イザヤ書49章 5-13節
5. 今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目(おんめ)に重んじられ、私の神は私の力となられた。
6. 主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」7. イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、人に蔑(さげす)まれている者、国民に忌み嫌われている者に、支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。真実である主、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」
8. 主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。
9. わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。
10. 彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。
11. わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。
12. 見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者は シニムの地から来る。」
13. 天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。
クリスマス礼拝メッセージ
2024年12月22日
イザヤ書49章 5-13節
「イエス様は私の光」
2024年のクリスマス、おめでとうございます! 今年の12月、私はイエス様お誕生の出来事を聖書から読んでいく中で、何とも言えない感動、喜びが心の中に湧いて来るのを感じました。
「師走」とも呼ばれる12月です。普段は落ち着いているお坊さんや先生方も、仕事に追われて、走ってしまうそんな月です。私は、それほど忙しい日々を送っているわけではないのですが、なぜだかいつもギリギリまで仕事が終わらず、最後は焦って走ってしまいます。これまで12月、私はいくつものクリスマス集会やイベントを準備し、それに参加し、こなしていくので精一杯になってしまい、正直、クリスマスを喜べない状態になっていたこともありました。
けれども、今年は「神の子イエス様が生まれて来てくださった。こんな私のために、この世界のために、最も尊いお方が赤ちゃんとして降って来られた!」その感動が胸にジーンと迫って来て、目頭が熱くなることが何度かありました。
クリスマスの喜びや感動をこの朝、皆さんとともに分かち合っていきたいと願っています。また、これまでの私がそうであったように、「正直、クリスマスを喜べないなあ…。毎年のことで、もう感動などしなくなっているなあ…」。もしも、そのような方がおられるとしたら、私たちからクリスマスの喜びを遠ざけているものは何なのか? そんな妨げを、私たちはどのように取り除けていったら良いのか? ということも、合わせて思い巡らしていきたいと思います。
先ほど読んで頂いた聖書の個所は、「イザヤ書」という書物です。イザヤは、イエス・キリスト誕生から700年以上前に、イスラエルの地にいた預言者でした。「言」葉を「預」かった「者」という名の通り、預言者は天の神からことばを託され、それをその時代の王や高官、また自国と他国の人々に語りました。その内容はときに厳しく、同時に神の愛とあわれみに満ちたメッセージでした。ときに国や民族に迫る危機を語り、同時にそこからの回復の希望も語りました。
預言者のメッセージには、二重三重の意味(神のご計画)が込められていました。ある旧約聖書の学者は、神様が預言者に見せたイメージは、まるで山脈を離れて見つめるようなものだったのではないかと教えています。1枚の写真、または1枚の絵に描かれた雄大な山脈は、平面に見えますが、実際の山脈は、山と山の間に深い谷があったり、川が流れていたり、相当な奥行きがあります。
神様が預言者に見せたイメージは、1枚の山脈の絵のように、その時代の人々にすぐに影響を与える神の約束もあれば、数十年先のことも語られていて、さらにもっと先、数百年、そして数千年先の未来のことも神様は予告し、預言者に語らせていたのです。
そんな理解に立ちながら、今日のイザヤ書49章を見ていきます。ここに出てくる主なる神によって母の胎内で形造られ、重んじられ用いられる神の「しもべ」(5,6節)にも二重三重の意味が込められています。
ここに出てくる「しもべ」とは、いったい誰のことなのでしょうか?
