「しもべとなられたキリストにならって」

イザヤ書42章1-9節
1. 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
2. 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。

3. 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。

4. 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」

5. 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。

6. 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。

7. こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。

8. わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。

9. 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」


第Ⅲアドベント主日礼拝メッセージ

2024年12月15日

イザヤ書42章1 -9節

「しもべとなられたキリストにならって」  


アドベント第3週目を迎えました。先週はイブ礼拝の準備のために、買い物に出かけました。ろうそくのような形をしたLEDライトとそれを入れるためガラスの入れ物を100円ショップに探しに行きました。

個々のキャンドルについて、「本物のろうそく」にするのか、それとも「電池式のライト」にするのか、礼拝後のお茶会の場などであれやこれや、皆で話し合って来ました。「キャンドルサービスは、やっぱり本物のろうそくが良いよね。火のあたたかさを感じながら、その火をお隣の方に回していくことに意味があるのでは。まことの光であるイエス様の光を広げていくっていうイメージで」。「それも分かるけど、本物の火は、紙や物に燃え移ってしまう火事のリスクをどうしても否定できない。昔のようにマッチを擦って火を付けたり、たき火をしたりしなくなった現代人の私たちは、本物の火を扱うことに慣れていていない。LEDのライトにしましょう」。後者の意見に納得し、電池式のライトが選ばれました。

実際に100円ショップに行ってみて、困りました。まずガラスの入れ物の売り場が分からずに、そして欲しかった商品の数が足りずに。教会の皆さんに電話したり、ラインで「近くのお店に探しに行って頂けませんか」と呼びかけたりして、皆さんに走り回って頂いて、何とか数をそろえることができました。

そんな100円ショップでの買い物の他に、もう一つ、礼拝堂の蛍光灯が一か所、付かなくなってしまいましたので、ホームセンターに買いに行きました。ダメになった蛍光灯をお店に持って行き、同じものを選び、レジで「これで合っていますか。それと、この古い蛍光灯を処分して頂けますか?」とお願いし、引き取って頂きました。私たちはもう付かなくなった電球や蛍光灯には、何の関心も未練もありません。ゴミとして扱います。それを後生大事に保管しておく。ましてや光を発しない蛍光灯をそのままずっと取り付けておくことはしないでしょう。無用の長物です。

「役に立つか立たないか」、「意味があるかないか」、「私にとって価値があるかないか」で、人や物事をすぐに判断することが当たり前になっている私たちに、神様は聖書のみことばで驚くべきことを語られます。イザヤを通して与えられたメシヤ(救い主)預言を通して、来るべき救い主は、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」(イザヤ書42章3節)というお方なのだと!

「葦(あし)」は、よく湿地や池・湖などのほとりに生えている背の高いイネ科の植物です。日本では、すだれや茅葺(かやぶき)屋根の材料として使われているそうです。「あし」という言葉の響きが「悪(わる)い」という意味の「あし」と同じということで、関西では反対に「よし」と呼んでいるそうです。

「灯芯(とうしん)」は、亜麻布を作る糸を紡(つむ)いで作られたもので、油を吸い上げ、火をともすひも状のものでした。

傷んだ葦やお花は、枯れたり朽ちたりしてしまえば、もう花瓶には飾っておかないでしょう。折ってごみにして捨ててしまいます。また、ぷしゅぷしゅ煙だけ吐いて、炎を出さない くすぶる灯芯も用なしだと普通考えます。役に立たないもの、価値の無いもの、そんなものでも神様は絶対に見捨てない、キリストはそのようなお方だと、今日のみことばは教えているのです。

傷んでいるからこそ、一層手厚い保護が必要だ。薬をぬって、包帯を巻いてくださる神様の愛。くすぶる灯芯が、また明るく光るように、灯芯をもみほぐし、油を足し、輝かせてくださる神様の愛が、キリストのうちにあふれているのです。

イザヤは、イエス様がお生まれになる700年以上も前に、やがて来られる救い主について預言しました。42章9節「初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる」とある通りです。

今日のこの箇所には、大切な2つのことが語られています。第一に、やがて来られる救い主が、どのようなお方なのかということ。第二に、この救い主を信じる私たちが、どのような存在になっていくのかということです。

まず救い主は、どのようなお方でしょうか? イザヤが神様から示され、繰り返し預言している救い主の姿は、何と「しもべ」となられたお方でした!!

42章1節、「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」救い主イエス様は神の御子であり、父なる神様と密接につながっておられるお方です。父なる神様にとって御子イエス様は、「わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者者」と言われるほど、「存在自体が喜び」であるお方です。また、「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」とあるように、御霊なる神「聖霊」が豊かに注がれているお方です。三位一体の神であるお方、その御子なる神が、なんと「しもべ」となってくださったのです。

「しもべ」それは使用人であり奴隷です。父なる神の御心に、どこまでも従順に従い抜いてくださる「しもべ」です。さらに、私たち人間に対しても「しもべ」となってくださるというのです。あり得ないように感じてしまう驚くべきことです!! 

