「くらやみの中に光が」

イザヤ書7章1―17節
1. しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2. 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

3. あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。

4. あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。

5. まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

6. ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

7. その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

第Ⅱアドベント主日礼拝メッセージ

2024年12月8日

イザヤ書9章1―7節

「くらやみの中に光が」


 冬至が近くなり、夕方、暗くなる時間が早くなりました。また毎日・毎晩のように雷と大雨(ひょう)が続きますね。私はまだ、この北陸の冬の天候に慣れることができずにいます。夜、子どもの習い事の送り迎えで車を出さなければならないのですが、雨の日の暗闇の運転はたいへん緊張します。よく前が見えません。白線が消えているように感じることもあります。もしも、車のライトも街灯も無かったとしたら、恐ろしくて運転など絶対に出来ないでしょう。

 そんな物理的な暗闇だけでなく、私たちの生きているこの世界には・この国には・そして私自身の中にも暗闇があります。混乱や矛盾が、痛みや悲しみが、分断や対立が、悪意や犯罪が、孤独や自己中心さが、不正義や不正が、将来への不安やそれを打ち消そうとする偽りの情報が、消したい過去や公には出来ない自分と家族の問題もあります。

 能登の方たちが、今も重く抱えておられるであろう暗くふさがれた気持ち。ウクライナの方たち、ロシアの兵士たちとその家族が直面し続けているであろう恐怖心や相手に対する激しい憎悪。ガザの徹底的に破壊し尽くされた建物の下で血を流している子どもたちと母親の悲しみと絶望。私たちには想像もつかない闇が広がっています。

 そんな2024年のアドベント第2週、与えられたみことばは「暗闇の中に大きな光が輝く」です。イザヤ書9章は1節から7節まで明るい内容です。苦しみから解放され、暗闇から光へ、絶望から希望へという前向きなメッセージです。

しかし同じ9章も後半を見ますと、どーんと重苦しい雰囲気がただよっています。今日は読んで頂きませんでしたが、8節以降には、北イスラエル王国が滅亡していく様子が預言されています。偶像礼拝の罪を犯し続け、真の神様ではなく周辺の強国を頼り、軍事同盟を結んで国難を逃れようとし、自分たちは賢く強いんだと傲慢になっている北イスラエル王国(9:9-10)に、神様が厳しいさばきをもたらされること(9:11-17)。神様によって強大な敵の軍隊が遣わされ、北イスラエル王国は滅ぼし尽くされること(9:18-20)が予告されています。

それは9章1節からの内容にも反映されています。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」

ここに出てくる地名、「ゼブルンやナフタリの地」(12部族に分割された土地のうちこの2部族への相続地)、「海沿いの道」(地中海のアコからダマスコへ至る道)、「ヨルダンの川向う」(ヨルダン川の東側:ギルアデの地)、そして「ガリラヤ」、これらは全て北イスラエル王国の領土でした。これら全ての場所が外国軍に侵略され、苦しめられ、辱められるというひどい現実が、実際に起きてしまうのです。第Ⅱ列王記17章 6-8節です。

6. ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。7. こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、8. 主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからである。

サマリアは北イスラエルの都です。紀元前722年、アッシリア軍によって滅ぼされます。そして国中の人たちが、遠くアッシリア(今のイラン・イラク辺り)へ捕虜として強制的に連れて行かれるのです。そして続く第Ⅱ列王記17章24節には、

アッシリアの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そしてセファルワイムから人々を連れて来て、イスラエル人の代わりにサマリアの町々に住まわせた。こうして、彼らはサマリアを占領して、その町々に住んだ。

カタカナだらけのなじみのない地名でいっぱいですが、侵略戦争に勝利したアッシリアは、負けた国の人々が反抗しないように、彼らを捕虜としてふるさとから無理やりアッシリアへ捕らえ移します。そして誰も住む人がいなくなった北イスラエルの土地に外国の人々を移住させるという占領政策を採ったのです。帰ることができる場所=ふるさとを奪ったのです。

イザヤ書9章1節で「異邦の民のガリラヤ」=「外国人が住んでいるガリラヤ地方」と呼ばれているのは、そういう歴史出来事があったからなのです。イザヤは、これから耐えがたい苦しみが待ち構えていること、闇がこの地を覆うようになること。恥ずかしい思いをいっぱいさせられることを語ります。しかし、どれほど苦難の闇が深まったとしても、その先に神様が必ず光を照らしてくださること。絶望がずっと続くことはなく、必ず希望があることを、イザヤは神様からの約束として語ったのです。9章2節「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」。この約束の実現が3節以降に具体的に語られていきます。

3節「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる」。人口が増加し、人々が心から喜べる日が来るのです。戦いに敗れ多くの人命が奪われました。その悲しみを拭い去ってくれるほどまで、新しい命が誕生する。神様がそのような祝福を与えると約束してくださるのです。