- 「しもべ」は、まず「イスラエル全体」を指しています。今も世界を騒がせ、国際情勢に大きな影響を与えているイスラエルでありユダヤ人です。聖書によれば、彼らは神様に選ばれ起こされた民族でした。創世記に登場するアブラハム(紀元前1900年ごろの族長)から始まる民族です。イスラエル民族は、まことの神を知り、神に助けられ、神のことばに聴き従って生きるという特別な使命が与えられていました。それは、彼らの存在を通して、他の民族もまことの神を知り、まことの神を信頼するようになるための「祝福の基」となるという使命でした。
- また主の「しもべ」は、「真のイスラエル」も意味していました。このことの時代背景を説明しますと、イザヤが生きていた紀元前700年頃、イスラエルは、王を筆頭にまことの神をないがしろにし、周辺諸国でまつられていた偽りの神々(偶像)の前にひざまずくような裏切り行為を神様に対して犯しました。それに対して、神の怒りがもたらされると、預言者は繰り返し警告しました。悲しいかな、警告通り、ユダヤ人国家は外国の軍隊に侵略され、消滅させられたのです。東の大国アッシリヤやバビロンによって国が滅ぼされます。そしてユダヤ人はバビロン捕囚(敗戦国の捕虜として東の帝国に強制連行されてしまう)を経験するのです(紀元前600年前後)。今日の聖書箇所にも、その時の恐ろしい光景とそこからの回復(バビロンから帰還し、ユダヤ人国家が再建されていくこと)が予告されています。イザヤ書49章5節「イスラエルをご自分のもとに集めるために」、6節「イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせる」、8,9節「国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。」12節「見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者は シニム* の地から来る。」 * エジプトのどこかを指すと考えられている。絶対的と思っていた国が滅び、ずっと続くと思っていた王権が途絶えかに見えた時、そして外国に捕虜として連行されて行った時、かつて自分たちに神のことば(警告)を語ってくれた預言者を思い出した人たちがいました。耐えがたいこの試練は、自分たちが犯した罪に対する神のさばきだと認め、神に立ち返る人たちがいました。彼ら「真のイスラエル」を「しもべ」として神は用いる。国家再建のため、何よりも信仰復興のために:「まことの神のみを礼拝し、神のことばにのみ従うこと」を人々に教えるしもべを立てると神様は約束されたのです。
- さらに「しもべ」は、「預言者」:イザヤ本人やその他おおぜいの預言者たちのことも指しているでしょう。
- そして、クリスマスの主人公であられるメシア=救い主=神の子・イエス・キリストを指し示しています。神様はその誕生から700年以上も前に、予告しておられたのです。山脈の手前の山、奥にある山と、様々な存在について語られている神の「しもべ」ですが、今日はクリスマス礼拝!メシア=救い主イエス様に焦点を当てて、このみことばを探っていきます。
5節「今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。」
多くの人たちを、私たちをまことの神に立ち返らせるために。私たち罪人をほろびではなく救いに導くために、永遠の死ではなく永遠のいのちに至らせるために、イエス様は来てくださいました。母の胎内、マリアのお腹の中に聖霊によって宿ってくださったのです。
6節 主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
イエス様は、私たちに光をもたらしてくださる。聖書はそう約束しています。イエス様ご自身が光です。「国々の光」:今日も世界中のキリスト教会でイエス・キリストの光が輝いています。イエス様のご降誕が喜ばれ、イエス様の素晴らしさが語られ、賛美され、礼拝されています。
「国々」また「地の果て」の中には、平和な町の中で暖かくされた教会の中で賛美歌を歌える人々もいれば、同時に今も戦時下にある国々、内戦で疲弊している国々、国を失った難民たち、迫害されいるクリスチャンたち、牢獄の中にいる囚人たち、病の床でふせっている方たち、家から出ることが出来ない方たち、今もお仕事に従事されている方々もそこには入っています。イエス・キリストが地の果てまで、すべての人の光であられるということは、今、喜びや希望に満ちている人だけでなく、「何のために生きているのか」分からなくなってしまった人の「光」でもイエス様はあられるのです。そこには、私もあなたも、あなたの家族も友人も、同僚も同級生も含まれています。
では、イエス様はどのような光なのでしょうか?