5節「天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主」とあるように、天地万物を創造され、それらすべてを支配し、さらに私たち人間に命を与えてくださるお方が、まことの神が人となられた。しかも「しもべ」となってくださったのです!傷んだ葦、くすぶる灯芯のために。

傷つきやすく、弱々しく、あてにならないもの。それが私たち人間の本当の姿なのです。ちょっとしたことで私たちの身体や心は、傷つきます。また信仰的にも、ずっと燃え続けてはいられません。私たちのたましいは、熱しやすく冷めやすいのです。

そんな頼りにならない私たちを決して見捨てず、見放さず、忍耐とあわれみと愛をもって生かし続けてくださるのが、救い主イエス様なのです。私たちの救い主は、傷んだ葦である私たちに新しいいのちを与えてくださいます。そのために、救い主自ら傷んだ葦となられ、ぼきぼき折られてくださいました。救い主自ら十字架に架かり、傷付けられ、釘打たれ、ぼろぼろになって、死んでくださいました。

私たちの救い主は、消えかかっている灯芯の炎、私たちの心の炎をもう一度、燃え立たせ明るく輝かせるため、まず自らのいのちのともしびを消し去ってくださいました。

主イエス様のみことばです。マルコの福音書10:45 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

救い主は、私たちのためにご自身のお命までもささげてくださった。例えて言えば、陶芸家が、自分が造った作品が落ちて割れそうになっているのを見て、― しかも上手く出来なかったように思われる作品なのに、― その陶器が地面に落ちて割れないように身を挺して、その陶器を守ってくれた。その結果、陶芸家自身が命を落とすことになった。そういったあり得ないような、あってはならないような大きな犠牲を創造主である神様は、被造物である私たちのために支払ってくださったのです。

私たちのこれまでの人生を振り返る時、このイエス様の愛、イエス様の憐れみ深さに気付かされるのではないでしょうか? 傷ついた葦のような私をいたわってくださり、再び立ち上がらせてくださった主の恵みがありました。冷え切っていた私の心を温かい光で照らしてくださったイエス様の大きな愛がありました。

42章2節「彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない」とあるように、神様の愛は静かに目立たたずに、それであっても日々、しっかりと私の上に臨んできたのです。これまでも、今日も、これからも。

そのことによって、イエス様は「さばき」をもたらしてくださったのです。人間の「裁き」は、因果応報に基づくものであり、ときに独りよがりです。「罪を犯した人は、当然の報いとして、それにふさわしい罰を受けるべきだ」「悪人は裁かれ罰せられ、滅ぼされて当然だ」。「無用の長物は処分されて当然」だ、と私たち人は勝手に裁きます。

しかし、神様のさばきは、「罪深い者になおも忍耐深くあられ、その罪人が神に立ち返り、赦され、生かされること」を期待し続けてくださっている神のさばきなのです。先ほど、交読したルカの福音書13章1-9節、イエス様のみ教えにあったように、悔い改めない者に滅びをもたらすことができるさばき主なる神様は、同時に、長いこと待ってもなかなか実を結ばない、いちじくの木のような私たちのために、なおも肥料をやり、実を結ぶことを待ち続けていてくださるお方なのです。

さらにイザヤ書42章4節は、私たちのために死なれたイエス様が、そのままで終わることがないことも約束しています。「衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」

自ら折られたもの、消されたものとなられた救い主は、そのまま消え去ってしまわれませんでした。「衰えず、くじけない」と語られている通り、三日目に墓の中からよみがえってくださいました。死から命へとよみがえってくださいました。そして、この救い主が、二千年経った今、世界中で宣べ伝えられています。イザヤは、このお方、主イエス様を預言したのです。


続いて、今日の2つ目のテーマ、この救い主を信じる私たちが、どのような存在になっていくのかということです。キリストを信じ、キリストに従いたいと願う私たちは、神様によって、どのような存在に変えられていくのでしょうか? 

42章6節です。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。」

くすぶる灯芯であった私たちが、世の光なるイエス様と出会う時、「国々の光」として用いられるというのです。私たちが人々に契約・神様の祝福の約束をもたらす存在になっていくのです。私たち一人ひとりが、この世界に光をもたらす者となっていくのです。そのために、神様は私たちを選び出してくださいました。そのために、神様は、私たちの手を握り、私たちを励まし、見守っていてくださるのです。本当にすごい約束です。

暗闇に満ちている世の中で、光として歩むようにクリスチャンは召されています。イエス・キリストの光を反射させながら、輝かせながら歩む生き方です。私たちの使命、教会の使命は、心傷んでいる葦のような方々、悲しんで、つらくて、喜べない方々。明るい光の中ではなく、くすぶって闇の中を生きている方たちを決して見捨てない。大切にしていくことです。

まず私たち自身が、傷んだ葦であり、くすぶる灯芯であること。そんな私たちを神様は見つけ出し、救い、生かしてくださっているから。私たちもこの神様の愛に応えていきたいのです。傷んだ葦のために、くすぶる灯芯のためにしもべとなってくださったイエス様。よごれた足を洗い仕えてくださったイエス様。「わたしの願いではなく みこころの通りにしてください」と、父なる神様のみこころに徹底的に従ってくださったイエス様のお姿。そのイエス様のお姿にならう私たちでありたいと願います。

しもべとしての生き方。それは究極的には、いのちをもさしだす愛です。ゆずれないもの、大切なもの、握りしめているもの、プライドなども捨てて、しもべとして主なる神様に従う、神様の愛しておられる人々に仕えていく生き方です。福井中央キリスト教会の中にそんな仕えておられる姿が、神様のしもべとなっておられる姿が、たくさんあることを覚えています。

傷んだ葦を折ることもせず、くすぶる灯芯を消すこともしない。このキリストの愛、キリストのご配慮に、私たちも倣っていきたいと思います。そこまでして、私たちを救い出してくださり、生かしてくださる、しもべとなられたイエス様に近づいていける私たちでありたいと思います。

祈りましょう!


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