4節には、「あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ」。敵に支配され、束縛され圧迫されていた生活から解放される日が来ること。神様が独立と自由を回復してくださるという約束です。

そして5節は、「まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる」という平和の約束です。戦闘靴や軍服が不要な時代が来るというのです。

恐ろしい暗闇が押し寄せて来ても、その先に必ず明るい未来が与えられる。この約束は、いつ、どのように成就したのでしょうか。イザヤが見た幻は、いつのことでしょうか。イザヤ書9章6,7節です。ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

有名なメシヤ預言=救い主誕生の預言です。イザヤがこの預言を語ってから約700年後に、ひとりのみどり子=赤ちゃんが、私たちのためにお生まれになったのです。このお方こそ主イエス・キリストです。

9章1節に、「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける」と語られているように、救い主イエス様はガリラヤ出の人と見られていました。かつて異邦人に占領されたあの地「ガリラヤのナザレ村から何の良いものが出るだろうか・・・」(ヨハネ1:46)と見下されていた地方出身の人として、イエス様はこの地を生きてくださったのです。ガリラヤから全世界の救い主、本当に素晴らしいお方が現れたのです。そして先ほど交読したマタイの福音書4章で語られていた通り、救い主として公に出られたイエス様は、まずふるさとガリラヤ地方全体を回られ、そこで神の愛を言葉で、また御業で表されたのです。マタイはイエス様のこのお姿に触れた時に、「ああ!本当にイザヤ書9章の神様の約束が実現したんだ!」と感動したのです。

神様はイザヤを通して、やがて遣わされる救い主イエス様のご性質を4つのお名前で紹介しました。

  1.  不思議な助言者 
  2. 力ある神
  3. 永遠の父
  4. 平和の君


  1. このお方は不思議な助言者です。英語では、Wonderful Counselor, すばらしい、驚くべきカウンセラーと表現されています。昔、王様のすぐそばには、知識・経験豊かな助言者が側近として待機していました。主イエス様はそのように、あなただけの助言者として、あなたと共にいてくださるというのです。(もちろん、すべての人の素晴らしい助言者ですが、)あなたと一対一でイエス様は向き合ってくださるのです!すごいことです。畏れ多いことですが、そうなのです。イエス様は、あなたの祈り・話しを聴いてくださり、思いを知っていてくださるお方です。そして、あなたに語りかけてくださいます。「わたしは分かっているよ。わたしも人となって同じ体験をしたよ。つらいね、苦しいね、悲しいね。でも大丈夫、わたしはそれに勝利したから。その重い荷物をわたしにゆだねてごらん」と、あなたに寄り添っていてくださるのです。
  2. そして、このお方は力ある神です。英語では、Mighty Godです。天地万物を創造され、すべてを動かしておられる真の神様です。すべてを知っておられ、最善のご計画に従って、お望みになられることをすべてなし得る全能なる神様です。イエス様はこの地上で、力ある神としてのお姿を見せてくださいました。人のどんな病も、また荒れ狂う自然界も、そして恐ろしい悪魔や悪霊に対しても、イエス様は一言でそれらを癒し、支配し、退けられました。そしてイエス様は、私たちのために約束されたことを必ず果たしてくださる力ある神なのです。
  3. イエス様はまた永遠の父でいてくださいます。英語では、Everlasting (Eternal) Fatherです。父なる神様との関係においては神のひとり子イエス様ですが、私たちにとっては、イエス様も父親のような存在です。無条件の愛を注ぎ続けてくださるお方です。あの放蕩息子のように(ルカ15章11節~)、本来は愛される資格など、もうとうに失っている私たちです。それなのに、なおも愛していてくださる父のようなイエス様なのです。それも永遠に続く関係なのです。イエス様は、あなたの心の痛み・あなたのたましいの傷を知っていてくださり、それを癒してくださるお方です。イエス様は、あなたが涙ながらに、自分の過ち・罪を告白する時、イエス様も共に涙してくださり、「あなたのために、もうわたしがすでに十字架に架かって身代わりに死んだ。だからあなたを赦す」と宣言してくださるのです。子であるあなたが抱えた闇のような現実を、罪人であるあなたの本当の姿を誰よりも知っていてくださり、そこに光を照らし、救い出し、導いてくださるイエス様なのです。
  4. イエス様は平和の君です。英語では、Prince of Peaceです。天上はるか高くにおられた神の王子(Prince)であるお方が、この世界の一番低い所まで降って来られました。お生まれになった場所は家畜小屋の中でした。イエス様は、上からもたらす平和ではなく、下から積み上げていく平和を身をもって示してくださいました。この世の政治力・交渉力・法の権威・軍事力・経済力などによって、和解や平和をもたらそうとはなさいませんでした。まずご自身が下になられて、仕える者としての姿で、ご自身の命までも犠牲とされて、父なる神様と私たちとの平和をもたらされました。ご自身の生き様・教え・御業・死に様を通して、私たちに「平和を作る者」としての生き方を示されたのです。


