしさと同時に、自分のひどさ、貧しい人たちから必要以上の税+アルファを強奪し、苦しめてきた非情さ、それをふところにしまい込んで来た私利私欲にまみれた汚れた自分の本当の姿に気付かされたのです。このお方はすべてお見通しだ。ごまかしがきかないことも分かりました。それなのに、こんな自分に対して憐れみのまなざしを向けてくださった主イエス様を見たのです。
ザアカイはその晩、生まれ変わります。ルカ19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
自分だけのためにと、人のものを奪い取って生きてきた。それが恥ずべき罪だったと示されたとき、赦してくださいと「主よ」とすがり、これからは「貧しい人のために、私の財産をささげます。負わせてしまった損害に対して誠実に償います」と決断したのです。悔い改めに導かれていきました。
もう一人、死の瀬戸際にあって罪赦された強盗がいます。主イエス様の隣で十字架に架けられたもう一人の死刑囚です。マタイ27:44に「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」と出てきます。死刑になるくらいですから、相当ひどいことをしでかしたのでしょう。凶悪な強盗殺人犯だったかもしれません。そんな彼が、ルカの福音書を見ますと、23章39-43節、
39. 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40. すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41. おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42.そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」43. イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
私たちも十戒のみことばを深く思う時に、あの時のあの罪が示されて、苦しくなります。自分が罪深いことに気付かされます。その時にこそ、十字架の主イエス様を見上げましょう。主の赦し、あわれみにすがりましょう。
「主よ、私は盗みを働きました。ちっちゃなことと思い込み、隠してきました。忘れようと記憶を葬り去ってきました。しかし、あなたはそれを知っておられます。今、私は罪の負い目に責められています。どうか主よ、赦してください。あわれんでください。十字架による赦しを受けさせてください。この汚れた私を、十字架から流れ落ちる主の聖い血潮によって洗い聖めてください」と心から祈り求めていきましょう。
その時、私たちは「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ 9:2)との主の御声を聴かせて頂くのです。
赦された罪人ザアカイのように、クリスチャンとされた私たちには、人のためにささげさせて頂く使命・喜びが与えられています。まず主イエス様がご自身をすべてささげてくださった。お命までもささげてくださったように、その愛に応えて、私たちも新しい生き方、新しい考え方、新しい価値観を与えられていくのです。
今日の聖書箇所、エペソ人への手紙4章は、クリスチャンに対するお勧めです。28節 「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け 与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」
大小さまざま盗んで生きて来た人生に終止符を打った私たちは、「もう盗まない」だけにとどまらず、これからは「分かち合って、助け合って、ささげて」生きるのです。世界の多くの人たちが、「互いに盗み合わないで・盗ませないように」生きていけるように、私自身含め、私の家族も周りの方たちも「互いに盗み合わないで・盗ませないように」生きていけるように、私たちは貧しく困窮している方々に、今、飢え渇いている方々に、被災地で困窮している方々に、戦火を生き伸びている方々のことを覚え続け、祈り続け、神様の助けを真剣に願い求め続けていきます。神様から「あなたがたがあの人たちに何か食べるものをあげなさい」(マタイ14:16)そう示されたならば、喜んで何かをささげさせて頂きましょう。
自分のものと握りしめているものは、本当はすべて神様のものです。神様が造られ、あなたに託し、「正しく管理しなさい」と委ねられたのものです。それを正しく用いていきましょう。
困っている人に水一杯飲ませるために、美味しいご飯を届けるために、暖かい上着をはおらせるために、必要を少しでも支えていけるように、私たちは今週も、これからも「自分の手で正しい仕事をし、労苦して働」いていきたいと願います。田畑を耕し種をまき、会社で仕え、地域の方々と仲良く会話をし、家の中を整え、家族の衣食住に気を配り、そしてニュースや新聞を見て、必要を知っていきたいと思います。特に神の家族、教会の互いのことを覚えながら、祈り続け、手を差し伸べ続けていきたいと願います。
祈りましょう。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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