1. 温かな光・ほっとする光
イエス様は、まぶしく、きらびやかに登場されませんでした。ベツレヘムの村の馬小屋の飼い葉おけに赤ちゃんイエス様は寝かされました。宇宙一 気高いお方が、最も低く、最も貧しいお姿で生まれてくださいました。だからこそ、当時もっとも低く見下されていた羊飼いたちも、神の救いからほど遠いと見られていた異邦人の東の国の博士たちも安心して、イエス様の誕生をお祝いするため、そばに近づけたのです。
現代のようにきらきらしたネオンや明るい電灯など無かった約2000年前の世界、夜の明かりはロウソクやあんどんのようなものでした。イエス様はロウソクの灯のように優しい光で私たちにともしてくださるのです。
7節 イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、人に蔑(さげす)まれている者、国民に忌み嫌われている者に、支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。真実である主、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」
さげすまれている人たち、忌み嫌われている人たち、奴隷の友となってくださるお方、それがイエス様なのです。イエス様は「罪人の友」と呼ばれることを嫌だとは思われず、事実、当時、社会から排除されていた人たち、差別されていたり、抑圧されていたり、病み苦しむ人たちに寄り添ってくださり、救いをもたらされたのです。
13節 天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。
イエス様の内に、私たちは慰めの光、あわれみの光を見出していきたいと思います。
2. 暗闇を照らし出し、暗闇を打ち破る光
先ほど交読したヨハネの福音書12章46節に、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです」と、あったようにイエス様はご自身のことを「光」だと言われました。光は闇の中を照らし出します。そこには安心が生じることもあれば、ときには闇の中では見えなかった、見たくなかった現実が照らし出されることもあります。部屋に光が差し込むとき、空気中に舞っているほこりが見えてしまうように。
イエス様の光は、この世界の悪や罪、また私たちの心の闇を照らし出します。私の中に弱さ・不安・恐れ・傷があることを照らし出します。私たちの内に罪があることを照らし出すのです。その闇に対する解決・救いをもたらすためにイエス様は来てくださいました。
3. いのちを与える光
ヨハネの福音書8章12節、 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
多くの植物にとって、光は成長のため必要不可欠です。太陽の光かもしれませんし、人工的な光であっても。
私たち人にとっては、イエス様というお方が必要不可欠です。私を支え、生かしてくださるお方です。私たちがそれぞれ抱えている闇を癒し、赦し、救い出し、光の中に私たちを入れてくださるお方がイエス様なのです。
この光なるお方をしっかりと見つめ、この光なるお方を信じ、光なるお方の中にとどまり続けること。それこそ聖書が教える私たちにとって一番大切なことなのです。
イザヤ書49章8節 主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。
クリスマス=イエス・キリストのご降誕に感動できない…、喜べない…。その原因は何でしょうか? 余りも日常の雑事が忙しいからでしょうか? 身も心も疲れ切っているからでしょうか? 心配事をたくさん抱えているからでしょうか?
それらは、もしかしたら私たちの心・目・耳をおおっているカーテンのようなものかもしれません。せっかく光がさしているのに、光がこちらに向かって来ているのに、私たちの方で違う方向を見、暗幕のようなもので心・目・耳をふさいでしまい、まことの光が届かないようにしてしまっているのです。自ら闇の中に入り込んでいるのではないでしょうか。心のカーテン、それは自我や貪欲かもしれません。世間体とか人の評価を必要以上に気にし、恐れていることかもしれません。
朝、目覚めた時、カーテンを開けて明るい太陽の光を浴びるように、私たちも心に掛かっているカーテンを開きましょう。まことの光なるイエス様を見つめましょう。耳にかかっているカーテンを開きましょう。イエス様のみことばを聞きましょう。 心の目にかかっているカーテンを開けて、イエス様のみ姿を心で見ていきましょう。自分の力ではそのカーテンを開けられないならば、神様に「取り除けてください。光をさしてください」と祈っていきましょう。
今が恵みの時です、今が救いの日です。
お祈りします。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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