最後に今回、イザヤ書9章のみことばを思い巡らす中で教えられた二つのことをお分かちします。

一つ目は、まことの光なるイエス様ご自身から、私たちは目を離してはいけないということです。私たちは自分好みの「光」をイメージし、追い求め、それを「光」だと信じて、取り入れようとします。苦しみからの解決策。問題への対処法をこの世の人の言葉や知恵に求めてしまいます。今から約2,700年前のイスラエルの人たちも同じでした。今日のイザヤ書9章の直前、8章19節にはこうあります。 人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。

霊媒師、占い師のような者の言葉を信頼するなと、神様は警告されます。まことの光はそこにはないのです。恐ろしい闇の力、悪霊の支配がその先に待っています。それに対して、イエスは「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネの福音書8:12)と宣言されます。私たちが「こうであったら良いな。こうなったら良いな」と思い描く「光」とは違う「まことの光」こそイエス様なのです。闇から救い出すことができる真の救い主はイエス・キリストだけです。永遠に消えることなく、変わることのないイエス様の御声を聴き続けて行きましょう。救い主イエス様を慕い求め続けていきましょう。先ほどのイザヤ書8章の次の節、20節にはこうあります。「ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。」


続いて教えられた二つ目のことは、神様との関係においては、私たち人は主権者ではないという事実。神様だけが絶対的主権者なのですから、私たちは神の主権の下にへりくだり、神の主権を信じ、待ち望み、従う者でありたいということです。イザヤ書9章7節「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

争いが絶えない世界に生きている私たちキリスト者は心痛めながら、「主よ、戦いをすみやかに終わらせ、平和をお与えください」と祈ります。でもその時、「どうしてイエス様は平和の君なのに、今すぐに平和をもたらされないのですか? あなたは何も動いておられないのではないですか?本当に神様は生きて働いておられるのですか?」などと、不信仰になってはいけないのでしょう。

この国の政治の世界では、私たち国民が主権者です。私たち国民が政治家を選び、「こんな世の中にしてほしい」という願いを代表者に託します。彼らがその期待に応えていないと判断するならば、次の選挙の際などに、代表者は交代させられます。

けれども、神様との関係はそうであってはいけませんし、違います。神様が絶対的主権者です。人間の願うようなあり方で、自分好みの方法で、自分の願う時に動く存在であるなら、そんなお方は神様ではありません。人間が上になってしまいます。永遠を知っておられ、すべてを支配されている神様が、人間には知り得ない最善を知っておられ、最善の御業を実現されるのです。

2000年前、天から神の御子イエス様が降って来られた時、人々は自分たちが期待し、思い描く「理想の王様」になってもらおうとイエス様を取り囲みました。悪魔も「そうなったら良いじゃないか!」とイエス様を誘惑しました。それは人間的魅力や力強さによって、人の願いを叶えてくれる王様でした。イエス様は、それにはっきりと「No!」と拒絶なさったのです。その結果、「期待外れだ」と失望した人々は、イエス様を「十字架に付けろ」と死に追いやってしまうのです。真の光を闇の力が打ち破ったかのように見えました。

しかし、そこにも神様の最善のご計画があったのです。闇はまことの光に打ち勝つことができませんでした(ヨハネの福音書1:5)。イエス様の十字架は、私たち罪人を赦し、救う確かな希望の約束となりました。まことの光は消えませんでした。十字架の死からよみがえり、今も世界中で輝いています。世界中でイエス様の誕生が祝われ、イエス様の死と復活が宣べ伝えられています。

王なる神様の「最善の時」と「最善のご計画」がある。神の主権があることを信じ、神様に従い、お委ねして歩んで生きたいと願います。

お祈りします。


王の王 主の主なる 父なる神様

2024年のアドベント。闇が広がり、深まっているように感じるこの世界です。私の心の中も同じです。そこに光が照ってほしい、光が輝いてほしいと願います。「私の願うように光が照ってほしい。重たいこの心を今すぐに軽くしてもらいたい」などと安易に考えてしまう私自身です。

しかしまことの光はあなただけ、ただ一人の主権者は、あなただけであることをいつも覚えさせてください。

あなたには最善のご計画、最善の時、みこころが用意されていることを信じ、期待し、その実現を祈り求めながら歩ませてください。

あなたの主権に従い、その主権のもとに生きることこそ、私たちが闇から救い出され、まことの光の内を安心して生きることができる、神様からの最高の祝福であることを体験させてください。

王の王 主の主なる御子イエス・キリストの御名前を通してお祈りいたします。

アーメン

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